曖昧な物質と曖昧な避難指示解除と  酒井政秋

昨日(平成28年5月11日)で飯舘村「方部別住民懇談会」(実質的に平成29年3月末の避難指示解除及び平成28年7月1日からの長期宿泊の実施について国に要望したことなどを踏まえての説明会である。)が一通り終わった。日程はたったの5日で、ご都合のつく日や場所にお越しくださいとのことだった。
しかし、今回諸事情により、どの会場にも足を運べなかった。
これで、「説明会はなされ、一定の理解を得た」ことになってしまうのだろう。
これまでの懇談会や説明会を例にとっても、避難指示解除は強行されるだろう。
これが民主主義のあり方なのだろうか。

原子力災害対策本部が平成27年6月12日に改訂した「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」の資料によると、避難指示解除の要件として、
① 空間線量率で推定された年間積算線量が20ミリシーベルト以下になることが確実であること。
② 電気、ガス、上下水道、主要交通網、通信など日常生活に必須なインフラや医療・介護・郵便などの生活関連サービスが概ね復旧すること、子どもの生活環境を中心とする除染作業が十分に進捗すること。
③ 県、市町村、住民との十分な協議
と説明している。

飯舘村の場合、どの要件も満たされないままである。ましてや、飯舘村の生活圏は山や自然と密接に関わりあっている。つまり自然を切り離した生活はできないのである。
このまま、どの要件も満たさないまま、飯舘村避難指示解除をした場合、 禁止事項ばかりが増えてくる。
① 山には入らないこと。
② 山菜やキノコは食べないこと
③ 自家製野菜は常に測ること
④ 線量の高いところ(ホットスポット)には近寄らないこと。

これはほんの一部にしかすぎないのかもしれないが、ざっと考えただけでも、非常に拘束された生活が待っている。帰ったとしても、本来の自然とつながりあった生活には程遠いと思われる。
そこで、私自身危惧しているのが、放射性物質は「目には見えない、味もしない、匂いもしない」曖昧で且つ存在感のあるめんどくさい物質であるために、「ちょっとぐらい食べてもいいんじゃないの?」という、自然と結びついてきた人たちにとっては形の見えない誘惑に襲われてしまうことである。
「ちょっとぐらい」・・それが一番危険であることは過去の公害を学んでみて危惧しなければならないことだと思う。国の基準値の曖昧さも含めて、「ちょっとぐらい」それを春、夏、秋と続けていったら、「内部被ばく」するという事になる。それは、年配者だから良い、とはどうしても思えない。それが積もり重なって、「癌」や「持病」が誘発されてしまうのではないか、とても心配だ。
避難指示解除になったから、問題が解決するわけではない。避難指示解除によって、村民の健康も安全も揺れ動かされ、そしてまた新たな問題、村としての存続危機に見舞われてしまうのではないか?それが村民にとって飯舘村にとって果たして良いことなのだろうか?
それぞれの意見は異なる。だからこそ、避難指示解除というのは個人個人が決めてもいいのではないか。全体で解除をすると切り捨てられる村民もいる。「避難指示解除個人選択権」もあってもいいのだはないだろうか。ひとりひとりが本当の意味で自由に選択できる権限。それが人権というものなのではないだろうか。

もっと国や東電は一人ひとりの人生の重さを考えてほしいと思う。そして、一人ひとりの「幸せ」が担保できる社会になってほしいと切に願う。

平成29年3月末避難指示解除公表に募る不安    酒井政秋

2016年3月23日、飯舘村が帰還困難区域以外の区域を2017年3月末日で避難区域解除、2018年には小中学校を村内で再開することを公表した。それは住民に何の説明もないままでの突然の報道であった。

