「逆・差別ふくしま」の問題を考える。吉田邦吉

たとえば避難者が声を挙げると、Twitterでは大抵「一部の目立つ人達ばかりに声が聞かれ、われわれ平凡な福島県民には何ら光が当たらない!」というように迷惑噴飯ものぐらいの話をされるのを私は何度も一部の人達の言説で目にした。彼らは同時に「デマ撲滅」「放射能少しなら安全」「福島差別」の主張をする。

これはアメリカでは古い話に似ていることに最近、思いを致した。つまり「逆差別」の問題なのである。ごく簡単に言えば、「アフリカ人がアメリカで差別されていることを理由として、なにかしらの白人の枠を減らすことなどにつき、白人への差別だと主張すること」だと私は理解している。むろん厳密にどうなのか学んでないが、メモとして。

まず、ことを整理する。私の考えは、こうだ。

1、Aさんたちの不幸がある。
2、Aさんたちの不幸を解決する必要がある。
3、Aさんたちの声を聞く。

これが通常「復旧」と言われるものである。
追加して「復興」もあり得る。

これが、逆差別の主張だとこうなる。

1、Aさんたちの不幸がある。
2、Aさんたちの不幸だけを解決するのではなく、
3、自分たちというBの日常を聞け。

とても理解に苦しむのだが、この式ではAの不幸は相対化されてしまい解決は遠のくだろう。Bがものを食ったり遊んでいる話ばかりを「無理に」聞かされることになって、それが被災地なのか、被災を回復する必要はないのかとすら思う。

するとこういう反論が返って来る。

1、福島の不幸を搾取するな。
2、福島は不幸だけじゃない。
3、福島の幸福を聞け。

いつの間にか、被災の話は、どこか遠くへ行ってしまうような気がしてならない。むろん私は福島の楽しみを最も知る者のひとりだと自負するし、明るい話おおいに結構。そういう話はテレビで毎日毎日ずうっと観ている。

それでも彼らは言う、

1、被災者でなく、
2、脱原発の話でもなく、
3、俺たちの話を聞け。

いつも思うのだが、同じ被災地や同じ被災者の人達の話を私は聞きたいとき、こういう話ばかりがTwitterにあふれかえっているのを見ると、いつもがっかりする。彼らは酒を飲んで食べ物を食べてそれで良いなら、それで良いのではないか。なにかしらの「逆差別的な自説」を押し付けているようにしか見えない。

他人の足を引っ張っているようにしか見えないのが、「逆差別」なのかもしれない。いわゆる「平凡を強調する」ところにも、彼らの特徴はうかがえる。ただのオッサンというような自称をする人達のうち、その一部が、不幸な人達を、酒を飲みながら「逆恨みしている」ように見える。

もともとは「あまりにもひどい風評被害になるようなデマを、できるだけ信頼性ある話を中心に、それをたたき台にして、みんなで、それなりに妥当そうなものを探し、できるだけ明確な間違いを減らしていこう、事実をありのままに伝えよう」だったのが、いつの間にか、「風評加害は福島差別という問題」にすりかわり、そこに正義感と愛郷心を燃やし、Twitterで他人を排除する。

それを言う人達は、笑顔でこう言う、
「普通のオジサンです(^^)」

普通って、なんなんだろう。つぶやくほかない。