南相馬のしんさいニートは東京で漫画を カトーコーキ(中)

上巻から続き)

伊藤「漫画を見ると、お父さんの影響は大きいですよね」

カトー「これまで、自分が考えている既存の働き方に固執し、それに何かやりたいという衝動を抑えつけられてきたんですが、それを一回捨ててしまおうと。どこかの企業に就職して給料をもらって生活することが、社会人としてのあり方だと自分の中に強く植えつけられていて、それは親の教育によるものでした。

自分ではそう思っていなかったけど、あなたの受けたトラウマから考えると、お父さんの教育は精神的虐待に当たる、とカウンセラーに言われショックでしたが、楽になった気持ちもありました。だから僕はこうなってしまったと理由づけられたので。今までそれがなかったから苦しかったんです。自分が悪いと思っていたから。

カウンセリングを受けて、ずいぶん楽にはなりましたが、まだ少し苦しいです。
30年間苦しんできたものが、そうそう置き換えられない。だからこそ、教育は大事だと思いましたね。子供を持つことに対して恐怖があるんです。自分以外の人間が自分をコントロールしようとする行為、外的コントロールというんですが、それを受けた人間は同じことを人にしてしまうという連鎖がこわい。

それ以前に、自分は人を愛する機能が備わっていないという感覚を持ってしまっているんです。自分が人を愛するためには、コップの中に親が注いでくれた愛がないと人に注げないという理屈を持っているんですね。この年齢でもう一度自分を再構築しようとしたとき、誰かを愛せるのかなと思うと難しいと思わざるを得ない。また同じように人を傷つけてしまうのではないか。そうすると自分も傷つく。それは自分でよくわかりますから。
そういう苦しみはすごくあるけど、漫画や音楽で自分を表現できるようになってきたことに関しては良かったなと思います。

自分の人生に意味があるとはそんなに思ってないんですが、何か使命があって生まれてきているとしたら、この漫画を描くことだと思っています。日本に生まれて、 あの場所で育って、原発事故にあって、いろいろ苦しい思いをして、ここまで生きてきたことの理由づけにしたいなと思っているんです。

本当は、僕は人間の生に意味はないと思っている。だから、あんなに簡単に津波で人が亡くなるし。人間は知能があるから意味づけたがるけど、動物としては子孫繁栄にしか意味はなくて、自然はそんなもの関係ないですよね。
震災以降に組んだバンドなので、作る歌もそういうことになりますね。」

伊藤「以前やっていたバンドは、そういう感じではなかったんですか?」

カトー「多少はあるかもしれませんが、今ほど明確な感覚や思想はなかったですね。
漫画を描く以前に、カウンセラーに何でもいいからやりたいことをやってくださいと言われたとき、音楽がやりたいと言ったのですが、書くことがなくて困っちゃった。
漫画を描き始めてからいろんなことが整理できるようになって、そのあとにバンドを組んだので書くことができました。それ以前は何を歌っていいかわからなかったんです。今は明確に言いたいこともありますね。

昔は誰かの真似といわれることに抵抗があったんですが、今は開き直って、誰しも影響はあると思えるようになって楽になりました。今ほど楽しく音楽をやれているときはないですね。ずっと苦しかったので。」

高田「いろんな人のいろんな気持ちを聞くと、その時点でぶれたりするけど、カトーさんはぶれてないと思ったんですよね。」

カトー「僕は宗教を全然否定しないけど、僕自身は無宗教で、震災以後、自然信仰に近いんだなと感じてるんです。勝手にガイア派と呼んでますが。(笑)信仰までいかない。
星に対して動物としての人間でしかないという感覚。熊や鹿や犬や猫とたいしてかわらない。多0少、知恵があって科学が発展し、自分もそれを利用するし悪いとは思わないですけど、生命としての分をきまえていないと思うんです。

どこか根底に自分たち人間の力に対しての過信があるから、あんなところに原発を作る。津波も噴火も地震も台風も、自然の営みとして当然あるだろう。人間はそんなにたいしたものじゃないという地点に立っているからぶれないんだと思います。

