避難指示解除にあたって思うこと・考えること 酒井政秋

原発事故から7年目の避難生活も3月31日には帰還困難区域を除き避難指示解除となる。しかし問題が解決したからではない。未だに除染をしてもなお1μ㏜/hのところも数多く点在している。安全にというには程遠い。この避難指示解除に至る経緯について村の説明によると原子力災害対策本部長(安倍首相)へ要望書の提出(平成28年4月5日付・村と議会連盟提出)し村が政府に要望したという形で決議された(※1)。大半の村民は解除の一報に唖然としたことだろう、それは村民に周知する前の解除の一報だったからだ。いつもそういう大切な事案は決定されてからの説明会及び懇談会を開き、ただ決議された内容を話すだけの何とも奇妙な説明会や懇談会が行われる。そんなことが6年も続いた村民は疲弊をしてしまっている。それは、自ずと国の思うつぼなのかもしれない。当事者を疲弊させ、「言う口」を減らした方がスムーズに物事は進んでいく。そうして6年の間に切り捨てられてゆく村民を目にしてきた。

「どうせ・・・」「しょうがない・・・」そんな言葉が蔓延しているのは確かだ。

4月からは村に帰らない人は自ずと避難者から「自主」避難者となる。
村からも何れは切り捨てられるだろう。
けれど、我が故郷は飯舘村に違いはない。
飯舘村はのどかな村だった。
飯舘村は放射性物質にも汚染されたが、この6年で国にも汚染された。
村と国はズブズブの関係を築き、今まで村民が築きあげたものを次から次へと壊していった。
このまま壊されたものを諦め、見なかったことにして飯舘村として見過ごして果たして良いのだろうか。
小さな田舎社会というものはしがらみがある、けれど、今まで築きあげたものを押しつぶされて、それすらなかった事にされてもなお、頑張っぺ!なんて言えるのだろうか…。

村の行政区総会説明資料(※2)によると、前年度より2倍を超える212億3500万円と過去最大の予算額だ。その内容は、学校等再会整備事業・スポーツ公園整備事業・復興拠点エリア整備事業・被災地域農業復興総合支援事業などの事業により、昨年度と比較し120億7700万円の増であり、その中で、復興対応事業分は約177億円と予算全体の約83%を占めるという。

それが飯舘村らしいやり方なのだろうか…?

つつましく、あるものを活かし、自主自立で「までい」な生活をスローガンとしていた村が次々とハコモノを建てたり、整備したり。戻る村民の負担にならないだろうか。確かに6年放置された建物は老朽化して使えないかもしれない。けれど、それだとしても、あるものをリフォームして使うことだって可能だったはず。そのツケは未来の村民に重くのしかかってくるはずだ。維持費や経費などを考えると莫大な費用はかさむだろうに…。

それで果たして「飯舘村の復興」というものなのだろうか個人的には疑問である。
わたしだってこんなこと好きで説明会などで言っているわけでもないし、書いているわけではない。
黙って見ざる聞かざる言わざるをするほうが楽だ。しかし、それは未来への棚上げではないのだろうか。
何れは未来の村民に振りかぶって苦悩するのではないか。だとしたら第1当事者が言い続けなければならない。そして、綴り残さなければいけないのではないか。
原発事故というものは途方に暮れる問題だ。
しかし、このまま解決していない問題を解決されたようにされていいのだろうか。

これから起こるかもしれない実害と日本が抱えている社会問題の縮図がこの村に襲い掛かってくるだろう。

限界集落・高齢化・介護・孤独死・少子化・村の存続など多岐にわたる問題とこの原発事故による低線量被ばくの問題・健康被害・風評という実害。

元の村民らしい生活ができるわけではないのだ。どこかで我慢しながら生活をしていかなくてはいけない村になってしまう。

自然と共存・共生してきた村は、もうそれはできない。生態系は崩れ、民家にまでイノシシや猿が来ている。6年、人を見なくなった野生獣は「境界線」が無くなっている。まずはその境界線対策を練らなければならないだろう。四季折々の山菜はもちろん食すことができない。畑で作る野菜もその都度計測しなければ食べれない。そして、村民にはガラスバッチをつけ、積算線量を計測しなければそこでは生活できない。介護の問題もある。村では介護を受けることができない。なぜなら、介助する人員がいないためだ。