この5年、いつも大事な情報はテレビや新聞等のマスコミで村民は知る。今回もまたそうであった。
村民の心は揺れ動いた数日だったに違いない。

そんな時、一本の電話がかかってきた。
その電話の相手は、以前に仮設住宅でお話を聞かせていただいた人からだった。

電話の向こう側の声に元気はなかった。「テレビ見たんだげど・・・飯舘村避難解除になったら、ここ(仮設住宅の事を指す)に居られないのか?追い出されてしまうんじゃないのか?」そうボソッと不安げに言った。

俺は「大丈夫。去年の説明会に内閣府に聞いたら、避難解除になったからって仮設住宅から強制退去にはならないと言っていたから。大丈夫。」そう言った。

電話の向こう側から大きなため息が聞こえた。

「あ~、それならいいけど、ここを追い出されたら、行くところがないんだ。飯舘の家はもう人なんて住めるような状況じゃね~から。どうすっぺな~。ここから出んのが怖いな。5年も住んでいると、ここが『自分ち』なんだよな。ここのほうが安心になっちまったんだな。不思議なもんだな。」そうしみじみと語ったその心の中には、不安と仮設住宅から離れていくことへの恐怖心があるのだなと実感した。

わたし自身も仮設住宅に住んでいるのだが、仮設住宅から離れるということに本音を言うとあまり抵抗はない。むしろ、早くここから脱却しないとと思っていた。

年配者は実際そうした考えではないという事を知った。

わたしは、他の年配者はどう考えているのかと何人かの年配者にさりげなく聞いてみた。

「一時帰宅して2時間ぐらいはホッとするんだよな。長年住んできた我が家と飯舘村の景色を見て、やっぱり飯舘村はいいなぁ~って。でもな、そのあとに、急にガラーンとした家に『ひとり』だって事に気づくんだよ。そしたら、仮設に帰りてぇ~って思うんだ。仮設に帰ってくると逆に安心するんだよ。ここが我が家になっちまったんだな。」

また、こうした声もあった。

「仮設ではすぐ隣に友達がいるからお互い声かけあって、元気でいられるし、支え合いながら生きていける。飯舘村に実際帰ってみたら、すぐ隣にだれもいねぇ~べ。さびしいどなぁ~。」

「この前、3日間息子に連れられて村に帰ったんだけど、3日間眠れなかった。なんだか怖くて、不安で、なんでだべな。仮設に帰ってきたらぐっすり眠れる」

いずれも70代~90代の年配者の声だ。

ニュースの報道や新聞の報道を見ると、比較的体力があって気力がある60代~70代前半は、帰って「土地」を守るという意識は強いと思う一方で、70代後半~80代のいわゆる「高齢者」にとってみたら、この避難区域解除っていうことは想像する以上に「不安と恐怖」なのではないか。

5年という長期的な避難は仮設住宅に高齢者を適応させてしまった。そこからまた移動するという事は、体力面でも精神的な面でも落ちている高齢者にとってリスクの一つになり得るのだと思う。たとえ、そこが飯舘村でもリスクであろうと言える。

震災当時、仮設住宅に来て体調を崩す人が急増したように、また環境が変わって、ストレスや孤独感から、病気が誘発されてしまわないだろうか。そして、孤独感や寂しさから認知力が低下して認知症になってしまわないかどうか、懸念するところである。

たかが、年配者の一部だけの声だと切り捨ててしまうのか。多くの高齢者が感じている全体の声に近いのか、わたしは全員に聞いてないので分からない。けれど、多かれ少なかれ、高齢者の環境適応能力は衰えていて、長期避難によって体力も衰えている。果たして以前と変わり果てた飯舘村に帰ったとしても、ストレスを感じないで穏やかな日々を過ごすことができるのだろうか。

それぞれの選んだ決断の向こう側に幸せがあることをひたすら祈るしかない。

この1年、さらに慌ただしい心落ち着かない日々や空気感が村民を取り巻く。

仮設住宅

 

 

 

 

 

 

