第五福竜丸展示館に行って感じたこと ~酒井政秋~

先日、第五福竜丸展示館に行ってきました。

第五福竜丸とは、1954年(昭和29年)3月1日午後6時45分(現地時間午後3時45分)、マグロ漁船第5福竜丸が、マーシャル諸島ビキニ環礁においてアメリカが行った、世界で最初の実用可能な水爆(水素爆弾)『ブラボー』の実験で、いわゆる『死の灰』を浴び被災した漁船でした。甲板に積もるくらい降り注いだ死の灰は、放射能を大量に含んだサンゴ礁の細かいチリでした。23名の漁船員は外部被曝はもちろん、内部被曝を大量にしました。

漁船員の身体は火傷状態となり、また内部被曝により、頭痛、吐き気、眼の痛みを感じ、歯茎から出血もしました。髪の毛を引っ張るとそこからごそっと抜け落ち、乗組員全員が急性放射能症になったのです。乗組員の被災当時の年齢は18歳から39歳(平均年齢25歳)と、若くしてたった1度の水爆実験によって被曝をしてしまったのです。その被災から半年経った1954年9月23日、放射能症による肝臓障害で久保山愛吉さんが40歳の若さで命を落としました。初めての犠牲者となったのです。久保山さんのご家族は献身的に看病をしました。その時の心情を長女が作文で綴っていました。

展示館に展示してある第五福竜丸

展示館に展示してある第五福竜丸

ここでその作文をご紹介したいと思います。

長女の作文

死の灰に負けてはならない。いっしょうけんめいこの灰とたたかってかならずよくなるといいつづけたおとうちゃん。家へかえれるようになったら、私たちをどうぶつえんにつれていってあげるよとやくそくしてくださったおとうちゃんなのに、今は私がおとうちゃんみや子よと耳元でよんでもへんじをしてくれません。きのうもきょうも重体のままです。ほんとうにかなしくておとうちゃんのまくらもとで泣いてしまいました。小さい安子やさよ子は上京していませんが遠く離れている家できっと泣きながらちいさい手をあわせてかみさまにおいのりしていることでしょう。

父と母と兄弟のいる温もりのある生活は、一瞬の核実験によって未来を人生を家族を奪いました。長女の叫びと祈りの声は核実験を起こしたアメリカへ届いたのでしょうか。

未だにこの被害者の苦悩は続いていると書いてありました。

一度被害を受けてしまったらもう二度と同じ人生を送れない事、それが核の恐怖ではないでしょうか。

もし、大切な人、愛する人が核被害の当事者になった時、あなたはどんな事を想うのでしょうか?どんなにやるせない事でしょう。大切な人、愛する人の苦しみに寄り添い続けることが出来るのでしょうか?目の前で起こっている事を見過ごせるでしょうか?それが、核です。それが核の被害なんだとまざまざと見せつけられ、たくさんの問いが私の胸にこみ上げてきました。

1954年3月1日 マーシャル諸島ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験の火球

1954年3月1日 マーシャル諸島ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験の火球

いつも人の作ったもので他の誰も罪のない人が犠牲になります。戦時中、原爆によって核の恐ろしさを知ったはずなのに、このマーシャル諸島やビキニ環礁沖の核実験において日本人も含め、土地を奪われた島の人々が犠牲になっています。それでも、この地球上から核は無くなりません。また、私たちも核の平和利用という名のもとに犠牲になった人なんだという事を強く自覚しなければなりません。

人間の尊厳と地球の尊厳、このどちらも考えながら、「核」というものは使い方を誤るとメリットなどどこにもないという事。ただ、人と土地,そして暮らしを壊滅させていくだけ。と感じます。

昨今の日本を見ていると、何か過去を見ないで突き進む気持ちの悪い空気感が漂いますが、今必要な事は過去を見つめ、そして振り返り、その根本となった根っこの真実を改めなおさなければならない時に来ているように感じる。それを怠ったら、また、歴史は繰り返されてしまうのではないでしょうか。