7年目の原発避難生活 (間章)~あの日のキオクの断片~ 酒井政秋

あの日とは

2011年3月11日 14時46分のこと。

東日本が大きく大きく揺れた。

この世の終わりかのように揺れた。

(中略 発災当初は会社にいたが、皆家族の無事を確認するために仕事どころでは無い揺れだったので解散して自宅に向かう)

カーラジオからは大津波警報と叫んでいる。

焦った。家へと向かう車を何度も止めて、メールを送る。

また、揺れた。

余震が次から次と来る。

不安の中、

真っ暗闇になった。

飯舘村は停電。

ろうそくの明かりで、

夕飯を食べた。

その日食べたサツマイモの天ぷらやジャガイモの天ぷらの味が忘れられない。

夕飯を食べたとき、‟生きてる”ことを実感した。

涙が出そうになった。

必死で堪えた。明日を生きるために。

夜になっても幾度となく突き上げるような大きな余震が止まらない。

そのたびにストーブを消した。

ラジオでは、

ジィーーーーー、

”「まるでここはゴーストタウンです。このような光景は見たこともありません。」”

とラジオの向こうからアナウンサーの声。

おそらく浜のほうはもっと大変なことになっているんだな。

不安と恐怖・想像で震える体をおさえるように、布団に包まる。

ウトウトすると、また地鳴りが聞こえ、

大地を揺さぶる。

そのうち、うっすらと明るくなった。

わたしは外に出た。

東の空が夜空を押し返すように静かに明るくなった。

その時、思った。

「明けない夜はないんだな。」と。

 

しかし、

そこからがまた地獄の日々だった…。

何もかも奪い、大地を汚したあの事故が起きたのだ。

あれから6年経とうとしている。

ミエナイものはまだ、あちらこちらに点在している。

だからこその問題も積み重なってゆく。

海を見たくなったわたしは車を走らせた。

そこに広がる海は太陽にキラキラと輝いていた。

海に向かって静かに祈った。

 

 

撮影:筆者 2017/03/05の海

撮影:筆者 2017/03/05の海

 

7年目の原発事故避難生活(第1章)~村民の声2017~ 酒井政秋

第1章)村民の声2017

わたしは2012年~2014年まで「飯舘村の1人1人の想い~伝えたいメッセージ~」(HP:https://iitatemessege.jimdo.com/ )を運営していた。これは、事故後、各仮設住宅の傾聴を始めていくうちに一人ひとりがちゃんと自分の意見や想いがありながらも口にすることができず、一人ひとりが苦しみを抱えていた。なぜこの声が村・県・国には届かないのだろうと…もどかしい気持ちでいた。村民一人ひとりの「声」は大切な声なのに…と。わたしは当時政治家にお会いする機会や行政区説明会などが頻繁にあったのでその大切な声を伝えていこうと思った。実際に相馬仮設住宅の不備などを役場担当職員に要望してきたこともあった。月日は流れ関心が薄れつつある県外の人たちにもこの想いを知り村民一人ひとりが、どんな状況にあるのかを想像して欲しいと思うようになり、ホームページ開設とSNSで専用ページ(現在閉鎖)を作成して公開してきた。

あれから早3年、わたし自身も色々と忙しくなり、中々思うように‟伝える活動”さえも出来ない状況になっていた。

そこで今回、原発事故7年目・3月末避難指示解除(帰還困難区域を除く)を迎えるにあたって村民は何を思い、どんな心情で日々を送っているのだろうか。1度限りの復活として、何名かの村民にご協力してもらい質問用紙にて声を聴かせてもらった。回答(順不同)を原文そのまま伝えていくことにする。

それぞれの考えや思いは村民一人ひとりで変わる。そして、その気持ちは6年間、波のように情報や状況や環境で揺れ動いていることをご理解いただきながら読んでほしいと切に願う。

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

 

①震災・原発事故から7年目になるわけですが、あなたは今、どのような心境ですか?
(例えば、悩みや不安、怒り、将来への展望など、書ける範囲で字数には制限ありませんので、ご自由にお書きください。)

・家族が笑って暮らせればそれでいい、3月から新しい職場での仕事が(スムーズに)務まるか不安、部落での役割と責任が増していくのが負担、子どもが福島市の高校に入るので「いじめ」られないか不安。              (40代 男性)