他人の立場は理解できるし、それぞれ正義を貫けばいいと思う。それで僕は勝手に傷つくけれど、仕方ないことだと思うんです。だから、僕は現地人としてできることをただするだけで、それをどう受け止められようがかまわない。全員がこの漫画をいいと思ってくれなくてもいいんです。どう思ってくれてもいい。

本がとても好きな人に、あれは現代版人間失格だね、と言われたのがすごく嬉しかったですね。社会に順応できなくて人も愛せないクズ人間の話でしょう?と。言いたいのはまさにそこなんで嬉しかった。こいつクズだなと思ってくれてもいい。」

高田「それは関心があるからそう思うんですよ。」

カトー「そうそう、漫画がきっかけになって何かを考えたりするステップになればそれでいい。出した瞬間、自分のものでなくなるから。ただ、出すにせよ極端なことを言って気持ちよくなりたいような出し方はしたくない。みんな面白いと思うところが違う。それでいいと思う。

いま自分のやっていることで、地元の人たちや県内外の人たちを傷つけたくないと思っているんです。あくまでもこういう事実があって、自分はこう考えたということを発表しているだけで、誰も傷つかなければいいと思っているんです。

『しんさいニートのテーマ』という曲のなかに、「帰りたい、帰れない、戻したい、戻せない」という詞があるんですが、帰りたければ帰れるんですよね。もしかして原町の人が聞いたら、帰れないことはない、僕たちはここに住んでいるじゃん!という気持ちになるかもしれない。それがこわいところ。だから、それは僕個人のスタンスだよ、という立場を貫かなければいけないと思っています。
罪悪感をごまかすために、寄付するという意識があるかもしれないですね。」

伊藤「でも相当な覚悟がないと描けないし、とても冷静に自分を分析してますよね。」

カトー「赤裸々にしないと伝わらないと思ったんです。ぜんぶかっさばいて出さないと。実際は描いてて辛かったのは父親のことくらいでした。

カウンセラーが言うには、うつの人は記憶と感情がくっついていて、記憶を時系列に整理して、感情と引き離す作業が必要なんだそうです。実際にカウンセリングでそれをやるんですが、漫画はそういう効果があったと。漫画を描き始めて楽になったのはそういう理由だと思います。

カウンセラーに、自分のことをこういう理由でこういう状態になっている説明したとき、間違ってない、よく分析されてますねと言われました。だけど、理由がわかっているのに解決できないのが辛いし、こわいんです。トラウマはべったりこびりついていてなかなか離れないんですが、自分の人生に対して理由づけできることがトラウマ処理の効果的方法だと教えてもらいました。自分の経験を漫画で描くということが過去を肯定したことになると言われて、楽になりましたね。」

伊藤「カウンセラーの先生もすごいですね。」

カトー「合ったんですね。僕は一番最初、うつになった瞬間というか、「死にたい」というワードにとりつかれた瞬間がはっきりわかりったんです。冷静な自分がそれを取り払われなければいけないと思っているんですが、全然頭から離れなくて通用しなかった。
父親がうつだったし、兄にも気をつけろと言われていたので、すぐに精神科の検査技師だった母に電話して病院にいったんですが、最初の病院はひどくて、薬を出すだけで信頼できなかったのでやめました。

死ぬ死なないということが自分の中であって会社をやめたあと、ほぼ寝たきりになり、昼も夜もなくベッドに吸い込まれて、おなかがすいた時だけコンビニへふらふら行って、食べて、また寝るという繰り返しでした。

30年自分に向き合ってきた人生なのに、自分では解決できなかったことに気づいたんですよね。自分の力なんてそんなもんだなと諦めがついて。ずっと自分で考えて解決できないことはないということを信念にしてきたのに、ずっと考えて原因がわかったのに解決方法が導きだせない。