原発事故5年は節目ではない。まだまだ続いている現在進行形の事故である。  酒井 政秋

また3月11日がやってくる。

あの日、たくさんの命が津波や地震によって犠牲になった。

そして、その後の原発事故によって、避難先で多くの命が犠牲になっている。

この場を借りて深く鎮魂の意をお祈りいたします。

さて、飯舘村が原発事故によって汚染されてから5年。放射性物質を低減させる為に行われている国の除染は、除染の低減率も低く、まだまだ住民が生活する上で安全には程遠いような数値である。それでも行政と政府の動きは「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の避難指示を一方的に2017年3月まで解除する方針を示した。この方針は村民に周知する前にメディア先行で地方版の新聞1面に掲載された。いつも住民に話が来る頃にはもう決定した事柄を粛々と説明するだけの「懇談会・説明会」が行われている。本来の「懇談会・説明会」という言葉の意味とはかけ離れている事が平気で行われている。なぜ、「までい」(飯舘村の方言で「丁寧に」「心を込めて」の意味)という村のスローガンを掲げ、自主自立の村民重視でやってきた飯舘村が、国の圧力に屈し、住民を置き去りにするような事態となってしまったのか。このままではいけないという村民も少なくはない。一昨年のADR申立ての動きも一つの意思表示であった。

5年という月日は問題解決されず、誰も責任を追及されることなく、日々問題が山積していく。そして、人々は疲弊していく。本来ならば、「人々の復興」を重視するはずが、大手ゼネコンによる除染事業とハコモノばかりを建てることに重視し、当事者の思いとはかけ離れていく。仮設住宅や借り上げ住宅に住む年配者の体力はどんどん奪われ、日増しにストレスが積み重なり病気になっていく。住めば都というが、あの広大な自然の環境の下で暮らしてきた飯舘村の住民にとって仮設住宅の気狭さは何年たっても慣れるものではない。そんな避難者に対し、差別や偏見が県内でも多く目立つようになってきた。心ない声に幾度も悔しい思いをしている当事者も少なくない。なぜ、いつも弱者に冷たい言葉をぶつけるのだろうか。避難者だって好きでその土地に来たわけではない。悪いのは東電や国なのに、いつも「一部」が「すべて」になり、言われなき差別や偏見を受ける。それぞれに不満があるのは重々承知している、しかし、ただ避難者を言葉の暴力で責めることは「社会のいじめ」だと思う。正々堂々と自分の不満は国や行政に陳情、要望書を提出するとか、法的に自分の不満を解決することをして欲しい。言われた人はどんなに傷ついている事だろう。毎日楽しみにしていた散歩を奪われたり、また、誰かに何か言われるんじゃないかとビクビクしてしまったりと精神的にどんどん追い詰められていく。そうした相手を思いやる心を忘れてはいけないと思う。こうしたことを書くこともまた勇気がいる。これが「全て」になってしまわないか迷ったが、現実問題としてその差別や偏見に苦しんでいる人がいることもまた現実だ。

仮設住宅

この5年、「国は国民を守ろうとはしない。」ということを実感する。国民同士を争わせる情報や政策をどんどんとしていく。これが先進国のやり方なのだろうか。私は、疑問に思う。自分の身は自分で守るという言葉がある。自分を守れるくらいのエネルギーがある人は自分を守れるが、そうでない人たち、たくさんの不安や精神的に追い込まれている人たちは誰が守るのか。年配者同士寄り添って懸命に生きているが、これには限界があると正直思う。これから先、仮設住宅の退去命令がきたとき、それぞれが選択した移住場所や飯舘村に帰ったとき、仮設住宅のようにすぐ隣で手助けしてくれる人はもういない。そのとき、家族に負担がのしかかってこないだろうか。そして誰が孤立した年配者や生活弱者を救ってくれるのだろう。寄り添いや見守り活動の対策をきっちり考えておかなければ、問題はまたひとつ、ふたつと重なっていくだけだ。