・飯舘村には、あと10年以上戻らないと決めている。その先戻るかは、その時になってみないとわからない。飯舘村は、生まれ育った故郷。それでいい。これからの人生が大事だから、生活する場所にこだわる必要はないと考えている。原子力発電所がまだ不安定な状態なので、地震等の災害が来たら、行く先は決めていないが、すぐに逃げる覚悟はいつも持っている。                 (40代 男性)

・ストレスが富士の山よりも高く積もりました。         (80代 女性)

・避難先での生活としては長い年月が経ったのだなと思います。小学1年生の子供たちが、中学生になるほどの年月です。しかし、子供から高齢者の老若男女が、生活していけるような村になるという意味では、まだまだ短すぎる年月だと思います。山林の除染も何とかしてほしいと思います。自然と共に飯舘村の暮らしがありました。仮に除染をしても、元の暮らしが出来るとは思えないのが、正直なところですが…。100年、200年、300年経って、子供たちが何の不安も無しに、山や川など、外で楽しく遊べる日が来ることを願ってやみません。私は、飯舘村の写真を撮っているので、避難指示解除後、村に戻って精力的に活動している方や住民などにスポットをあてた写真も撮りたいと考えています。            (20代 男性)

・子供たちを自分と同じような環境で育てられない、地域社会の中で育てられない、そしてそれらを諦めてしまっていることを時折辛く感じる。別の場所に移り住んでそういう環境づくりをすればいいのだけれど、それでは地元に帰れなくなる。                (30代 男性)

②2017年3月末日で飯舘村が避難指示解除になりますが、まず、はじめにあなたは飯舘村に帰村しますか?それとも新天地で生活を継続していきますか?

《帰村するを選んだ方》

・村の指示に基づいて村に帰ります。飯舘村の自然と共に土で生きた人生でした。いのちの終焉は飯舘村の「土」になる覚悟で生きていきたいと思っています。

(80代 女性)

・いずれ帰村をする。そして、村での仕事をする。農地を守る。地域社会を守る。子供たちにつなげるかどうかは自分たち次第だと思う。       (30代 男性)

《新天地での生活継続を選んだ方》

・新天地に家を建てるので当面は新天地で生活していきますが、飯舘にも家を建て直すので、いずれは帰村するかもしれない・・・わからない。    (40代 男性)

・帰村しない。当分は、避難先で生活する。その後は、妻と一緒に永住できるような土地を探し、小さな家を建てる。
汚染された土地、フレコンバックがある風景。
そんなところに子供を連れて戻りたくない。
飯舘村は、まだ、元に戻る途中の状態である。まだまだ時間がかかる。

(40代 男性)

・まだ、帰りたいと思える場所ではないため。家族と一緒に新天地で暮らすことにした為。放射性物質、汚染の心配。避難先での生活の基盤が出来てきている中、早々に帰るメリットや理由が見いだせない。              (20代 男性)

・今は避難してからの生活が定着していて、現在の飯舘村で生活していけるのか?を考えると不安が多くあり(病院・買い物などのインフラ・放射能・フレコンバックなど)現時点では帰らないと決めて新天地で生活していきたいと考えています。   (40代 女性)

③避難指示解除について今のあなたの心境をお聞かせください。
・帰りたい方々が自宅や地域で過ごすことができて、大変良かったと思う。

(30代 男性)

・まず、避難指示解除の方針が示された時に思ったのは、「なんで?早すぎる」でした。その思いは、今でもまったく変わりません。そして、方針を知った村民の方たちの反応を見て、「こういう風になったのか」と思いました。避難指示が解除されたからといって、みんながやっと帰れるということではないんだな。
帰りたいけど帰れないんだな。
仕方なく帰るしかないんだな。
帰る気はないから帰らないんだな。
帰れるところじゃないから帰らないんだな。
帰っても、どう生活していくのか、何が出来るのか。
避難先での生活の基盤ができている方も多いと思います。
放射線量、汚染、単純にそれだけの問題ではないのが現状だと思います。

(20代 男性)

・避難指示になったときから、いつかは解除するとは思っていましたが、現況だと安心して帰れる状態ではないと思います。             (40代 女性)

・安心して村で生きる事への対応を!!とても不安に感じています。(80代 女性)

・仕方ないと思う。                      (40代 男性)