でも、もう何でもいいから、人の手を借りてでも幸福感を感じたいと思って、カウンセラーを探したんです。職業として信用していなかったけど、最初に行ったところがすごくよかったんですね。最初から誉められて、自分を肯定されてすごく嬉しかった。いい出会いでした。

でも3.11が近づいたときは、しんどかったです。去年はまだカウンセリングを受けて日が浅く、浮上してない状態だったので、はなからしんどくて3.11が来てもあまり感じなかったんですが、今年は、バンドと漫画をはじめて楽しくなってきていたので、調子がよくなってきて、3.11が近づいてきたらずーんと下がった。通り過ぎて楽になりましたが。
4年たってもこんなですから、よけい置き去り感がありますね。」

下巻へ続く)

5年目の3.11 ~空も海も大地もつながっている~ 伊藤千惠

4年前の3月11日のことを克明に覚えている。
仕事場から家まで歩いて帰った。
そのとき東北の地で何がおきているか知る由もなく、夜中に幹線道路をぞろぞろと歩く東京のわたしたちは、ちょっと非日常的なうきうきとした気分でさえあった。
帰宅し、テレビをつけ尋常ならざる風景に息をのみ声を失いうちのめされた。
生活のすべてを災厄にうばわれた人々。
そして、東京で消費するための電力を作っていた東京電力福島第一原子力発電所の事故。

責任の重大さを認めない政府と東電に憤りを感じた人たちの抗議のデモへ行った。
今まで知ろうとしなかった政府の、中央省庁の、産・学界の功罪。自分の無知。
この国の経済成長の陰画のように存在する環境汚染や地方の衰退。日米関係。
いろんなものを読み漁り雑多に理解し、書き散らし、叫んだ。

以前から知っていた福島在住の知人のブログには、東京人の活動は違和感を持つとあった。
それにまたうちのめされた。理解されていると勝手に思い込んでいた。
困窮している人のことを考えるのが先じゃないか?
ネットでは多様な声はひびいてこない。

町ごと避難、という考えられない事態を体験した人たちのところへ行った。
福島県内に戻ったり、県外へ自主避難したり、ずっと住み続けたり、
さまざまな状況にいる人のことを自分の目で知りたいと思った。
取材対象としてではなく、欠落した知識を埋める情報としてではなく、
お隣に住んでいる人として、友だちとして話を聞きたいと思った。
今は、何をするべきかではなくて、自分はどうしたいかと思って生きている。

先のことはわからない。
空も海も大地もどこまでもつながっているように
隔絶するのではなく、やわらかく受け止めたいと思っている。

聴けなかった姿 5回目の3・11によせて 吉田葉月

イヤー・クリーニングというのを御存知ですか。
学生時代に、それを恩師に教えてもらいました。

川原、高台、公園など、自分の落ち着ける好きな場所に行って、ただ音を聞き取ることに徹します。できれば10分20分と、それをやってみる。鳥の声が聴こえるかもしれないし、風が木の葉を揺らす音が聴こえるかもしれない。工場の排気音や高速道路を車が走る音が聴こえるかもしれない。

私が以前、川原でこれを行ったとき、現在しゃがみこんでいる位置の地形や傾斜の特徴まで、聴こえによって見ることができたことに、静かに感動しました。音以外の情報の感受から離れるとはいえ、水がどちらからどちらに流れるのか考えてしまう。風の吹き込む音から、谷間であることを解してしまう。目を瞑っていても、鳥が傍まで来ていて、ひとしきり偵察をされて離れていく事も、その声や羽ばたきで分かってしまう。
ただ聴くことに徹し30分ほど経ち、聴くだけに徹していた状態を解く。すると、イヤー・クリーニングを解いた直後の状態と、誰かによって情報化された情報を、環境から取捨選択していたかのような以前の状態との違いに気づきます。

しゃがんでいた傍の見やった先にあった低く小さな草本が、私にとって何か特別なことに感じました。愛着がわくようで、名前でも付けてみたくなりました。そのようなことが、与えられていない、私の必要による報せのように感じます。
イヤー・クリーニングによって、どこのだれか分からない者の選り抜いたような情報から空間を構築しがちだったことが、明らかになった気がしました。