フレコンバック

あの日、自然豊かな飯舘村での生活も、近くの山でとれた新鮮な山菜、キノコを当たり前のように食卓に彩っていた日々も、村民一丸となって行われてきた行事も全て、お金には換算できない無形な大切にしてきたものをたった1度の原発事故によって一瞬にして全て奪われた。その喪失感は一生消えないのかもしれない。それでも前を向きながら歩いていかなければいけないが、それぞれが選択した決断のなかで少しでもその失ったものを穴埋めできるような日々が続いてくれることを心から願う。

5年経過したからといってわたしたちの原発事故と避難は終わらない。これから先、何十年もかかる大きな問題にもかかわらず、情報はコントロールされ真実は届かず、政府は当事者と対話する意向も示さない。それどころか放射性物質の危険性は軽視されている。福島の問題が解決されていない中で川内原発、高浜原発が再稼働され、福島の原発事故はいったい何だったのだろうか。国は一つも福島から学んでいないのではないだろうか。ただただ踏みにじられる思いに憤るばかりだ。「原子力」というエネルギーに決して安全も安心もない。事故がひとたび起きれば一瞬で人々の人生も暮らしも環境も全て奪われていく。

もう2度と同じ悲劇を起こしてはならない。

 

映画「飯舘村 わたしの記録」上映&長谷川健一さんトークを聞く       伊藤千恵

2月28日、東京中野区にあるポレポレ坐でのイベント ~映画「飯舘村 わたしの記録」上映&長谷川健一さんトーク~  に行ってきました。

飯舘村は東京電力福島第一原子力発電所の事故のあと、全域が避難指示区域に指定されており、放射線量に応じて、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3つに分かれています。

避難指示解除準備区域の前田行政区の区長であり酪農家の長谷川健一さんが2011年4月から8月までの4ヶ月間、ホー ムビデオに撮りためた映像が上映されました。

田んぼはすべて雑草畑となり、飼っていた牛もすべて手放し、4世代で暮らしていた家族はばらばらの生活。
なかなか搬送車に乗ろうとしない牛を避難させ、あるいは屠畜に送り出す牧場のスタッフたちをとりまく取材陣。
大家族で暮らしていた長谷川さんの大きな家と、仮設住宅とのあまりも大きな落差。
スクリーンに映し出されるこれらの映像に、あらためてがく然とさぜるを得ません。
原発事故ですべてが変わってしまった飯舘村の人たち、原発避難を強いられているすべての人たちのことを私たちはどれだけ想像しうるのか。

政府は、帰還困難区域を除いた避難指示解除準備、居住制限の両区域を2017年3月までに解除する方針を打ち出しましたが、飯舘村の除染は宅地は終わったものの農地はまだ進んでいません。環境省は生活圏外の森林は除染しない方針とのこと。
しかし、山すそにある宅地は放射線量が高いという長谷川さんのお話でした。
汚染土の入ったフレコンバッグを積み上げた光景は異様ではありますが、ひんぱんに目にするようになり、耐性ができつつあることに悲しさと憤りを感じます。

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ドローンで撮影された“仮仮置き場”

村の方針も国に準ずるとのことですが、除染の効果の上がらない地域があり、来年帰還しても子どもたちが本当に安全に暮らせるのか、長谷川さんは非常に危惧しています。
なにより、村の“までい”(手間ひまおしまない、ていねいなという意味の方言)な暮らしが、原発事故で根底から失われてしまったことに対して、国や東電が誠実な対応をしているようにはとても思えません。
原発事故で避難を余儀なくされたすべての人たち(自主避難者ふくめ)が思うところでしょう。