・汚染土が入ったフレコンバックが至る所にある状態で、避難指示が解除されることは到底許されるべきことではない。時の政府、県、村が責任不在のまま、自分たちの思いのまま決めているに過ぎない。そこに、避難している村民の声など反映されていない。村長選挙で今の村長が選ばれてしまったことに残念さ、無念さを感じる。

(40代 男性)

④今の行政に対してあなたが今、感じている事・思う事をご自由にお書きください。
・聴く耳、聴く場、伝えようとする場を持たない村なんて、本当の飯舘村じゃない!本当の飯舘村は村民の夢や将来、仕事継続等に向かってサポートする裏方!(村政が村民より)全面に出てどうする。誰がついていくのか?勝手にやってろと言われても、しょうがない。                      (40代 男性)

・村内での学校再開も、やはり本当にそれで良いものかと疑問です。
通学する際、子供を乗せた車やバスで、フレコンバッグが置かれているすぐ横を通り過ぎる。こんなことはあってほしくありませんし、とても悲しいことです。

(20代 男性)

・もう少し早い段階で村民からの意見に耳を傾け、話し合いをすれば、村民が知恵を出し合い、協調しながら解除に向けて準備ができたように思います。村政は、村民の為ではなく、「飯舘村」という名前だけ残ればいいように思えてなりません。

(40代 女性)

・役場職員のテンションは上がらないだろうが、前向きに頑張ってほしい。見る人は見ているから。応援・共同できるところはしていきたい。     (40代 男性)

・村職員の方々は大変忙しいのではないかと感じる。行政も続けられる体制でいてもらいたい。                          (30代 男性)

⑤さいごに上記の質問事項以外で何か伝えたいことがあれば、ご自由にお書きください。

・個々が懸命に生きていけば、それで良い。それぞれが家族を守りながら楽しく元気に暮らしていく事。行政には期待もしていないが、文句も全くない。大変だろうなと思う。俺にはできない。                    (40代 男性)

・村内で保護されている犬もこれから先どうなっていくか、気になるところです。
お世話してくださっている方の優しさとご苦労、そして、村内をパトロールされている方々、除染作業員の方々へ、感謝の気持ちでいっぱいの思いです。(20代 男性)

・誰も責任を取るつもりのないまま、ことが進んでいる。
飯舘村にこの先10年戻らない。飯舘村がどうなろうと構わないと思えれば楽なのだが、今の飯舘村のやり方を見ていると、どうしても我慢ならない。
我慢を抑えて生活しているとストレスがたまり、自分がダメになってしまうので、思うままに言い、思うままに行動するんだー!という気持ちで生きていきたい。

(40代 男性)

・高齢者が終の場所として選択した・・・村・国は安全、安心(人間が最低限度生活していく為に)をどう対応されるのか・・・?種々の角度から情報を頂いていきたいと思っております。私たちも村民として(自立・自律)と共生!!を常に心して生きていきたいと思っております。                  (80代 女性)

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

おわりにご協力いただいた村民の皆様に感謝をしたい。

この6年で村民の「声」はより重く響いてくる。

そして、言葉の裏にこれまで歩んできた平坦ではない道のりがどれほど険しかったことだろう…。

それぞれの苦渋の決断が迫られている。

 

 

揺り戻されたこゝろ 酒井政秋

うつろな夢の中で揺れている…。

夢じゃない!

やけに大きな地震だ。これは関東か?それにしても長いな。揺れは益々大きくなった。
急いで情報を集める。
震源地は福島沖だった。
原発が心配だった。津波の大きさによっては、また5年8ヶ月前より酷い状況にだって想定できる。
しかし…。
すぐに情報は出てこなかった…。
東電のTwitterには、「■お知らせ■11月22日午前5時59分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。現在、この地震による当社設備への影響を確認しております。詳細がわかり次第、お伝えいたします。」とのツイートだけ…。

あの時、何をあの企業は学んだんだ。と唇を噛み締めた。

後から東電は情報をツイートしてきたが、その前にメディアからの情報のほうが早かった。

不安がわたしの身体を包み込む。

最悪の状況をいつも想定し、1日の最後には必ずガソリンを満タンにする習慣が5年8ヶ月前にわたしのルーティーンになっていた。
食料の備蓄もしておいた。

でも実際備えても、またあの日の経験をしなくてはならないのか?その不安だったのだ。

明日がまた平穏に訪れるなんて保障はない。

パソコンとテレビと睨めっこをして、とにかく情報を集めて備えた。
気づけば2時間同じ体勢で情報を集めていた。
その間、友人の無事を各々確認したり、心配のメール、コメントが次々ときた。嬉しかった。その皆んなの祈りが不安を緩和してくれた。徐々に冷静さを取り戻していた。

