わたしのふるさと

安達太良山  (撮影 : 遠藤教夫・郡山市在住 )
安達太良山  2015年1月
(撮影 : 遠藤教夫・郡山市在住 )

安達太良山に残雪がある間は、まだまだ郡山に春は来ない。
子どもの時から、そう聞かされていた。

私が幼き時期から住んでいた社宅からは、安達太良山や磐梯山、遥か遠くには那須連峰も望むことができた。

故郷を思うとき、心に潜んでいるのは『千恵子抄』の一節である。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。」
(高村光太郎著『千恵子抄』~あどけない話~より)

住んでいた郡山の社宅は、数年前に全て跡形も無くなく取り壊された。帰る「場所」と言うモノがあるならば、父の眠る墓地だけになってしまったのだろう。
その地から安達太良山を見る度に、故郷に帰ってきた自分がいることに安心する。
美しい山の曲線も、澄んだ空も何も変わってはいない。

山に登ればその山に立つことが出来るが、山の全景を見ることが出来ない。
故郷を離れてみて、分かったことが山ほどあった。
当たり前に存在していた豊かな自然。
自然の恩恵である美味しい水や食べもの。
あたたかい人々の心。

それらはいつまでも存在し、裏切ることがなく永遠に続くものだと信じていた。
帰れば待っていてくれるものだと思っていた。

四年前の三月十一日。東京にいた私の記憶は何故か曖昧だが、テレビに映しだされたニュースの信じがたい映像を何日も何日も見ていたのを覚えている。
親戚や同級生の安否を出来うる限り確認しては、刻々と深刻な状況に変化する映像に感情のコントロールをするのが精一杯だった。
暫くしてから、同級生からの「東京に一時避難する」とのメールがあり、その時、ことの重大さが実感としてやっと私に入ってきた。

夏休みになると、父と一緒に磐越東線の電車に乗って、海水浴に行っていた福島の海。
高校の夏の合宿でキャンバスに描いた福島の海。

あの海辺で、日本の誰もが想像を遥かに超えた異常事態が起きたのだ。
私は何をすれば良いのか。何をすべきなのか。
北へ向かうボランティアの人々の後ろ姿を、ただ目で追うだけだった。

二年が経ち、やっと郡山の駅に降り立った時の今までにない違和感。
それは、駅前に設置された放射線測定器を見た時の虚無感だった。
恐れにも近いものがあった。「無」になってしまう恐れであろうか。
だが、お墓参りをして、見上げた空の向こうには変わりのない安達太良山が待っていてくれた。

 「阿多多羅山(安達太良山)の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。」(高村光太郎著『千恵子抄』~あどけない話~より)

私の心にこの風景がある限り、その山、空がある限り、私の中に故郷「福島」は存在し続ける。
福島が故郷であることを誇りに思う。
私のルーツは福島県郡山市の何ものでもないのだから。

『日本と原発』(河合弘之弁護士初監督)をやっと観ることができた。これが福島の現実だ。
けれど私は、いつまでも故郷とともに歩んで行く。
ともにそこにいる。