そういえばさっき、原発の傍に暮らしながら、その姿の測れなさ、捉えにくさを感じたことを思いだしました。

2011年夏~秋頃、会津鉄道や野岩鉄道の下今市方面、車内の四人掛けのシートに座り、会津の風景を感じて描きました。これを描いていると、子どもが、もの珍しそうに集まってきました。(吉田葉月)

2011年夏~秋頃、会津鉄道や野岩鉄道の下今市方面、車内の四人掛けのシートに座り、会津の風景を感じて描きました。これを描いていると、子どもが、もの珍しそうに集まってきました。(吉田葉月)

私には福島第一原子力発電所より、そう遠くない場所に住んでいました。それなのに、間近で原発の全貌を見たことは無かった。今では、存在の危険さがしきりに呼びかけられているけれど、福島県内であっても、現在のように新聞やテレビで日々報道されるということは、まずありませんでした。

一度だけ原発を捉えようと赴いたことがあります。たしか2009年か2010年ごろだったと記憶しています。
ある時期から、地域の姿のようなものが気になり始め、原発のことも気にかかるようになりました。近隣に住みながら発電所の全貌を見ないままでよいわけがないと感じるようになって、発電所の敷地を目指し車を走らせる。
国道から曲がり走行していくと、国道付近には見られたような、分かりやすく人間の跡と言えるような人家や田畑は途中から無くなっていくように記憶している。どちらかと言えば暗くなっていく。針葉樹が道路に並走して茂っていたように思う。対向車は無く、前後にも車は無い。生活に頻繁に利用する国道を折れてから第一原発までの道程を走行してみると、それは、私にとっては用がなければ通らない道、という印象を持ちました。
数分ほど、人家の無い、人気の無い道に従ってに走行すると、第一原発の門が現れる。施設のような建物が眼前に現れたことは分かるが、私は視界にできるだけすっぽり入りきるというような、姿、が見たかった。できるだけ広く視界に入れようと後退すれば林に突っ込んでしまう。
その時の私の持ちうる知では、まるごと目に入れるために、どこに行き、あるいはどんな手続きを踏み、発電所の姿を知ればいいのか分からなかった。

福島第一原子力発電所について私が知っていることはそのようなことくらい。

最近、NHKの男性のアナウンサーが、第一原子力発電所の復旧中の模様を中継していました。
もうすぐ3月11日なので、テレビ局も特集を放映し始めてきているみたい。

3月って暖かい日が多くなりますね。
私はここ何年かの3月11日は何もしませんでした。モニターに向かって思いの丈を綴ることもしないし、ニュースからも離れるでしょう。謳われることから離れます。そのとき震災が起こったら?どこかへ隠れて朝を待ちます。
私は今年の3月11日はイヤー・クリーニングでもして過ごそうと思います。

ご挨拶

皆さん、初めまして。

私は栃木県に住んでいます。
私についての最近とその少し前のことを中心にお話しします。私は普段、絵を描いたり、畑で野菜を収穫するための支度をしたり、木や紙粘土などを使って工作をしています。一つの家に住んでいる同居人がいます。その人と一緒に食べる夕飯を作ります。アルバイトもします。

これを書いている今は冬ですが、去年の夏はたくさん海に行きました。私は海が好きです。砂浜を歩いて海の風を浴びるととても心地良いですよ。しかも、夏なら海に潜ることができます。私は、奄美群島の海と日本海でシュノーケリングをしました。奄美群島の海では、黄色や紫や緑色などの美しい魚と出会えます。浅瀬には海鼠(なまこ)も沢山います。日本海では雲丹(うに)を採って、一匹ぺろりとその場で食べてしまったんです。私は食いしん坊です。海に潜って自分で採った雲丹はとても美味しかったです(地元の許可のある漁場です)。

