みえない社会・地球との対話へ   酒井政秋

 

原発事故後、対話を通して自分たちは絶望を受け入れるという心の整理とその場を創る器を2012年~2014年まで作ってきた。

何度も何度も集まっては、自分の今の心をその場に出して、いろんな角度からその心を多角的に見て、感じてきた。

その受け入れがたき大きな問題に
押しつぶされそうになったり、
心の中にズシンと突き刺さったり、
そして、再び絶望を味わい、そしてまた這い上がって、また堕ちて。
そして、少なくとも共感できるエッセンスを共有し、
相手を理解すること・思いを尊重すること・相手の心の小さな声に耳を傾けあった。

ともに泣き、
ともに語らい、
ともに笑い飛ばし、
物理的時間の5年という歳月よりももっと重く、もっと深い心の繋がりをしてきた。
時には理解できずに、その場を離れたくなったことや受け入れられなかったことは数知れない。
それでも、理解できずに、離れてしまった対話だけでは救えなかった心のかけらたち。
自分のこれからの道と仲間や友人・先輩たちのそれぞれの未来への道。
(震災前のようなという意味で)喪ってしまったもう取り戻せないコミュニティー。

そして、自分も含め、それぞれが模索しながら、時には手探りで、「これから」という自分の人生を取り戻していく作業の真っただ中、道に明かりをともしながら消されないように、必死に自分の道を開拓していくしかない覚悟。まるで人生の開拓民のようだ。しかし、いつも付きまとうこの「喪失感」は決して穴埋めできないものなのかもしれない。

それが今の5年という歳月であろうか。と人ごとのように考えてしまう自分がいることに時の流れを感じてしまう。

世間では重い問題と捉えがちな飯舘村の問題。
けれど、今、生きている社会が喪ったかけがえのない日本の原風景なのだと捉えてくれたらうれしい。
けっして、「重い」問題だからとふれちゃいけない・目を背けていたい、そんな問題だと個人的には思わないでほしいと願う。
それは未来への棚上げでしかないのだ。
あの日、生かされた命を大切に考えて未来に原子力ではない明かりを灯したい。

これから来るであろう「虚無感」と「しょうがない感や・どうしようもない感」、
そして、もしかしたらモノを言えなくなってしまう「沈黙」がくるかもしれない。
けれど、声は小さくともそんな沈黙にもあらがっていきたい。
それは声高にではなく、やわらかく、ソフトな伝え方をしていきたい。

伝えるというのは、見えない社会とこの世という大地に足をつけている地球との対話のようなものであろうか。

飯舘村の道

空間を思い起こし、感情ではなく忘れていた人物たちに出会う  吉田葉月

何かを思い出そうとしたときに、体験に伴う強い感情があらわれて、思い出すことがより困難な時期があった。

震災に纏わるトラウマはあった。津波がいずれ私のもとに届き「もしや死ぬのか」と感じたが、その瞬間に、自由に逃げ出せなかったことは原因の一つだったのではないかと思っている。そのタイプのトラウマと混在していた、別の何だかよくわからない胸の苦しさ、頭の詰りは、どういうものなのかと、よくよくとほどいていこうとする。大震災以前からあった、「あのことに触れるのは窮屈な感じがする」「こういうこういう光景をみるとあれを思い出さずにはいられない」というような類のものを、芋掘りでもするように、ぞろぞろと引き出すことになった。

上記のような体験を出発として、激しい感情に引っ張られずにマトモに記憶を振り返るというのはどんなことなのと思うようになりました。

私は、記憶にへばりついている感情ではなく、暮らしていた空間をホログラムを立ち上げるようなイメージで思い出してみました。すっかり忘れていたと思いこんでいた幼少期や思春期の空間の印象の尾びれが、抽象画程度の光景として向こうからやってきたら、その光景の場所を起点として記憶に降り立ち、歩いたり、車に乗ったりしながら眺めまわるようなイメージの手法を取っていました。いつのまにかそうなっていました。

私はその行為に「記憶ストリートビュー」と名付けて親しんでいます。はじめてそれが起動した日には、何かのために何かをする意図はありませんでした。日中、家族と連れ立って話したり歩き回ったりしていた日の夜に、偶然、幼いころの光景が復元されたように近づいてきたのです。
たとえば、寝床などでそれを楽しんでいると、本当に子どもになってしまって、けれども今の自分の言葉で光景をなぞっていき、文として綴りました。それをやっていて思うようになったことがあります。

