山の恵みを奪われた暮らし2016 酒井政秋

秋、もう一度初心に戻り、この文章をあらためて世に送り出そうと思う。

以下の文章は今はもう存在しないサイトへ2013年に寄稿した文章だということをあらかじめ付け加えておく。

山の恵みを奪われた暮らし

今年もキノコの季節になった。飯舘村の避難から2年半が過ぎた。この時期になるといつも悔しい思いが強くなる。

私の祖母は山に行く事を震災前まで生きがいにしていた。その生き甲斐が原発事故によって失われた。単に山を歩くことが生きがいだったわけではない。春、木々が芽吹き、そして緑が増える頃、山菜が採れる。タラの芽、こごみ、ワラビ、すぐ近くに行けば沢山採れたのだ。

夏は畑で野菜のほとんどがスーパーに行かなくても収穫できた。秋になると松茸、イノハナ(正式にはコウタケ)、シメジ、マイタケ、数えきれないほどのキノコが採れた。その他にも沢山のものがすぐ近くに行けば採れたのだ。そして、それを食べるのはもちろん、近所の方におすそ分けをして共に喜ぶことだったり、また、遠くからキノコが食べたくて口伝えで買いに来られる方もいた。

そして、飯舘村の直売所は秋になるとキノコで一杯になる。紅葉を愛でながら、山へと行く祖母の姿はとても凛々しくもあり、活き活きしていた。祖母にとって、飯舘の人にとって山は生きていくうえで欠かせない「暮らしの一部」でもあり、「宝の山」でもあった。その暮らしが原発事故によって奪われたのである。

その事がどれほど大きい事か分かるだろうか。単に取れないだけの問題ではない。色も形も何ら変わりなく毎年山に出る。しかし、目の前にあるのに食べられない。香りは変わらないのに食べられない。ただ変わりがあるのは、測定された数値が示す放射性物質の値が高いという事だ。

生まれてきたときから山での生活をしてきた人にとって山の恵みを食べられないという事は、どれほどの事か。この償いを東電は認めようとはしない。生きがいの賠償・山での暮らしの賠償は未だ一切ない。お金に換えられないものは全く指針に示されず、そのお金に変えることができないここでいう「暮らし」が1番大事なことなのに。

1番安全な山の宝が今では1番危険なものになってしまった。その事の重大さは霞が関の官僚にわかるだろうか。利便性で簡単に得るものの満足と不自由な暮らしの中で見つける喜びどちらが正しいのだろうか。どちらが、未来を豊かにするものか我々世代が真剣に考えなければならないと思う。(2013年10月8日 筆者:酒井政秋)

 

我が家から見える野手上山

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家から眺めたこの景色をもう二度と見れなくなる。

それは、この景色は我が家の2階から見えた景色だった。しかし来年には家を取り壊す予定だ。

そして、今年もキノコは何万ベクレルもの値が出ている。山の恵みは未だに、安心して食べれる状態ではない。たとえ低い値でも「測定」しなければ食べられるのか、それとも食べられないのかという煩わしいことをしなければもう山の恵みは食べれない状態になってしまった。山での生活の中で「食の安全性」の喪失ということはとても大きいことだと理解してもらいたい。

 

 

11月14日2837名ADR1次申立書提出を終えて

11月14日早朝朝焼けが伊達の仮設を明るく照らした。阿武隈山脈の山々が赤く燃え立つように見えた。キンと冷えた空気に気が引き締まりながらも、東京へはいけない残りの声に出せない想いをADRと言う方法で東電に出しに行くそんな覚悟を感じた瞬間でもあった。

自分事ですが飯舘村は震災前まで生まれ育ったほんとにのどかすぎるほど、平凡すぎるほど穏やかな村だった。わずか6000人の小さなコミュニティーの中で育ちました。

小さな集落で大人がよその子供でも本気で叱ってくれるところでした。

生活の中で色んな知恵も昔の話も教えてもらい、そんな当たり前だと思っていた平凡さや大自然の中での不便さが嫌で東京に憧れを持ち始め高校を卒業すると同時に村を離れました。

紆余曲折あり、南相馬市を経て飯舘村に戻ってきたとき、心が疲れてしまっているなと感じた。これから自然の中でどう生きるかみたいなものと自分を少しずつ変えて行かなければならないなと漠然と思っていた時に東日本大震災が起こり、そして続く原発事故。一瞬にして緑豊かなその風景は私の目にはどんよりとグレーな世界へと変わってしまった。飯舘村で生きていく覚悟や飯舘村で叶えたかった夢・未来・終焉。そのすべてがこの事故で奪われてしまった。私の飯舘村での人生はあの日から止まったまま3年8か月過ぎてしまっている。私一人とってみてもまだまだ語りつくせない想いや負の感情、過去をあがいても戻らないと分かりながらも過去を想ってしまう心があります。一人一人の思いや考えや夢や人生は違えど、強制的に奪われた狂わされた人生の責任はこの原発事故にあると思っています。

これまで、弁護士面談で暗い表情を浮かべてきた村民が弁護士面談を終えてどことなく血色がよくなって帰っていく表情や「すっきりした~」って言っていく村民を何度も目にしてきて、みんなこの3年8か月、誰にも言えない心の奥底に閉まっていたことを改めて実感しました。そんな思いが11月14日申し立てと言う形になった東京ADRセンターの場所にいたことは自分でも何度も泣きそうになりながらも我慢をし、この想いが東電のトップに届きますようにと祈る気持ちで見届けた。

これから1次返答が来るまで時間はかかりますが、2次、3次と精神的な事項から不動産の個別事項、その他個々人における問題などをどんどん申し立てをしていく予定をしている。わたしは申立団の事務局(庶務)と下っ端ですが、今回ちゃんと裏方業を務められたかな。まずはホッとして熱出しました(笑)

でも、
まだこれがスタートラインの場所にようやく立ったという感じだと思う。

これからあまり長くなってほしくはなけれど、もしかすると長い闘いになってしまうだろうから、途中で給水しながらエネルギーを補給しながら完走したいそんな気持ちだ。

11月14日2837名ADR1次申立書提出(飯舘村)

11月14日、飯舘村ADR