乱読日記*その七  「縄文聖地巡礼」:坂本龍一、中沢新一    伊藤千惠

いまだ7回しか続いていない乱読日記・・・。
しかも今年はじめての投稿というていたらく。
いや、常時並行して2~3冊は読んではいるが、筆力がなくて書き残せず残念なことに。できうれば、読んだものと市井の現状がむすびつながるような文章を目指すも、
そこが筆力と脳力が及ばず。。すみません言い訳ばかりで。

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「縄文聖地巡礼」は2010年5月発刊である。(木楽舎)
2006年から2008年まで雑誌に掲載されたものに新たに対談を加えてある。
つまり、東日本大震災における原発事故以前に書かれたのだけど、
事故後の私が思いもよらぬ人たちや書物と交流し、啓発されて考えてきたこと、事故後のいまを見すえたような内容に、ああ必然だったかとおもう。

それがなにかというとまず、
「現代文明を作っている価値は「ものとものが等価交換できる」という考え方によっている。」
それは、永遠に腐らない、とても便利な「貨幣」というものがになっている。
その考え方は、哲学で言う「他者」、もっというと「死」に直接かかわることが排除されることによって起き、等価交換の原理と結びついて、不死の象徴のような貨幣が生まれた、と中沢は言う。
そんな便利な道具にすぎない貨幣が主人公になってしまったような時代、9.11が露呈させたのは国家原理と経済のシステムが一体になっていることだと。

まあ、抽象的な表現はわかりにくくとも、永遠不死の「貨幣」による等価交換経済がいまの世界を席巻しているのは事実だ。

そして、縄文とよばれる時代の世界を動かしていた経済原理は、等価交換ではなく「贈与」であったと。
ものを贈るときには人の心を要素とした受け渡しがあり、ひとつとして同じものはないから等価交換にはならない。不死でも不変でもない。
あっと思った。
以前、会津の本の森図書館での絵本読書会で、このことばが出てきたことを思い出した。自然からいただいてばかりで何もお返ししなかった男の話だった。その男はありがとうも言わなかったのだ。
あれは私たちのことだったのか…。
自然から収奪するばかりで、なにひとつお返ししていない。感謝の言葉もない。
その極限は「核」だとこの本には何べんも出てくる。

国家が成立して、貨幣経済が人の生きる社会に与えてきた負の影響を3.11以降、いや本当はもっと以前から、私たちは体感しているじゃないか。

あるときから資本主義という単一原理で直線的につきすすむようになった社会が、方向転換しないと直線的に終末までいってしまうのではないかという危機感から、
縄文という先人たちの残した思考や文化にたちもどって、可能性をさぐってみた旅と対談である。

さて、3.11を経験した私たちに方向転換は可能だろうか?

等価交換と贈与の話はほんの水端で、聖地への旅を通して縄文的なるものとはなにか、たとえば線形に対して非線形、バイナリティ(二進法―1か2かという二項対立的なもの)に対してトリニティ(3を組み込んだ世界)について、また音楽についてもいろんな話が展開する。

そして坂本の、国家以前の先人たちの思考を知りたい、そうでないと日本人である自分が見えてこないということばは今の自分にとてもフィットする。
ここ数年、私が民俗藝能に惹きつけられるのも、より古層の、ヤマト以前のこの列島に住んだ人たちのことを感じたいのだろうと思う。