「コットンツアー 2015 . 5」に参加して  高田 緑

「コットンツアー2015 .5月」参加者((撮影 : コットンプロジェクト福島)

「コットンツアー2015 .5月」参加者((撮影 : コットンプロジェクト福島)

5月23日・24日、コットンプロジェクト・福島(代表:渡邉真紀湖) 主催の、綿花の苗植え体験ツアーに参加してきました。
コットンツアーの開催は今年で4年目。4月の種蒔きから始まり、苗植え、草取り、摘芯、綿摘みと一年を通してのコットンツアーが開催されています。

栽培を管理しているのは、福島県二本松市のオーガニックふくしま安達の有機農家さん。農家民宿に泊まり、有機野菜を使った料理を食べて、オーガニックコットンの寝具にくるまれて眠る。食だけではなく、生活の中にオーガニックを取り入れる窓口としてのツアーには、今回は、初めて福島県を訪れたという参加者もいました。 福島県で綿花が栽培されているのを知り、また「福島県に行ってみたい」との希望で参加してくださいました。

当日は、最高気温が東京よりも高くなった炎天下での苗植え作業。事前にマルチを張って、後は苗を植えるだけの準備をしてくださっていたので、私たちはただひたすらに、10センチ程に育った苗を優しく定植しました。そう、優しくです。「生きてちょうだいね!」と、声をかけながら土に植えていたのです。 この苗が、雑草や害虫にも負けず、花を咲かせ実がなり、綿(わた)になり、種を取り除き、糸を紡ぐ。糸が織られてコットン製品となる…。この果てしない緻密な工程を、先人たちは日常の生活の中で行っていた事に、毎回、改めて敬服せずにはいられません。

綿花の苗植え(撮影 : 高田 緑)

綿花の苗植え(撮影 : 高田 緑)

福島県では、会津地方での綿花栽培の歴史が古く、天生年間に綿花栽培が推奨され、会津木綿が藩の特産品の一つとして、今なお400年の伝統が受け継がれています。

二本松市では、【地元の農地で有機栽培された綿花を原料に使い、衣服や小物に加工して活用することで、農業の6次産業化を目指し、都市と農村の地域間交流を推進しながら、日本の農産物の自給率向上に貢献する、という思いを「かたち」にしていく】(コットンプロジェクト福島より) というコンセプトの元、震災後から取り組んでいるそうです。

山里で土に触れ、根付いた苗に水をやる。青蛙が飛び、山からは鳥のさえずり。見上げれば青く澄んだ空。全てが自然と平和の成せる業であることが、参加されたかたの笑顔から滲みでています。 生産量はまだまだ少ないようですが、参加することにより、自然の恩恵なしでは人は本来、生きてはいけない、そんな有り難さのようなものを感じることができれば良いのではないかと、私なりに解釈しています。

農家さんの作業は果てしなく、日々続いています。一日二日の数時間では、現実的な苦労も理解出来たとは言えませんが、とにかく、コットンツアーは様々な醍醐味があります。 東北地方の厳しい気候の中での農作業の合間にあるお祭りごとのように、楽しいご褒美も満載です。

餅つきを体験( 撮影 : 高田 緑)

餅つきを体験( 撮影 : 高田 緑)

福島県を初めて訪れた参加者の若い女性が、富岡町から避難されてきたお孫さんをもつおばあちゃんの話を、対面で瞳を見つめながら聞いていたのがとても印象的でした。これも参加しなくては、分からなかったことかもしれません。
コットンツアーは、次回は草取りです。
フワッフワッの綿花に癒される日を待ちわびながら…。

 

鮪の解体ショー  吉田葉月

今日は、母が栃木県内に借りているアパートに来ている。
震災後、今の同居人と暮らすようになるまで、居候させてもらっていたりしていたところで、今も時々来ている場所。

歩いて20分ほどの決して大きくはないスーパーに、食材を買いに出かけた。途中の道の両端には、メガソーラーがびっしりと並んでいる。一年くらい前までは田んぼだったことを覚えている。あれよあれよという間に、更地になり、メガソーラーの場所となった。このメガソーラーから発電された電気が何に使われているのか、私は知らない。

スーパーのドアを通り抜ける。スーパーは騒然としていた。
男性の威勢の良い声が響く。人々が群がっている一角がある。

マグロの解体ショーをしていた。
近づいていくと赤身がちらついた。付近に30人くらいの人たち集まり、集中して解体を見ている。
漁船の乗組員の作業着みたいな恰好をした鉢巻姿の男性が包丁を入れていく。骨から身が外されていく。魚の身の赤い色が綺麗だなと思う。魚の形が変形していき、大きく切り分けた身が、別のまな板に乗り、別の2人が更に小さな身に分けていく。それがパックに詰められ、キャスターの付いた商品棚の上に乗せられるや否や、誰かがさっと受け取る。そんな光景をその場で何度か目撃した。お客さんの食いつきが大変良いのだ。その場の補助に当たるお店の人たちの表情や声や姿も、心なしか生き生きして見える。

