◇月いちリレーエッセー◇ 共に過ごしてきた「我が家」が無くなるとき~酒井 政秋~

2017年も残すところあと14日。

今年は3月末日に飯舘村避難指示解除になり、ようやく解除後に我が家の除染がはじまり、我が家の家屋解体をした。

家が無くなるという事は、はじめは想像すらつかないし実感すら持っていなかった。ただ、漠然と家を解体するんだな。という事だけだった…。

家屋2017しかし、いざ、除染が始まり、土が削られ、家屋周辺、田畑などがどんどん剥がされていくたび、心の中で何かが削られるような、いや、何かをえぐられる様なそんな気持ちがした。それは自分が育んできた生活をむしり取られるような感覚かもしれない。

除染も終わり、いよいよ家屋を解体するという連絡が入った。
祖父母が一代で築きあげた家が壊されていく。祖母からしてみたら、どれほどの心の傷なのかは孫であるわたしにも想像できない。もしかしたら、今まで生きた人生を一瞬で奪われる様な気持ちなのかもしれない。けれど、本心は分からない。
9月解体現場を見に行こうと決めた。家にたどり着くまで何を思って車を走らせたのかその時の記憶はないけれど、解体がはじまった家を見て、心臓がバクバク音を立てて早くなっていくのは感じた。この時にようやくこの家が、私が生まれてから共に生活をし、台風の日も、雪の日も、あの地震の時にさえも共に過ごしてきた「我が家」が無くなるときだと実感したのである。

壊されていく我が家変わりゆく姿を行ける日に足を運び写真で撮り収めた。
だんだんと崩れていく我が家が哀愁を帯びてゆく。

解体家屋

季節は初秋から本格的な秋へと変わる中、一軒の家は、更地になった。

更地

幼い頃、囲炉裏の淵でどこまで遠くに飛べるか姉と競い合っている中、誤って落ち大やけどをした囲炉裏も、よく寝坊をしそうになって急いで滑り落ちてた階段も、親戚がお盆に集まり従妹たちと蚊帳に入って遊んでいた客間も、受験勉強を夜遅くまでやっていた部屋も今では私や家族の心の中にしか存在しない。そこに行っても、影も形も今はない。けれども、そこは私が生まれた故郷ではあることは確かなわけである。

原発事故というものは、どこまで私たちの心を汚していくのだろうか。
わたしの住んでいた集落(わたしたちは「組」とも言っている)は帰村する人はゼロである。いずれ誰かが住むにはもう一度、先代が行ってきた「開拓・開墾」をしなければ住めないであろう。そういう「時の継承」をも失ってしまったのである。

これから、集落に祀ってある神様はどう継承していくのか、今の世代の人たちですら年配者である。次世代と言ってもこの集落では私を含めて2名しかいない。話し合いを重ねながら解決していくとは思うが、20年後の未来が原発事故のおかげで時を越えてのしかかってくる。緩やかに継承するはずがそうもいかない状況にさらされている。それもまた問題である。こうして、一つの集落、個々の問題だけでも問題は山積しているのである。飯舘村全体で大小問わずにどれだけの問題が日々増えていってるか予想をはるかに超えるだろう。そのなかで、当事者が沈黙してはダメ。と風の便りでそういう声が聞こえてくる。しかし、それ以上に現場では日々その問題と向き合い打開策を考えている人もいるという事を知ってほしい。そのうえで、無理のない範囲で発信を出来る人はやっていると理解をしてほしい。

来年は原発事故から8年目、時だけが足早に過ぎ去っていくが、それとともに県内の中での温度差、県外の温度差、自分の中での記憶の風化、どれだけ「自分事」として考えられるのか、当事者としても試される1年になるのではないかと思う。

 

