双葉町盆踊り大会(@加須市)を見にいく   伊藤千惠

昨日8月14日は、福島県双葉町から埼玉県加須市へ避難した方たちの盆踊り大会へおじゃましました。今年で双葉町埼玉自治会主催として3回目の開催だそうです。

双葉町は、原発事故から6年目の現在、町の96%が立ち入り制限されている帰還困難区域です。人口約7000人のうち、約4100人が県内避難、約2900人が県外避難、そのうちの855人が埼玉県に避難しています。(双葉町公式ホームページより)

避難所のあった旧騎西高校からほど近い騎西総合体育館で行われた盆踊り大会は、町民だけでなく、加須市在住や八王子からも、支援を機にずっと交流を続けられている方々がお手伝いに来ていました。
最初は支援であっても、今は双葉町の方に逆に支えられているという女性のことばが印象的でした。
報道されることの少なくなった原発避難の状況ですが、忘れてはならないという埼玉、東京の人が少しでもいることに力強い思いを抱きました。

bon 03

左から自治会長さんの藤田さん、加須市在住の支援者Aさん。 ありがとうございました。

bon 02

「盆踊り」のルーツは念仏踊りと言われていますが、伝統芸能は地方によって起源も変化のしかたも違っており、諸説さまざまあります。
お盆がやってくると地獄の釜のふたが開き、死者の霊魂がこの世に戻ってきます。死者だけではなく、なかには無縁の精霊、悪霊もいるので、それらには帰ってもらう悪霊退散の踊りが念仏踊りであると言ったのは民俗学者の折口信夫。

その土地に関係なく有名な民謡をテープを流し、それに合わせて踊る現代的な盆踊りしかなじみのなかった私には、伝承系の双葉町盆踊りはとても興味深いものでした。
唄と大太鼓と少し小ぶりの小太鼓、笛の4人で繰り返し演奏される盆踊り唄。
伝統的な民俗音楽・民俗舞踊のほとんどは、この「繰り返しの魔術」によってトランスにひきこまれ、日常性を逸脱するのではないかと思っている私には、折口の説がはまるような気がします。

話がそれてしまいました。
太鼓、笛のお囃子方は、曲がとぎれることなく複数の人が交代で演奏していましたが、唄っている方は一人、すばらしい声でずっと唄いどおしでした。
その28歳の女性Mさんにお話を聞くと、小さいころから民謡教室に入れられて、中学生のときから櫓にあげられて盆唄を唄ってきたとのこと。
太鼓は昨今流行りで、かっこいいし若い人もやりたがるけど、民謡は人気がないから自分の跡は継ぐ人がいない、というさみしい話でした。
そういえば最初のお囃子方は、十代の娘さん、お母さん、お祖父さんと親子三代のトリオ。十代の娘さんも否応なく小さいころから練習させられたと。
伝統とはそういうふうに残していかなければ伝承していかないんだと改めて感じました。

すばらしいのどを披露してくれたMさんと親子三世代の囃子方。 お祖父さまがいなせでとにかくかっこいい

すばらしいのどを披露してくれたMさんと親子三世代の囃子方。
お祖父さまがいなせでとにかくかっこいい

それから来賓の方々のあいさつ、双葉音頭、騎西音頭、地元の人たちのよさこい演舞などがあり、また盆踊りを堪能。
旧騎西高校避難所が閉鎖したあと、何度かお会いした方たちと交流、話をうかがうことができて感謝でした。
福島県内外の土地に定住した方もいらっしゃいますが、いまだ仮設住宅住まいであったり、コミュニティがバラバラになり、行政からの通達は届いても横のつながりが薄い、という話も聞きました。
ひとつの町のコミュニティが全国に散らばってもなお、故郷の土地は原発すぐ近くに存在する理不尽さ。
福島県内の避難区域内外、そのあいだの段階的な地域、それぞれにさまざまな問題があり、ひとことでは表現できませんが、“自分の”、“東京の”問題の一つとしてなにかしら関わっていくことを改めて思った次第です。