あれよあれよという間に鮪が捌かれていく。栃木県のスーパーにて。

あれよあれよという間に鮪が捌かれていく。栃木県のスーパーにて。

気付けば今日は土曜日。小さな子供たちは父親と思しきランニングシャツ姿の男性と、目の前でマグロの解体を見ている。大人たちは、お目当ての部位が商品となるまでマグロの姿を見つめているように見受けられる。小さな子供から年配の人まで、老若男女が、食べ物になっていく過程の生き物の姿に見とれているように見えた。見ている人たちには僅かながら、頬の紅潮も見て取れた。ごちゃごちゃガヤガヤしていていながら、集中と興奮が混在したようなかんじ。自分の好きな雰囲気だ。
こんな風にいきいきとした顔つきで食い入るように、生き物が人の手で変形する姿にみんなが感心を持っている。それが新鮮だった。あれ、意外とみんなもそういうとこあるのかな?という意味で新鮮だった。

私は福島の海辺の高校で水産高校生だった。私自身はあまり真面目ではなく、まともに技術らしき技術は習得していないけれど。マグロが海から漁師たちの手によって甲板につぎつぎと上げられ、頭に細い棒状のものが刺され息の根が止められる。ホースの水で血が抜かれていく。マグロの体重を測る。キャスターの付いた大きな青いトレイに寝せられ、冷凍室に運ぶ。その工程の中に、自分たち学生が当番で入っていく。作業着には血が付き、血を噴出された船首には生臭さが広がっている。

解体ショーの光景を見ていて、その様なことを思い出した。魚の匂いや赤い色は、私の若い時の記憶と繋がっている。

山梨で暮らしているときは、当時知り合った猟師に仲間らとついていき、犬でけしかけながら猟銃で撃つようなイノシシ猟に同行し、撃たれたイノシシの解体を見た。
猟師の手によってナイフが扱われ、河原で見る見るうちに赤い色を晒していくイノシシの姿。マグロの解体ショーに見入る人たちのように、目が離せなかったことを覚えている。マグロとも違うにおいがする。そんな体験は、生き物が死んで、ただ悲しいというようなものとは違った。死んでいく動物に戸惑う余裕はなく、素早く解体される。だから、それほど寂しくも悲しくもなかった。それよりも、目の前で肉とそうでないものに分けられていく空間が現れると、ともかく見届けたくてたまらない。そしてもう納得するしかない。当時は漁師や猟師に尊敬とか畏敬の念のようなものを抱いたものだった。漁師たちや猟師たちとの空間を、僅かでも過ごせて嬉しかった。

そういうわけだからか分からないけれど、動物の内側にある赤い色を見たり生臭い匂いに触れると、居場所を感じるような嬉しいなつかしさが自分の中に漂ってくる。

切り分けられるマグロ。₍撮影・吉田葉月₎

切り分けられるマグロ。₍撮影・吉田葉月₎

『双葉町モノクロ写真展「HOME TOWN」』を見て 天井優志

写真展チラシ

写真展チラシ

「双葉町の現状を知ってほしい」と企画された写真展を見に茨城大学へ行ってきた。そこには震災前後から現在までの双葉町を写し出した55点の写真が並んでいた。

写真展の会場内

写真展の会場内(5月16日撮影)

これらの写真を撮影したのはイギリス出身のアントニーさんとフィリップさん。
アントニーさんは2008年から。フィリップさんは2009年から双葉町の小中学校で英語を教え始め、現在でも埼玉県やいわき市にいる双葉町の子どもたちに英語を教えている。

モノクロでの展示は「より集中して見て感じてほしい」という想いもあるという。

「ピアニスト」から並ぶ壁際の写真

「ピアニスト」から並ぶ壁際の写真(5月16日撮影)

2011年3月4日の授業の様子―。
3月11日に校庭に避難している生徒の姿―。
教え子が防護服姿で自宅のピアノを弾く様子―。
バーベキューをしていた海岸―。
お世話になった農家―。
旧騎西高校での餅つき―。
並んでいるフレコンバッグ―。
子どもたちが遊んでいた公園―。

それぞれ慣れ親しんだ場所の”現在”が映し出されていた。
また、ひとつひとつの写真には説明やメッセージが書かれていた。

衝立に並ぶ写真(5月16日撮影)

衝立に並ぶ写真(5月16日撮影)