これが現実問題なのではないだろうか。

非常に目に見えないものに抑圧された生活となるのではないか。

それでも解除が喜ばしいことなのだろうか。

現実よりも幻想の中で、生きる為政者たち。

その幻想は現実村民の苦悩にならなければ良いなと切に思う。

本当の問題解決までにはあと何十年…いや何百年かかるのかもしれない。

100年先、200年先、300年先にあの大地がそこに住む人々が輝きを取り戻している事を希望にしながらこれからも伝え遺していきたい。

 

iitate

 

 

 

※参考資料 1)村民自治会懇談会資料より引用 2)平成29年度行政区総会説明資料より引用

7年目の原発事故避難生活(第1章)~村民の声2017~ 酒井政秋

第1章)村民の声2017

わたしは2012年~2014年まで「飯舘村の1人1人の想い~伝えたいメッセージ~」(HP:https://iitatemessege.jimdo.com/ )を運営していた。これは、事故後、各仮設住宅の傾聴を始めていくうちに一人ひとりがちゃんと自分の意見や想いがありながらも口にすることができず、一人ひとりが苦しみを抱えていた。なぜこの声が村・県・国には届かないのだろうと…もどかしい気持ちでいた。村民一人ひとりの「声」は大切な声なのに…と。わたしは当時政治家にお会いする機会や行政区説明会などが頻繁にあったのでその大切な声を伝えていこうと思った。実際に相馬仮設住宅の不備などを役場担当職員に要望してきたこともあった。月日は流れ関心が薄れつつある県外の人たちにもこの想いを知り村民一人ひとりが、どんな状況にあるのかを想像して欲しいと思うようになり、ホームページ開設とSNSで専用ページ(現在閉鎖)を作成して公開してきた。

あれから早3年、わたし自身も色々と忙しくなり、中々思うように‟伝える活動”さえも出来ない状況になっていた。

そこで今回、原発事故7年目・3月末避難指示解除(帰還困難区域を除く)を迎えるにあたって村民は何を思い、どんな心情で日々を送っているのだろうか。1度限りの復活として、何名かの村民にご協力してもらい質問用紙にて声を聴かせてもらった。回答(順不同)を原文そのまま伝えていくことにする。

それぞれの考えや思いは村民一人ひとりで変わる。そして、その気持ちは6年間、波のように情報や状況や環境で揺れ動いていることをご理解いただきながら読んでほしいと切に願う。

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

 

①震災・原発事故から7年目になるわけですが、あなたは今、どのような心境ですか?
(例えば、悩みや不安、怒り、将来への展望など、書ける範囲で字数には制限ありませんので、ご自由にお書きください。)

・家族が笑って暮らせればそれでいい、3月から新しい職場での仕事が(スムーズに)務まるか不安、部落での役割と責任が増していくのが負担、子どもが福島市の高校に入るので「いじめ」られないか不安。              (40代 男性)

・飯舘村には、あと10年以上戻らないと決めている。その先戻るかは、その時になってみないとわからない。飯舘村は、生まれ育った故郷。それでいい。これからの人生が大事だから、生活する場所にこだわる必要はないと考えている。原子力発電所がまだ不安定な状態なので、地震等の災害が来たら、行く先は決めていないが、すぐに逃げる覚悟はいつも持っている。                 (40代 男性)

・ストレスが富士の山よりも高く積もりました。         (80代 女性)

・避難先での生活としては長い年月が経ったのだなと思います。小学1年生の子供たちが、中学生になるほどの年月です。しかし、子供から高齢者の老若男女が、生活していけるような村になるという意味では、まだまだ短すぎる年月だと思います。山林の除染も何とかしてほしいと思います。自然と共に飯舘村の暮らしがありました。仮に除染をしても、元の暮らしが出来るとは思えないのが、正直なところですが…。100年、200年、300年経って、子供たちが何の不安も無しに、山や川など、外で楽しく遊べる日が来ることを願ってやみません。私は、飯舘村の写真を撮っているので、避難指示解除後、村に戻って精力的に活動している方や住民などにスポットをあてた写真も撮りたいと考えています。            (20代 男性)

・子供たちを自分と同じような環境で育てられない、地域社会の中で育てられない、そしてそれらを諦めてしまっていることを時折辛く感じる。別の場所に移り住んでそういう環境づくりをすればいいのだけれど、それでは地元に帰れなくなる。                (30代 男性)

②2017年3月末日で飯舘村が避難指示解除になりますが、まず、はじめにあなたは飯舘村に帰村しますか?それとも新天地で生活を継続していきますか?