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モニタリングポストの周囲は入念に除染がしてあるとのこと

スクリーンには村長さんと長谷川さんが帰村について話し合う場面が流れましたが、平行線のままに終わりました。
避難解除されるということは賠償も打ち切られるということ。
長谷川さんはじめ飯舘村民の半数近くの人たちが国の機関、原子力損害賠償紛争解決センターに、裁判外紛争解決手続き〈ADR〉を申し立てしています。
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コミュティを失うということは、衣食住や人が生きるうえでの生活基盤だけのことだけではなく、代々培われてきたその土地らしさ、住む人のこころの拠りどころを失うということでもあります。
そのことの本当の価値は失ってみないとわからないのかもしれません。

今回の長谷川さんのお話や、今までに私が福島のすばらしい自然や友人たちに接して感じていること。
飯舘村はじめ原発避難自治体の多くは過疎の地域であり、日本の抱える地域の問題を如実にあらわしています。
一次産業、特に農業の担い手が減少し続ける地域と、大消費地である都市との格差。
農業が衰退しても人は食べないと生きられませんから、輸入に頼るか工業型農業で効率化をはかるか、大企業が関与しないと存続できないようになり、農業のグローバル化も懸念されます。地方の問題ではなく日本全体の問題でもあるわけです。
“までい”な生活とは対極にある未来のように思え、うすら寒い気持ちがしてなりません。地方をないがしろにしてきた結果が今であるように思えてなりません。
私たちがめざすものは何であるのか。
地方の充実なくしては日本の未来はあり得ないと心から思います。

※飯舘村のライター、酒井政秋さんの記事「心を失った除染」と「11月14日2837名ADR1次申立書提出を終えて」もどうぞあわせてお読みください。

 

震災後・原発事故後の私の原点~陽だまりのベンチにて~ 酒井 政秋

最近、以前お話をさせて頂いた村民の声を思い出す。

ひとつひとつが大切な声であった。

その中で、私自身の心の分岐点になった方の声を今回、自分が感じたこととその方のご様子から体感したことを原点に立ち返り書いてみた。

あれは2012年の4月か5月だっただろうか。

恐る恐る私はある仮設住宅を訪ねた。なぜ、恐る恐るかというと、まだまだ村民同士が本音で言い合える状況ではなかったのと、何より自分の心がようやく生命力を取り戻したときでもあったからだ。

私の目の前に、一人の老婆が陽だまりのベンチにぽつんと、どこか寂しげに腰かけていた。

わたしはその老婆の隣に座った。

その老婆の手は、ごつごつとしたしわくちゃな手だった。何十年も苦楽を刻んできた勲章のようなその手は、飯舘の大地をも想像させられる。
その手を手もみしながらもじもじと不安げに遠くを見つめる瞳に、何が見えているのだろうか。
絶望なのか。土地を失ったことによる喪失なのか。自分自身の生きがいを奪われた憎しみなのか。
想像をも超える哀しさだろう。哀しさだけでは表現すら軽く、悲憤慷慨する感情だろう。
隣近所も引き裂かれ、老婆は見知らぬこの土地に避難させられた。
八十過ぎの老婆が見知らぬ土地へと移り住み、ましてや応急仮設住宅でのわずか4.5畳ほどのあまりに狭い部屋へ押し込まれるというのはどんな心境なのだろうか。
飯舘村にいた時は、息子夫婦、孫と暮らしていたにぎやかな家族だったという。
茶の間も十二畳でそれぞれの部屋があり、畑や田んぼもあり、広大な敷地で飯舘村の風を感じながら穏やかに暮らしていた。
今はこの陽だまりのベンチにどこか遠くを見つめながら腰かけている。

老婆はポツリポツリと私の呼びかけに答えるだけだった。

「体調お変わりありませんか?」と尋ねると老婆はこう答えた。

「こわい。」

【こわい】とは福島の方言で『疲れる』という意味だ。

わたしは「何がこわい?」と尋ねた。

「全部だ・・・。」

この全部という言葉に私は想像をした。

言葉にするだけでも疲れる感情は、心を閉ざしているほうが楽だったりもする。
簡単に言葉にしてしまうと相手を傷つけてしまうのではないか。いつもどこかビクビクしているのだろう。
そうして仮設住宅での友達作りにさえも疲れ果て、避難での環境変化の疲れ・曖昧な喪失感、望郷の想い、複雑にもつれてしまったその心とからだは、絶望や怒りを超えた感情しかないのだなと思った。
その身体の端々にそう感じたのだった。