本年もご愛読くださり誠にありがとうございました。

来年もできるだけ発信できるように精進していく所存でございます。

【特集 熊本地震:2】私にできること。それは伝えること。 酒井政秋

6月24日-

つぎに訪れた場所は熊本県益城町だ。
益城町は熊本県のほぼ中央からやや北寄りにあり、熊本市東部に隣接しており、熊本市のベッドタウンとしての役割も果たしている。
そこに、4月14日21時26分の前震とその28時間後の4月16日1時25分には本震が、熊本県をはじめとする巨大地震が相次いで襲った。
益城町に行くと、そこは無残にも家が崩れており、車道に覆いかぶさるかのように傾いた家やコンクリートの建物、1階が押しつぶされ2階だけが残っている建物、全部が斜めに崩れ落ちている家などが数多く点在していた。倒壊した家の前に、花束やお供え物が置いてあるところもあった。
被害がひどい地区は全く別世界のような、なんとも言葉にしがたい不思議な感覚に襲われた。
崩れた家並みの細い路地を歩いていくと、傾いた家の軒先にテントを張って生活をしている人、道路が崩れ落ちて、車が覆いかぶさっているところ、様々な光景が自分の目の前に飛び込んでくる。

シャッターを押す手も震えるとはこういう事なんだと初めて体験した。倒壊している建物 益城町にて
暮らしが揺れ動き、一瞬にして日常が崩れ落ち、そして、非日常の日々を送っている事はいかばかりか。想像はできるものの、全く東北の地震と質の違いに唯々、呆然としながらもこの状況をどう伝えればいいのか分からない時を過ごした。唯一、そんな時でも花はけなげに咲いていた。自然は時に、牙をむくときがある。けれども、自然でまた、癒されることもある。そうして、この困難を乗り越えてほしいと花を見ていてそう思った。

倒壊している街並みに咲く花。益城町にて
今は必死で日々を過ごしているのだろう。けれど、仮設住宅や借り上げ住宅に移ったとき、ホッとするのと同時に様々な喪失感と向き合わなければならない。その時、心身の疲れが噴出するときでもあるだろう。
そこをどうやって人支えで踏ん張っていくことができるのだろうか。
これは正直、地域、地域で全くニーズややり方が違う。被害の差によって生まれてくるであろう格差と生活再建までのスピードの差。その地域、地区に合う生活再建までの道のりをどう議論していくかが今後の課題でもあるように思えた。
旅の最後に訪れた喫茶店で、たまたま喫茶店の奥様とお話しすることができた。

「実は毎日不安で不安で、でも、そんなこと口にできないですから、みんな頑張ってますから。私も頑張ります。」

と笑顔で仰ってて、わたしはとっさに「頑張らなくていいと思います。悲しい時は泣いていいし、辛いなら辛いと誰か信頼できる人に言ってください。そうしないと、後々、心がつぶれてしまいますから。」と言わずにはいられなかった。奥様の笑顔はとても優しくその奥がとても疲れたように感じたからだ。

今回、西原村、熊本市、益城町を見てきた。それぞれの土地で被害の質と問題が違うこと、共通の問題もあること。それぞれに時間のかかる課題と天候によって、復旧するまでにながい道のりになるだろうなと感じた。
わたしに何ができるわけではないが、極論を言えば、最後に歩いていくのは個人個人だから。自分の歩幅で1歩1歩。疲れたら立ち止まり、周りを見渡し、また歩めばいい。絶対に無理して頑張ろうとしないこと、弱音だって信頼できる人には吐いたっていい。人間そんなに完璧な人間はいないのだから。そんなエールを個人的に送りたい気持ちだ。

九州が揺れたとき、自分が3.11に揺り戻された。

必死で熊本の友人・知人に情報を伝えた。
けれど、今回の自分は当事者ではない。
外側から何ができるだろうか。
物資を送ること、募金、それぞれ、一通りやった。
それでも、すっきりしない心があった。
揺れ動いた心が落ち着かなかった。
そして、やはり、自分の目で、耳で聴いて、視て、確かめたかった。
そして、やはり自分は震災後”伝えること”を大切にしているので、自分らしい支援の形、それは「伝えること」だった。
それがとても大切な気がしてこうしてペンを走らせた。

最後に、今回の地震によって尊い命に鎮魂の祈りと、今なお避難所で大変な暮らしをなさっている方々の日常が一日も早く取り戻せることを祈りつつこの文章を締めくくりたい。

熊本城