《帰村するを選んだ方》

・村の指示に基づいて村に帰ります。飯舘村の自然と共に土で生きた人生でした。いのちの終焉は飯舘村の「土」になる覚悟で生きていきたいと思っています。

(80代 女性)

・いずれ帰村をする。そして、村での仕事をする。農地を守る。地域社会を守る。子供たちにつなげるかどうかは自分たち次第だと思う。       (30代 男性)

《新天地での生活継続を選んだ方》

・新天地に家を建てるので当面は新天地で生活していきますが、飯舘にも家を建て直すので、いずれは帰村するかもしれない・・・わからない。    (40代 男性)

・帰村しない。当分は、避難先で生活する。その後は、妻と一緒に永住できるような土地を探し、小さな家を建てる。
汚染された土地、フレコンバックがある風景。
そんなところに子供を連れて戻りたくない。
飯舘村は、まだ、元に戻る途中の状態である。まだまだ時間がかかる。

(40代 男性)

・まだ、帰りたいと思える場所ではないため。家族と一緒に新天地で暮らすことにした為。放射性物質、汚染の心配。避難先での生活の基盤が出来てきている中、早々に帰るメリットや理由が見いだせない。              (20代 男性)

・今は避難してからの生活が定着していて、現在の飯舘村で生活していけるのか?を考えると不安が多くあり(病院・買い物などのインフラ・放射能・フレコンバックなど)現時点では帰らないと決めて新天地で生活していきたいと考えています。   (40代 女性)

③避難指示解除について今のあなたの心境をお聞かせください。
・帰りたい方々が自宅や地域で過ごすことができて、大変良かったと思う。

(30代 男性)

・まず、避難指示解除の方針が示された時に思ったのは、「なんで?早すぎる」でした。その思いは、今でもまったく変わりません。そして、方針を知った村民の方たちの反応を見て、「こういう風になったのか」と思いました。避難指示が解除されたからといって、みんながやっと帰れるということではないんだな。
帰りたいけど帰れないんだな。
仕方なく帰るしかないんだな。
帰る気はないから帰らないんだな。
帰れるところじゃないから帰らないんだな。
帰っても、どう生活していくのか、何が出来るのか。
避難先での生活の基盤ができている方も多いと思います。
放射線量、汚染、単純にそれだけの問題ではないのが現状だと思います。

(20代 男性)

・避難指示になったときから、いつかは解除するとは思っていましたが、現況だと安心して帰れる状態ではないと思います。             (40代 女性)

・安心して村で生きる事への対応を!!とても不安に感じています。(80代 女性)

・仕方ないと思う。                      (40代 男性)

・汚染土が入ったフレコンバックが至る所にある状態で、避難指示が解除されることは到底許されるべきことではない。時の政府、県、村が責任不在のまま、自分たちの思いのまま決めているに過ぎない。そこに、避難している村民の声など反映されていない。村長選挙で今の村長が選ばれてしまったことに残念さ、無念さを感じる。

(40代 男性)

④今の行政に対してあなたが今、感じている事・思う事をご自由にお書きください。
・聴く耳、聴く場、伝えようとする場を持たない村なんて、本当の飯舘村じゃない!本当の飯舘村は村民の夢や将来、仕事継続等に向かってサポートする裏方!(村政が村民より)全面に出てどうする。誰がついていくのか?勝手にやってろと言われても、しょうがない。                      (40代 男性)

・村内での学校再開も、やはり本当にそれで良いものかと疑問です。
通学する際、子供を乗せた車やバスで、フレコンバッグが置かれているすぐ横を通り過ぎる。こんなことはあってほしくありませんし、とても悲しいことです。

(20代 男性)

・もう少し早い段階で村民からの意見に耳を傾け、話し合いをすれば、村民が知恵を出し合い、協調しながら解除に向けて準備ができたように思います。村政は、村民の為ではなく、「飯舘村」という名前だけ残ればいいように思えてなりません。

(40代 女性)