仮設住宅の知り合いに声掛けをした。
みんな「あの日」の地震にこゝろは揺り戻されていた。
精神的に落ちこんでいる人は、「テレビを見ると身体が震えてくるからつけられない。」

「まずは原発が心配になった。」

そんな声が聞けた。

みんな目の奥は5年8ヶ月前の3月11日になっているようにわたしからは見えた。

自分が無理だと思ったらテレビや情報は見ないほうが良い。ストレスになるだけだから。と声をかけた。

改めて思った。

東京電力という企業の体質は何ら変わっていなかった。
ただ、5年8ヶ月前と違うのはSNSが普及している面、東電の中でも発信をしてくれる人がいた。ということだけ。
しかし、SNSをしていない人にとっては情報開示が遅いことで心労が深まったのではないか。ということだ。

改めて東京電力各位には速やかな情報開示をこの場で求めたい。

避難者の心労はまたひとつ深まったことを再認識し、改心し誠心誠意ある態度で臨んでいただきたい。

政治家の皆様には、地震が起きる度に原子力発電所の心配をしなければならないこの不安を取り除いて欲しい。
不安が押し寄せるエネルギーは時代遅れではないでしょうか?
日本列島はいや、地球は活動期に入っていると昨今相次ぐ天災で思います。国民を守る立場において、経済優先ではなく国民の生命を優先させなければならないのではないでしょうか?
核というものに平和利用なんてあり得ないということにまだ気がつかないのでしょうか?
原子力というエネルギーからの卒業するという転換期がやはりきているのではないでしょうか。
再稼動の道ではなく、エネルギーの転換する道へと進んでいくよう働きかけ・提言をよろしくお願いします。

もう2度と同じ経験をする被害者を出したくない。

それを痛切に感じた今朝の地震だった。

 

引用文:「東京電力(原子力)Twitter」より

L’accident de la centrale nucléaire de Fukushima Daiichi

Sakai Masaaki from Iitate village, who is a nuclear refugee
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/09/01/N%C3%A9anmoins-la-vie-doit-continuer

Yoshida Kuniyoshi from Okuma town, who is a nuclear refugee
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/03/07/Le-screening-et-la-stigmatisation

Yoneda Hiroshi from Kagoshima prefecture, who comes to Fukushima
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/01/03/Marcher-dans-la-ville-o%C3%B9-le-retour-est-enfin-possible%E2%80%A6

Takada Midori from Koriyama city in Fukushima
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/08/08/Marie-irradi%C3%A9e-macul%C3%A9e-de-Nagasaki

Yoneda Hiroshi
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/08/02/Les-ruptures-et-lobscurit%C3%A9-de-Fukushima

Yoneda Hiroshi’s memo1
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/01/01/Tomioka-ville-de-non-retour

Yoneda Hiroshi’s memo2
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/07/07/Jeune-agent-de-police-sans-protection-sur-la-route-Nationale-6

Yoneda Hiroshi’s memo3
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/07/06/Personne-n%C3%A9coute-la-parole-des-personnes-directement-concern%C3%A9es

All is translated by Nos Voisins Lointains 3.11
Thank you so much. We never forget great France.

Magazine, which is called, “WELTGEIST FUKUSHIMA”
Chief editor
Kuniyoshi Yoshida

原発事故5年は節目ではない。まだまだ続いている現在進行形の事故である。  酒井 政秋

また3月11日がやってくる。

あの日、たくさんの命が津波や地震によって犠牲になった。

そして、その後の原発事故によって、避難先で多くの命が犠牲になっている。

この場を借りて深く鎮魂の意をお祈りいたします。

さて、飯舘村が原発事故によって汚染されてから5年。放射性物質を低減させる為に行われている国の除染は、除染の低減率も低く、まだまだ住民が生活する上で安全には程遠いような数値である。それでも行政と政府の動きは「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の避難指示を一方的に2017年3月まで解除する方針を示した。この方針は村民に周知する前にメディア先行で地方版の新聞1面に掲載された。いつも住民に話が来る頃にはもう決定した事柄を粛々と説明するだけの「懇談会・説明会」が行われている。本来の「懇談会・説明会」という言葉の意味とはかけ離れている事が平気で行われている。なぜ、「までい」(飯舘村の方言で「丁寧に」「心を込めて」の意味)という村のスローガンを掲げ、自主自立の村民重視でやってきた飯舘村が、国の圧力に屈し、住民を置き去りにするような事態となってしまったのか。このままではいけないという村民も少なくはない。一昨年のADR申立ての動きも一つの意思表示であった。

