空間を思い起こし、感情ではなく忘れていた人物たちに出会う  吉田葉月

何かを思い出そうとしたときに、体験に伴う強い感情があらわれて、思い出すことがより困難な時期があった。

震災に纏わるトラウマはあった。津波がいずれ私のもとに届き「もしや死ぬのか」と感じたが、その瞬間に、自由に逃げ出せなかったことは原因の一つだったのではないかと思っている。そのタイプのトラウマと混在していた、別の何だかよくわからない胸の苦しさ、頭の詰りは、どういうものなのかと、よくよくとほどいていこうとする。大震災以前からあった、「あのことに触れるのは窮屈な感じがする」「こういうこういう光景をみるとあれを思い出さずにはいられない」というような類のものを、芋掘りでもするように、ぞろぞろと引き出すことになった。

上記のような体験を出発として、激しい感情に引っ張られずにマトモに記憶を振り返るというのはどんなことなのと思うようになりました。

私は、記憶にへばりついている感情ではなく、暮らしていた空間をホログラムを立ち上げるようなイメージで思い出してみました。すっかり忘れていたと思いこんでいた幼少期や思春期の空間の印象の尾びれが、抽象画程度の光景として向こうからやってきたら、その光景の場所を起点として記憶に降り立ち、歩いたり、車に乗ったりしながら眺めまわるようなイメージの手法を取っていました。いつのまにかそうなっていました。

私はその行為に「記憶ストリートビュー」と名付けて親しんでいます。はじめてそれが起動した日には、何かのために何かをする意図はありませんでした。日中、家族と連れ立って話したり歩き回ったりしていた日の夜に、偶然、幼いころの光景が復元されたように近づいてきたのです。
たとえば、寝床などでそれを楽しんでいると、本当に子どもになってしまって、けれども今の自分の言葉で光景をなぞっていき、文として綴りました。それをやっていて思うようになったことがあります。

記憶の一部は、失われたとは限らず、今を生きていくためにそっとフェードアウトさせた可能性があるのかもしれない。

幼いころ通院していた病院の中にステンドグラスがあったとか、それに対して、向かいの位置にネオンテトラの水槽があったとかを、ぐりぐりとGoogleのストリートビューを操作する様に進んだり戻ったりして、記憶にある光景を立体的な地図に見立てて遊んでいるのですが、苦しさとか痛みを伴うことなく大人や同級生といった人物に遭遇します。その人たちが何をしているのか、どんなときに口を開いたのか、ということも自然に思い出すことがあれば、その場でパソコンや携帯電話で綴っていきますが、なにも思い出さなければそのままです。空間に入り込んでいる私を、はた目から見ることができるとすれば、静かにポカーンとしているような表情に見えることでしょう。

「記憶ストリートビュー」をしていると、私にとっては名のなき人ではあるが、確かに存在した人たちに出会うことがありました。例えば病院の空間を眺めまわした時に現れた女性の看護師さんなどです。

日頃は、対面するとあいさつも蔑ろになり、どんなとっかかりで何を話していいか分からなくなる家族が、私の移動のために車を出したとか、私に何を施してくれたかが、感情抜きで見えたこともあります。これはいよいよいい具合です。
また、忘れていた人物というのは、存在しない人物ではありません。居ないことにして良くもないけれど悪くもない。かといって四六時中思い出していなければいけない訳でもない。「いたんだな」と感じるだけです。

ひとしきり空間で遊んできて、現在にゆったりと戻った時には、今まで感じたことがない種類の静かさと穏やかさが残りました。

私は様々な実験中です。