◇月いちリレーエッセイ◇    長崎を巡礼する旅 高田 緑

15年以上前、長崎を旅したことがある。
長崎の街には路面電車が走り、どこへ行くにも便利だった。

浦上教会の朝6時のミサに与り、原爆投下地の平和記念公園と長崎原爆資料館へ行った。
永井博士の奥様の緑さんが、最後まで握りしめていたという溶けたロザリオを目にしたときの震えるような心の痛みを今も覚えている。

6月下旬の長崎は蒸し暑かった。
急な坂道を登って、西坂町にある「二十六聖人殉教の地」に立ち、聖フィリポ西坂カトリック教会の聖堂にも行った。
そこは、私が洗礼を授かるきっかけを与えてくれた神父様が東京から赴任した教会だった。

国宝となり、今では観光地となっている大浦天主堂にも行った。
聖堂入り口にある純白のマリア像は、キリシタン弾圧に耐えて信仰を守った信徒が発見されたことが世界にも伝わり、幕末の慶応元年にフランスから贈られたマリア像だ。

小説「沈黙」の舞台とされたという、黒崎教会に行くのも旅の目的のひとつだった。
海辺の町にある教会は、長崎駅から海岸沿いをバスに揺られて行った。
今は、映画「沈黙」で知る人が多くなったようだが、当時は、そこでバスを降りたのは私ひとり。司祭館の神父様に挨拶してから聖堂内でお祈りさせてもらった。
レンガ作りの教会は、信徒が積み上げて作ったと云われている。草むらに隠れキリシタンが覗いているかのような、潮風の音だけを感じる、そんな静寂の風景の中にある教会だった。

その先にある遠藤周作文学館の碑文が、私の巡礼の旅の全てだったように思える。

人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりにも蒼いのです
(遠藤周作文学館 碑文より)

カトリック黒崎教会 (撮影:高田緑)

カトリック黒崎教会
(撮影:高田緑)

被爆のマリア   高田 緑

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現在の浦上天主堂 / カトリック浦上教会 (撮影 : 高田緑)

70年前の8月9日、長崎市に原爆が投下されたその時刻、浦上天主堂で聖母被昇天の祝日の準備をしていた24名の信徒と2名の司祭が犠牲になりました。 準備とは、祝日のミサの前には欠かせない、神に罪を告白する「告解」のことでもあったのです。信徒たちは、祝日のミサに臨む “心の準備”もしていたのです。

爆撃により、浦上の信徒12000人の内8500人が、長崎市民74000人もの命が落とされました。

15年程前、ふと思い立ち、長崎を訪ねました。 浦上天主堂の朝のミサに与り、祈りを捧げました。カトリックでは、同じ日時に世界共通のミサを捧げますが、長崎ではミサの前に特別な祈りがあり、原爆で犠牲になった方への鎮魂と平和の祈りを捧げます。その祈りは、毎日欠かすことはありません。

原爆が投下されたというその地点、今は公園になっている”グラウンドゼロ”にも行きました。 その場はまるで時間が止まったかのように、空気が、風が、全てが静寂の中にありました。当時爆撃によりその場は”真空状態”になったと云われていますが、静寂がそれを教えてくれたかのようでした。いまだかつて感じたことのない、とても不思議な感覚を、今でも鮮明に覚えています。 霊魂というものを否定できない私には、 “沈黙の声” だったのだと受け止めました。

浦上天主堂の祭壇に奉られていたという、イタリアから送られた「無原罪の聖母」の木製の像は、とても美しかったと言われています。 浦上天主堂の上空500mで原子爆弾が炸裂したその日、『被爆のマリア』となりました。 瓦礫の中から、真っ黒に焼け焦げた顔で、深い悲しみをたたえて自分をみつめていることに気付いた長崎市出身の一人の復員兵こそが、北海道の修道院に帰院する途上の野口神父だったのです。 野口氏は北海道の自室に安置して毎日祈っていたそうですが、その後、原爆三十周年の年に浦上天主堂に返上されたそうです。 この『被爆のマリア』を初めて見たとき、私は底知れぬ深い悲しみを感じました。 光を失った悲しみの黒い瞳から、彼女は何かを訴えているのです。 深い悲しみは、犠牲になった多くの人の悲しみ。 今後、決して、このような悲しみが起こらないようにとの、祈りがこめられているのです。 「あなたを私は決して独りにしません」 「無実な人をこれ以上傷つけないでください」と。

福島県郡山市に、模擬原爆(パンプキン)が投下される予定だったと、以前、何かの本で読みました。郡山大空襲に次いでの原爆投下。 たまたまその日、郡山市上空は曇っていたため、実行されなかったそうですが、もしも、郡山市に投下されていたならば、私はこの世には存在していなかった可能性もあったのです。 悲劇にもその模擬原爆は、7月20日、福島市の渡利の水田に投下され、国民学校の高等科を卒業したばかりの14歳の少年が犠牲となりました。 そして、日本の数ヶ所での模擬原爆投下が、広島と長崎へと繋がっていったのです。

広島市と同じ被爆都市でありながら、長崎には被爆体験をシンボライズする遺構が何故に残されなかったのかとの論議がありますが、焼け野原で人々の苦しみを見つめていた、変わり果てた姿の”被爆のマリア”が全てを語っているのではないでしょうか。

『被爆のマリア』は、今も平和を祈り、悲しみに暮れる人々を光へと導いているのでしょう。

鎮魂の祈りを捧げて…..

平和を願い…..

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「被爆のマリアに捧げる讃歌」 CDジャケットより

(参考資料 :被爆のマリアに捧げる讃歌より「 被爆マリア像のメッセージ」)