5年という月日は問題解決されず、誰も責任を追及されることなく、日々問題が山積していく。そして、人々は疲弊していく。本来ならば、「人々の復興」を重視するはずが、大手ゼネコンによる除染事業とハコモノばかりを建てることに重視し、当事者の思いとはかけ離れていく。仮設住宅や借り上げ住宅に住む年配者の体力はどんどん奪われ、日増しにストレスが積み重なり病気になっていく。住めば都というが、あの広大な自然の環境の下で暮らしてきた飯舘村の住民にとって仮設住宅の気狭さは何年たっても慣れるものではない。そんな避難者に対し、差別や偏見が県内でも多く目立つようになってきた。心ない声に幾度も悔しい思いをしている当事者も少なくない。なぜ、いつも弱者に冷たい言葉をぶつけるのだろうか。避難者だって好きでその土地に来たわけではない。悪いのは東電や国なのに、いつも「一部」が「すべて」になり、言われなき差別や偏見を受ける。それぞれに不満があるのは重々承知している、しかし、ただ避難者を言葉の暴力で責めることは「社会のいじめ」だと思う。正々堂々と自分の不満は国や行政に陳情、要望書を提出するとか、法的に自分の不満を解決することをして欲しい。言われた人はどんなに傷ついている事だろう。毎日楽しみにしていた散歩を奪われたり、また、誰かに何か言われるんじゃないかとビクビクしてしまったりと精神的にどんどん追い詰められていく。そうした相手を思いやる心を忘れてはいけないと思う。こうしたことを書くこともまた勇気がいる。これが「全て」になってしまわないか迷ったが、現実問題としてその差別や偏見に苦しんでいる人がいることもまた現実だ。

仮設住宅

この5年、「国は国民を守ろうとはしない。」ということを実感する。国民同士を争わせる情報や政策をどんどんとしていく。これが先進国のやり方なのだろうか。私は、疑問に思う。自分の身は自分で守るという言葉がある。自分を守れるくらいのエネルギーがある人は自分を守れるが、そうでない人たち、たくさんの不安や精神的に追い込まれている人たちは誰が守るのか。年配者同士寄り添って懸命に生きているが、これには限界があると正直思う。これから先、仮設住宅の退去命令がきたとき、それぞれが選択した移住場所や飯舘村に帰ったとき、仮設住宅のようにすぐ隣で手助けしてくれる人はもういない。そのとき、家族に負担がのしかかってこないだろうか。そして誰が孤立した年配者や生活弱者を救ってくれるのだろう。寄り添いや見守り活動の対策をきっちり考えておかなければ、問題はまたひとつ、ふたつと重なっていくだけだ。

フレコンバック

あの日、自然豊かな飯舘村での生活も、近くの山でとれた新鮮な山菜、キノコを当たり前のように食卓に彩っていた日々も、村民一丸となって行われてきた行事も全て、お金には換算できない無形な大切にしてきたものをたった1度の原発事故によって一瞬にして全て奪われた。その喪失感は一生消えないのかもしれない。それでも前を向きながら歩いていかなければいけないが、それぞれが選択した決断のなかで少しでもその失ったものを穴埋めできるような日々が続いてくれることを心から願う。

5年経過したからといってわたしたちの原発事故と避難は終わらない。これから先、何十年もかかる大きな問題にもかかわらず、情報はコントロールされ真実は届かず、政府は当事者と対話する意向も示さない。それどころか放射性物質の危険性は軽視されている。福島の問題が解決されていない中で川内原発、高浜原発が再稼働され、福島の原発事故はいったい何だったのだろうか。国は一つも福島から学んでいないのではないだろうか。ただただ踏みにじられる思いに憤るばかりだ。「原子力」というエネルギーに決して安全も安心もない。事故がひとたび起きれば一瞬で人々の人生も暮らしも環境も全て奪われていく。

もう2度と同じ悲劇を起こしてはならない。