今回は話を聴きながら見ることもできた―。

「このキッチン高崎の定食が美味しいから何度も行ったね。
だから体が大きくなってしまったね(笑)友達が来た時もここにまず連れてきたね。」

「山も海もよく散歩したり遊んだりした。大好きな場所だった。」

「ここも大切な場所。この農家さんのうちでバーベキューやったね。」

話の中から双葉町の人や山や海に対する優しさや愛情を感じた。イギリスから日本に来て、生活をしていた双葉町に対する思いは特別なものだろうと思った。

見ていると

「これは親せきだ。俺は茨城が長いけれど、双葉生まれで大熊や浪江にも親族がいるんだ。」

と隣から年配の男性から声をかけられた。茨城大学で行われている放送大学を受けに来て偶然この写真展に入ったらしい。その男性も震災後に双葉郡内で色々と手伝いなどをしたという話だった。

また、会場内の一角に置かれたテレビではアントニーさんとフィリップさんの撮影姿を映し出している映像もあった。これは今回企画をした茨城大学院生の小野田さんの作品だ。双葉町に生まれ育った彼もまた、つながりのある人や町並みを記録し続けている。
震災前は顔見知りくらいの関係だった彼らは震災後、一緒に撮影をする仲間になった。

彼らのサインの入ったチラシ

彼らのサインの入ったチラシ

彼らのHOME TOWNである双葉町の
歩み交わりのあった”人”や”場所”の”それまで”や”現在”を
写真を通して歩ませてくれる想いのつまった展示だった。

心よりありがとう。

写真展の開催は27日まで。

————————————————————————                                                   『双葉町モノクロ写真展 HOME TOWN』

開催期間:2015年5月16日(土)~5月27日(水)
開館時間:平日9:00~17:00 土日:11:00~17:00
会場:茨城大学図書館展示室

〒310-0512 茨城大学水戸市文京2-1-1

http://www.icas.ibaraki.ac.jp/2015/05/futaba-hometown/

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わたしのふるさと

安達太良山  (撮影 : 遠藤教夫・郡山市在住 )
安達太良山  2015年1月
(撮影 : 遠藤教夫・郡山市在住 )

安達太良山に残雪がある間は、まだまだ郡山に春は来ない。
子どもの時から、そう聞かされていた。

私が幼き時期から住んでいた社宅からは、安達太良山や磐梯山、遥か遠くには那須連峰も望むことができた。

故郷を思うとき、心に潜んでいるのは『千恵子抄』の一節である。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。」
(高村光太郎著『千恵子抄』~あどけない話~より)

住んでいた郡山の社宅は、数年前に全て跡形も無くなく取り壊された。帰る「場所」と言うモノがあるならば、父の眠る墓地だけになってしまったのだろう。
その地から安達太良山を見る度に、故郷に帰ってきた自分がいることに安心する。
美しい山の曲線も、澄んだ空も何も変わってはいない。

山に登ればその山に立つことが出来るが、山の全景を見ることが出来ない。
故郷を離れてみて、分かったことが山ほどあった。
当たり前に存在していた豊かな自然。
自然の恩恵である美味しい水や食べもの。
あたたかい人々の心。

それらはいつまでも存在し、裏切ることがなく永遠に続くものだと信じていた。
帰れば待っていてくれるものだと思っていた。

四年前の三月十一日。東京にいた私の記憶は何故か曖昧だが、テレビに映しだされたニュースの信じがたい映像を何日も何日も見ていたのを覚えている。
親戚や同級生の安否を出来うる限り確認しては、刻々と深刻な状況に変化する映像に感情のコントロールをするのが精一杯だった。
暫くしてから、同級生からの「東京に一時避難する」とのメールがあり、その時、ことの重大さが実感としてやっと私に入ってきた。

夏休みになると、父と一緒に磐越東線の電車に乗って、海水浴に行っていた福島の海。
高校の夏の合宿でキャンバスに描いた福島の海。

あの海辺で、日本の誰もが想像を遥かに超えた異常事態が起きたのだ。
私は何をすれば良いのか。何をすべきなのか。
北へ向かうボランティアの人々の後ろ姿を、ただ目で追うだけだった。

二年が経ち、やっと郡山の駅に降り立った時の今までにない違和感。
それは、駅前に設置された放射線測定器を見た時の虚無感だった。
恐れにも近いものがあった。「無」になってしまう恐れであろうか。
だが、お墓参りをして、見上げた空の向こうには変わりのない安達太良山が待っていてくれた。

 「阿多多羅山(安達太良山)の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。」(高村光太郎著『千恵子抄』~あどけない話~より)

私の心にこの風景がある限り、その山、空がある限り、私の中に故郷「福島」は存在し続ける。
福島が故郷であることを誇りに思う。
私のルーツは福島県郡山市の何ものでもないのだから。

『日本と原発』(河合弘之弁護士初監督)をやっと観ることができた。これが福島の現実だ。
けれど私は、いつまでも故郷とともに歩んで行く。
ともにそこにいる。