・役場職員のテンションは上がらないだろうが、前向きに頑張ってほしい。見る人は見ているから。応援・共同できるところはしていきたい。     (40代 男性)

・村職員の方々は大変忙しいのではないかと感じる。行政も続けられる体制でいてもらいたい。                          (30代 男性)

⑤さいごに上記の質問事項以外で何か伝えたいことがあれば、ご自由にお書きください。

・個々が懸命に生きていけば、それで良い。それぞれが家族を守りながら楽しく元気に暮らしていく事。行政には期待もしていないが、文句も全くない。大変だろうなと思う。俺にはできない。                    (40代 男性)

・村内で保護されている犬もこれから先どうなっていくか、気になるところです。
お世話してくださっている方の優しさとご苦労、そして、村内をパトロールされている方々、除染作業員の方々へ、感謝の気持ちでいっぱいの思いです。(20代 男性)

・誰も責任を取るつもりのないまま、ことが進んでいる。
飯舘村にこの先10年戻らない。飯舘村がどうなろうと構わないと思えれば楽なのだが、今の飯舘村のやり方を見ていると、どうしても我慢ならない。
我慢を抑えて生活しているとストレスがたまり、自分がダメになってしまうので、思うままに言い、思うままに行動するんだー!という気持ちで生きていきたい。

(40代 男性)

・高齢者が終の場所として選択した・・・村・国は安全、安心(人間が最低限度生活していく為に)をどう対応されるのか・・・?種々の角度から情報を頂いていきたいと思っております。私たちも村民として(自立・自律)と共生!!を常に心して生きていきたいと思っております。                  (80代 女性)

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

おわりにご協力いただいた村民の皆様に感謝をしたい。

この6年で村民の「声」はより重く響いてくる。

そして、言葉の裏にこれまで歩んできた平坦ではない道のりがどれほど険しかったことだろう…。

それぞれの苦渋の決断が迫られている。

 

 

【特集 熊本地震:2】私にできること。それは伝えること。 酒井政秋

6月24日-

つぎに訪れた場所は熊本県益城町だ。
益城町は熊本県のほぼ中央からやや北寄りにあり、熊本市東部に隣接しており、熊本市のベッドタウンとしての役割も果たしている。
そこに、4月14日21時26分の前震とその28時間後の4月16日1時25分には本震が、熊本県をはじめとする巨大地震が相次いで襲った。
益城町に行くと、そこは無残にも家が崩れており、車道に覆いかぶさるかのように傾いた家やコンクリートの建物、1階が押しつぶされ2階だけが残っている建物、全部が斜めに崩れ落ちている家などが数多く点在していた。倒壊した家の前に、花束やお供え物が置いてあるところもあった。
被害がひどい地区は全く別世界のような、なんとも言葉にしがたい不思議な感覚に襲われた。
崩れた家並みの細い路地を歩いていくと、傾いた家の軒先にテントを張って生活をしている人、道路が崩れ落ちて、車が覆いかぶさっているところ、様々な光景が自分の目の前に飛び込んでくる。

シャッターを押す手も震えるとはこういう事なんだと初めて体験した。倒壊している建物 益城町にて
暮らしが揺れ動き、一瞬にして日常が崩れ落ち、そして、非日常の日々を送っている事はいかばかりか。想像はできるものの、全く東北の地震と質の違いに唯々、呆然としながらもこの状況をどう伝えればいいのか分からない時を過ごした。唯一、そんな時でも花はけなげに咲いていた。自然は時に、牙をむくときがある。けれども、自然でまた、癒されることもある。そうして、この困難を乗り越えてほしいと花を見ていてそう思った。

倒壊している街並みに咲く花。益城町にて
今は必死で日々を過ごしているのだろう。けれど、仮設住宅や借り上げ住宅に移ったとき、ホッとするのと同時に様々な喪失感と向き合わなければならない。その時、心身の疲れが噴出するときでもあるだろう。
そこをどうやって人支えで踏ん張っていくことができるのだろうか。
これは正直、地域、地域で全くニーズややり方が違う。被害の差によって生まれてくるであろう格差と生活再建までのスピードの差。その地域、地区に合う生活再建までの道のりをどう議論していくかが今後の課題でもあるように思えた。
旅の最後に訪れた喫茶店で、たまたま喫茶店の奥様とお話しすることができた。

