揺り戻されたこゝろ 酒井政秋

うつろな夢の中で揺れている…。

夢じゃない!

やけに大きな地震だ。これは関東か?それにしても長いな。揺れは益々大きくなった。
急いで情報を集める。
震源地は福島沖だった。
原発が心配だった。津波の大きさによっては、また5年8ヶ月前より酷い状況にだって想定できる。
しかし…。
すぐに情報は出てこなかった…。
東電のTwitterには、「■お知らせ■11月22日午前5時59分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。現在、この地震による当社設備への影響を確認しております。詳細がわかり次第、お伝えいたします。」とのツイートだけ…。

あの時、何をあの企業は学んだんだ。と唇を噛み締めた。

後から東電は情報をツイートしてきたが、その前にメディアからの情報のほうが早かった。

不安がわたしの身体を包み込む。

最悪の状況をいつも想定し、1日の最後には必ずガソリンを満タンにする習慣が5年8ヶ月前にわたしのルーティーンになっていた。
食料の備蓄もしておいた。

でも実際備えても、またあの日の経験をしなくてはならないのか?その不安だったのだ。

明日がまた平穏に訪れるなんて保障はない。

パソコンとテレビと睨めっこをして、とにかく情報を集めて備えた。
気づけば2時間同じ体勢で情報を集めていた。
その間、友人の無事を各々確認したり、心配のメール、コメントが次々ときた。嬉しかった。その皆んなの祈りが不安を緩和してくれた。徐々に冷静さを取り戻していた。

仮設住宅の知り合いに声掛けをした。
みんな「あの日」の地震にこゝろは揺り戻されていた。
精神的に落ちこんでいる人は、「テレビを見ると身体が震えてくるからつけられない。」

「まずは原発が心配になった。」

そんな声が聞けた。

みんな目の奥は5年8ヶ月前の3月11日になっているようにわたしからは見えた。

自分が無理だと思ったらテレビや情報は見ないほうが良い。ストレスになるだけだから。と声をかけた。

改めて思った。

東京電力という企業の体質は何ら変わっていなかった。
ただ、5年8ヶ月前と違うのはSNSが普及している面、東電の中でも発信をしてくれる人がいた。ということだけ。
しかし、SNSをしていない人にとっては情報開示が遅いことで心労が深まったのではないか。ということだ。

改めて東京電力各位には速やかな情報開示をこの場で求めたい。

避難者の心労はまたひとつ深まったことを再認識し、改心し誠心誠意ある態度で臨んでいただきたい。

政治家の皆様には、地震が起きる度に原子力発電所の心配をしなければならないこの不安を取り除いて欲しい。
不安が押し寄せるエネルギーは時代遅れではないでしょうか?
日本列島はいや、地球は活動期に入っていると昨今相次ぐ天災で思います。国民を守る立場において、経済優先ではなく国民の生命を優先させなければならないのではないでしょうか?
核というものに平和利用なんてあり得ないということにまだ気がつかないのでしょうか?
原子力というエネルギーからの卒業するという転換期がやはりきているのではないでしょうか。
再稼動の道ではなく、エネルギーの転換する道へと進んでいくよう働きかけ・提言をよろしくお願いします。

もう2度と同じ経験をする被害者を出したくない。

それを痛切に感じた今朝の地震だった。

 

引用文:「東京電力(原子力)Twitter」より

第五福竜丸展示館に行って感じたこと ~酒井政秋~

先日、第五福竜丸展示館に行ってきました。

第五福竜丸とは、1954年(昭和29年)3月1日午後6時45分(現地時間午後3時45分)、マグロ漁船第5福竜丸が、マーシャル諸島ビキニ環礁においてアメリカが行った、世界で最初の実用可能な水爆(水素爆弾)『ブラボー』の実験で、いわゆる『死の灰』を浴び被災した漁船でした。甲板に積もるくらい降り注いだ死の灰は、放射能を大量に含んだサンゴ礁の細かいチリでした。23名の漁船員は外部被曝はもちろん、内部被曝を大量にしました。

漁船員の身体は火傷状態となり、また内部被曝により、頭痛、吐き気、眼の痛みを感じ、歯茎から出血もしました。髪の毛を引っ張るとそこからごそっと抜け落ち、乗組員全員が急性放射能症になったのです。乗組員の被災当時の年齢は18歳から39歳(平均年齢25歳)と、若くしてたった1度の水爆実験によって被曝をしてしまったのです。その被災から半年経った1954年9月23日、放射能症による肝臓障害で久保山愛吉さんが40歳の若さで命を落としました。初めての犠牲者となったのです。久保山さんのご家族は献身的に看病をしました。その時の心情を長女が作文で綴っていました。

展示館に展示してある第五福竜丸

展示館に展示してある第五福竜丸

ここでその作文をご紹介したいと思います。

長女の作文

死の灰に負けてはならない。いっしょうけんめいこの灰とたたかってかならずよくなるといいつづけたおとうちゃん。家へかえれるようになったら、私たちをどうぶつえんにつれていってあげるよとやくそくしてくださったおとうちゃんなのに、今は私がおとうちゃんみや子よと耳元でよんでもへんじをしてくれません。きのうもきょうも重体のままです。ほんとうにかなしくておとうちゃんのまくらもとで泣いてしまいました。小さい安子やさよ子は上京していませんが遠く離れている家できっと泣きながらちいさい手をあわせてかみさまにおいのりしていることでしょう。

父と母と兄弟のいる温もりのある生活は、一瞬の核実験によって未来を人生を家族を奪いました。長女の叫びと祈りの声は核実験を起こしたアメリカへ届いたのでしょうか。

未だにこの被害者の苦悩は続いていると書いてありました。

一度被害を受けてしまったらもう二度と同じ人生を送れない事、それが核の恐怖ではないでしょうか。

もし、大切な人、愛する人が核被害の当事者になった時、あなたはどんな事を想うのでしょうか?どんなにやるせない事でしょう。大切な人、愛する人の苦しみに寄り添い続けることが出来るのでしょうか?目の前で起こっている事を見過ごせるでしょうか?それが、核です。それが核の被害なんだとまざまざと見せつけられ、たくさんの問いが私の胸にこみ上げてきました。

1954年3月1日 マーシャル諸島ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験の火球

1954年3月1日 マーシャル諸島ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験の火球

いつも人の作ったもので他の誰も罪のない人が犠牲になります。戦時中、原爆によって核の恐ろしさを知ったはずなのに、このマーシャル諸島やビキニ環礁沖の核実験において日本人も含め、土地を奪われた島の人々が犠牲になっています。それでも、この地球上から核は無くなりません。また、私たちも核の平和利用という名のもとに犠牲になった人なんだという事を強く自覚しなければなりません。

人間の尊厳と地球の尊厳、このどちらも考えながら、「核」というものは使い方を誤るとメリットなどどこにもないという事。ただ、人と土地,そして暮らしを壊滅させていくだけ。と感じます。

昨今の日本を見ていると、何か過去を見ないで突き進む気持ちの悪い空気感が漂いますが、今必要な事は過去を見つめ、そして振り返り、その根本となった根っこの真実を改めなおさなければならない時に来ているように感じる。それを怠ったら、また、歴史は繰り返されてしまうのではないでしょうか。