戻れない町(大熊)を思う気持ち  米田 博

国道6号線から見える大熊町をアップした。

そしたら…「あ~だめだ涙がでてくる」とコメントが返ってきた。

その人は、吉田編集長のところ出会った友人

FB_IMG_1437437950636

FB_IMG_1437437916234私は、思い出させてしまい申し訳ないとコメント。

「ん〜…。懐かしいんですよ。悔しいと言うより、懐かしいんです…生まれも育ちも大熊。色んな思い出があるから…」

FB_IMG_1437438066975

FB_IMG_1437437985330震災の時から10回も引っ越し…

生まれ育った町を奪われ…

その人はサーファー…

大好きな海を奪われ…

今は内陸部に住んでる

2015-07-21-12-17-53_deco

FB_IMG_1437437916234「金もらってっぺー?」

「いっぱいあんだべー?」

って言われたんだって…

避難で旅館でお世話になっている時も

「いいなぁ。上げ膳下げ膳でエアコンも使い放題だべ?」

…って

「ただいまって帰れるお家があって…」

って言ってたけど、今ではそんな風に言い返せる余裕がない……

…って

その人は、こう書いた…

「故郷を奪われるってとても辛いですよ」「復興って何ですかね。」

変わり果てた…もう住む事もできない故郷の写真を見て

「故郷を映してくれてありがとうございます」

と書いた…気持ち…

「わかる」と軽々しく言えない気持ち…

嫌なことを言ったヤツの写真を大木に打ち付けて呪ってやるってしかコメントできなかった…

会津で吉田編集長ともいっぱい話した。

東京で過ごしていた時の事…

大熊に帰ってきてきて、これからだって時の

震災…

原発事故…

避難生活…

朝の4時まで話した。

いろんな気持ちが伝わってきた…

2015-07-21-13-41-43_deco大熊町の役場がある会津…

なれない夏の暑さと冬の大雪…

この山のずっと向こうにある故郷 大熊を思いながら

避難生活している人達がいるんだよね…

「風にたじろがず日々を生きる ~ 5回目の3・11によせて ~」 酒井政秋

2011年3月のあの日からもうすぐ4年。

未だ置かれている状況は『避難』という中の非日常のような日常を送っている。

いつ日常という平穏な暮らしに辿り着けるのだろうか。

4年という月日で自立再建の決断をそれぞれ迫られている。

その中でいつも心は揺れ動き定まらない状況だ。

「安住の住まい」とは、プライバシーが守られ、日々の中で最も落ち着く空間でなくてはならない大切な場所。そこが未だないというのは落ち着かない。

日々、仮設住宅では救急車のサイレンや隣の足音や物音の中で生きるというのは、心を乱される。

飯舘村で育ち暮らしてきたものにとって『音』の変化でもあったと思う。

飯舘村にいるときは鳥の鳴き声、カエルの鳴き声・川のせせらぎ、風の音それが生活の中での『音』だった。

そして、その『音』は四季を感じるとても心休まる当たり前の音だった。

 

原発事故というのはひとり一人の人生や生活を一変させ、住み慣れた環境だった故郷を汚染された。

確かにそこにあっても、自由に入ることが出来ても『生活』ができぬ土地になってしまった。

原発事故前の暮らしは二度と元には戻らない。

あの日あの時の厳しくとも心は豊だった暮らしは、思い出でしか味わえない。

未来へとゆく者として原発事故は日本のどの地域においても、世界のどの地域においても起きてはならない事だと思う。もう歴史は繰り返されてはならない。

 

風が運んできた放射性物質。

いつもわたしたちはこの4年、

ある意味で風に心を乱され続けた日々であった気がする。

風潮であったり風化であったり、良いも悪いも常に取り巻く風がある。

追い風にも向かい風にも成り得る風。

その風にたじろがぬように。

 

歴史の中で人は誰かが最先端として作ったもので、時を経てまた別の関係のない誰かが苦しめられるという現実がある。

そんな歴史の繰り返しで良いのだろうか。

いつもこの時期はやけに大きなプレッシャーがのしかかる。

そして

結びに2011年3月11日から現在まで多くの尊い命が旅立たれた。

人・ペット・家畜・自然

静かに深く祈りたい。

 

 

2015年3月5日 飯舘村の風景

2015年3月5日 飯舘村の風景