そこで、わたしは「大変だったね。みんなこんな状況になるなんて誰一人として思わなかったと思うよ。無理しないで生きようね。」
それが精いっぱいの老婆に対しての言葉だった。
わたしは、老婆の気持ちに寄り添うように隣に座った。

すると老婆はしばらくして、心に溜まってあるものを自ら話し始めた。

「(仮設住宅の)家の中はなぁ~隣のテレビの音も会話も丸聴こえなんだ~。
んだがら、段々と爺様との会話も段々と減ってきて、ただ、ボーっと1日を過ごすことが多くなってきてて・・・。
んだがら、ほんでは駄目だど思って外さ、出てくんだげんちょも、(飯舘村に)帰りっちぇーって言うとなんだがわがんねんだげんちょも怒られんだ。
だがら、こうしてここで日向ぼっこしているしかねぇ~んだ。
こんな…わげのわがんないどころさ来て、狭いどころに押し込まれで、帰りたいって言うだけで怒られる。なんなんだべな。
原発事故さえなかったらこんな思いはしなくたっていがったのに。ごせやげっとなー。(頭にくるよな。)
まったくこんな年になってこんな思いすっとは思わねがった。早く(飯舘村に)帰りっちぇ~。
あんたはわがい(若い)から帰んねほうがいいど~放射能って言うのは危険なものなんだがら。おらみだいな年の人はいいんだ。すぐには影響ないがら~。
はぁ~あ、久々に話出来てすっきりした~。ありがどない。」

その老婆は、よっこいしょと掛け声をかけて押し車に手を当てながらお辞儀をして、自分の部屋へと戻っていった。
老婆の後姿は少しさびしげに映った。

プライバシーも守られないプレハブ型仮設住宅

プライバシーも守られないプレハブ型仮設住宅

その老婆との出会いはわたしにとって貴重な出会いとなった。

その後の私の原動力となった人物であった。
その後、この老婆は体調を崩し救急車で運ばれ、しばらく経ってから入院先の病院で亡くなったと管理人から聞いた。
原発事故がなければ心穏やかに飯舘村の土地で命を全うできたはずだった。
最期の時が住みなれない土地で、ましてや仮設住宅で知り合いも少なく、孤独な息のつまるような生活など想像だにしなかっただろう。
飯舘村の地で家族に見守られながら、最期の時を安らかな気持ちで過ごしていたと思うと、せつなさがこみ上げる。

陽だまりは、老婆にとってはひと時の癒しを求めた心の温もりだったのかもしれない。

飯舘村の景色や家のこと、孫との暮らしなどを想いを馳せながらそこに腰かけていたのだろう。これはたった一人の村民の事かもしれない。
だけど、約6200人いる村民のひとりひとりが、それぞれの不安や葛藤や思いの中、今暮らしていたり、帰ること、または日常生活が取り戻すことが出来ないままに亡くなっていった人々がいるということ。

長期化する避難によって様々な現状だが、国や政府には、ただ長期化という時間軸の中で避難解除を考えるのではなく、どんなに小さな声でも大きな声でも普通の声でも無関心な声でも、じっくりと行政側がひざを突き合わせて共に考え、これからどうするのか6200人いる村民ひとりひとりと丁寧に話をし、慎重にこれからを同じ目線で考えなければ、「未来」という形はどんな形にでも変わってしまう。

これも綺麗ごととして潰されていく声なのかもしれないけれど、今までのようなことをしていても原発災害の問題は解決しない。
新しく、そして丁寧なやり方をしないとダメだと私は考える。

陽だまりのベンチ

陽だまりのベンチ