記憶の一部は、失われたとは限らず、今を生きていくためにそっとフェードアウトさせた可能性があるのかもしれない。

幼いころ通院していた病院の中にステンドグラスがあったとか、それに対して、向かいの位置にネオンテトラの水槽があったとかを、ぐりぐりとGoogleのストリートビューを操作する様に進んだり戻ったりして、記憶にある光景を立体的な地図に見立てて遊んでいるのですが、苦しさとか痛みを伴うことなく大人や同級生といった人物に遭遇します。その人たちが何をしているのか、どんなときに口を開いたのか、ということも自然に思い出すことがあれば、その場でパソコンや携帯電話で綴っていきますが、なにも思い出さなければそのままです。空間に入り込んでいる私を、はた目から見ることができるとすれば、静かにポカーンとしているような表情に見えることでしょう。

「記憶ストリートビュー」をしていると、私にとっては名のなき人ではあるが、確かに存在した人たちに出会うことがありました。例えば病院の空間を眺めまわした時に現れた女性の看護師さんなどです。

日頃は、対面するとあいさつも蔑ろになり、どんなとっかかりで何を話していいか分からなくなる家族が、私の移動のために車を出したとか、私に何を施してくれたかが、感情抜きで見えたこともあります。これはいよいよいい具合です。
また、忘れていた人物というのは、存在しない人物ではありません。居ないことにして良くもないけれど悪くもない。かといって四六時中思い出していなければいけない訳でもない。「いたんだな」と感じるだけです。

ひとしきり空間で遊んできて、現在にゆったりと戻った時には、今まで感じたことがない種類の静かさと穏やかさが残りました。

私は様々な実験中です。

ご挨拶

こんにちは。天井といいます。茨城県に住んでいます。

この場をお借りして、福島県との関わりの中で感じたことをいくつか書かせていただきたいと思います。その前に、僕自身の震災後の福島との関わった経緯を少し書かせてください。

震災時、僕は茨城県水戸市に住んでいました。
当時していた仕事の合間に、
被災した近所や水戸市内や大洗町で復旧作業を手伝っていました。

一週間ほどすると徐々に自分の生活が落ち着き出し、
テレビが伝え続けていた東北で何かできないかと考え始めていました。

そんな中、出会ったのが「茨城NPOセンター・コモンズ」というNPOでした。3月中旬から茨城県北茨城市や福島県いわき市への物資支援活動を始め出していた団体です。

物資調達・整理の手伝いに参加し、4月から始まったボランティアバスでいわき市へと通いました。6月からはNPO職員になり、いわき市へと派遣され、市内に設けた事務所を拠点に動き始めました。いわき市で出会った方々の話を聴きながら必要な場所で活動をするというものでした。

主な活動としては、

・小名浜地区災害ボランティアセンターの運営サポート
・他の地域より復旧の遅れていたいわき市北部の久ノ浜での活動
・避難所から仮設住宅に移った方々の話しをうかがうこと
・新たな住宅での自治会発足のお手伝い
・仮設住宅内の広場で子どもたちと遊ぶこと
・福島県内の状況や活動している方々の情報収集・情報共有

また、原発事故の大きな影響として
福島県(東北や関東)から全国へ移り暮されている方々が多くいます。

2011年後半には団体として茨城県内に移ってこられた方々へのサポート体制をつくっていくことになり、それに合わせて僕も2012年始めに水戸市へと戻ることになりました。

それから2014年春に退職するまでの2年間は
茨城県内の団体と連盟でつくられた「ふうあいねっと」の事務局として

・つながりの場づくり・情報面のサポート
・相談の橋渡し
・支援団体間の調整役
・福島県と行き来して福島県のことを知る

などをしてきました。
その中で産まれてから約2年づつ住んでいた
福島、宮城、岩手のことに気持ちが入っていきました。

やってきたことだけ書くと沢山ある気もしますが
若いからこそできたこと・できなかったこと。
よそ者だからできたこと・できなかったこと。

求められていることに対してできたこと・できなかったこと。
なにをやっているんだろう、なんて無力なんだと思うこともありました。
そんななか気の合う方々に出会ったり、可愛がってもらったり、
福島、宮城、岩手で過ごしてきた子ども時代のことを思い出したり、
たくさんの感情や視点や状態とも巡り合いました。

それが嬉しくもあり、楽しくもあり、悲しくもあり、苦しくもあり。
明確な答えはないし、浮き沈み変化も確実にすると思いますが
答えはシンプルなものの中にある気がしています。

そんな未完成な状態の中にも、
今は確かに「その何か」が自分の中にあると感じています。

長くなりましたが、どうそよろしくお願いします。

天井優志