「実は毎日不安で不安で、でも、そんなこと口にできないですから、みんな頑張ってますから。私も頑張ります。」

と笑顔で仰ってて、わたしはとっさに「頑張らなくていいと思います。悲しい時は泣いていいし、辛いなら辛いと誰か信頼できる人に言ってください。そうしないと、後々、心がつぶれてしまいますから。」と言わずにはいられなかった。奥様の笑顔はとても優しくその奥がとても疲れたように感じたからだ。

今回、西原村、熊本市、益城町を見てきた。それぞれの土地で被害の質と問題が違うこと、共通の問題もあること。それぞれに時間のかかる課題と天候によって、復旧するまでにながい道のりになるだろうなと感じた。
わたしに何ができるわけではないが、極論を言えば、最後に歩いていくのは個人個人だから。自分の歩幅で1歩1歩。疲れたら立ち止まり、周りを見渡し、また歩めばいい。絶対に無理して頑張ろうとしないこと、弱音だって信頼できる人には吐いたっていい。人間そんなに完璧な人間はいないのだから。そんなエールを個人的に送りたい気持ちだ。

九州が揺れたとき、自分が3.11に揺り戻された。

必死で熊本の友人・知人に情報を伝えた。
けれど、今回の自分は当事者ではない。
外側から何ができるだろうか。
物資を送ること、募金、それぞれ、一通りやった。
それでも、すっきりしない心があった。
揺れ動いた心が落ち着かなかった。
そして、やはり、自分の目で、耳で聴いて、視て、確かめたかった。
そして、やはり自分は震災後”伝えること”を大切にしているので、自分らしい支援の形、それは「伝えること」だった。
それがとても大切な気がしてこうしてペンを走らせた。

最後に、今回の地震によって尊い命に鎮魂の祈りと、今なお避難所で大変な暮らしをなさっている方々の日常が一日も早く取り戻せることを祈りつつこの文章を締めくくりたい。

熊本城

 

「風にたじろがず日々を生きる ~ 5回目の3・11によせて ~」 酒井政秋

2011年3月のあの日からもうすぐ4年。

未だ置かれている状況は『避難』という中の非日常のような日常を送っている。

いつ日常という平穏な暮らしに辿り着けるのだろうか。

4年という月日で自立再建の決断をそれぞれ迫られている。

その中でいつも心は揺れ動き定まらない状況だ。

「安住の住まい」とは、プライバシーが守られ、日々の中で最も落ち着く空間でなくてはならない大切な場所。そこが未だないというのは落ち着かない。

日々、仮設住宅では救急車のサイレンや隣の足音や物音の中で生きるというのは、心を乱される。

飯舘村で育ち暮らしてきたものにとって『音』の変化でもあったと思う。

飯舘村にいるときは鳥の鳴き声、カエルの鳴き声・川のせせらぎ、風の音それが生活の中での『音』だった。

そして、その『音』は四季を感じるとても心休まる当たり前の音だった。

 

原発事故というのはひとり一人の人生や生活を一変させ、住み慣れた環境だった故郷を汚染された。

確かにそこにあっても、自由に入ることが出来ても『生活』ができぬ土地になってしまった。

原発事故前の暮らしは二度と元には戻らない。

あの日あの時の厳しくとも心は豊だった暮らしは、思い出でしか味わえない。

未来へとゆく者として原発事故は日本のどの地域においても、世界のどの地域においても起きてはならない事だと思う。もう歴史は繰り返されてはならない。

 

風が運んできた放射性物質。

いつもわたしたちはこの4年、

ある意味で風に心を乱され続けた日々であった気がする。

風潮であったり風化であったり、良いも悪いも常に取り巻く風がある。

追い風にも向かい風にも成り得る風。

その風にたじろがぬように。

 

歴史の中で人は誰かが最先端として作ったもので、時を経てまた別の関係のない誰かが苦しめられるという現実がある。

そんな歴史の繰り返しで良いのだろうか。

いつもこの時期はやけに大きなプレッシャーがのしかかる。

そして

結びに2011年3月11日から現在まで多くの尊い命が旅立たれた。

人・ペット・家畜・自然

静かに深く祈りたい。

 

 

2015年3月5日 飯舘村の風景

2015年3月5日 飯舘村の風景