奄美群島にて。旅人のような暮らしに憧れて、アルバイト代を溜めて旅行。

奄美群島にて。旅人のような暮らしに憧れて、アルバイト代を溜めて旅行。

栃木県は、周りに海がありません。時々海が恋しくなります。私が生まれたのは、福島県の海の近くの町です。1983年に生まれました。生物学的に女性。絵を描くのが好きな子でした。スポーツは大の苦手でした。福島県の海の近くの町で、18歳ぐらいになるまで過ごしました。その後、山梨や東京に住むこともありましたが、20代になってから、再び福島県の生まれ育った土地に戻ってきました。

皆さんは2011年、3月11日に福島県の海辺で起こったことを知っていますか。福島県の海辺だけではありません。日本のあちこちで、地面が大きく揺れました。大変大きな地震や津波がありました。日本の陸地で一番震源に近いのが宮城県の金華山と言われています。猿や鹿たちが住んでいる島です。その傍が地震の源です。震源は福島県の海辺からも、とても近いです。これを書いている最近も余震があったので、この文が発表されてからすぐにこれを読んだ人の中には、余震のたび、不安な思いをされている方もいるかもしれません。

この文を作っている期間中、紙粘土を触っていたら、生き物の姿が現れてきました。福島県の地層で骨が見つかったフタバスズキリュウの姿にもどこか似ています。

この文を作っている時、紙粘土を触っていたら、生き物の姿が現れてきました。福島の海辺の地層で骨が見つかったフタバスズキリュウの姿にもどこか似ています。

その大きな地震があってから、私は福島県の海辺の町には住めなくなりました。家や道路が壊れてしまったせいもあります。津波で亡くなってしまった人もいます。さらに、福島第一原子力発電所の原子炉で爆発が起きました。私は、人間は原発から飛び散ったものが混ざった空気とは生きていくことができないと判断しました。だから暮らしていた地を離れました。

その後、私はいくらか場所を転々としていました。色々な人や土地にお世話になりながら。2011年3月11日から今日までの間に、今、こうして文をパソコンで打っている部屋があるこの家と、それを貸してくれる人に出会い、いくらかは安心な場所で暮らすことができるようになりました。

これが最近、そして少し前の私についてです。どうぞよろしく。

ご挨拶

初めて福島に来たのは2013年2月だった。
それまで私は福島とは縁もゆかりもなかった。
「福島県」が日本の中でどこに位置するかさえも知らなかった。

震災が起きなければ、私が福島に移住することはなかったかもしれない。
震災が起きなければ、今私が日々対面する人たちとは一生出会わなかったかもしれない。
そう思うと不思議である。

都心から離れた郊外にある東京都日野市で生まれ育った。
母親は茨城の出身で、幼い頃の田舎での暮らしを聞くのがいつも楽しみだったこともあり、いつか田舎暮らしをしてみたいと思っていた。

性格は好きなものにはとことんのめり込むタイプ。
深く入り込むほどに、地底の深い部分に触れることができるような気がする。
気に入ったら同じ本を何度も読む。
同じ音楽を何度も聞く。

めんどくさがりで横着。
やるべきことをいつも後回しにして怒られる。
ぎりぎりになっていつも大事なことに気付く。

興味があることに関しては、思い立ったらすぐ行動する。
しないと気が済まない。
自分に正直。他人にも嘘がつけない。

        *

震災が起きるまで、原発が何かも知らなかった。
電気がどうやって発電されているのかについて気にしたことはなかった。
多くの人がそうかもしれない。

震災で爆発した福島第一原発の発電する電気が東京に送られていたことなんて知る由もなかった。
でもその事実を知ったとき、私はどうしようもない気持ちになった。

1年が経過した頃、東京で暮らす人々は震災のことなんか忘れているように見えた。彼らの目にはそれらは過去でしかなかった。現在進行形の事実ではなかった。
目の前にやるべきことがあったし、過ごすべき日常があったからだ。
そうして人々は震災があったことを忘れていった。

しかしニュースや雑誌や新聞で見る福島の現状を考えると、それはばかげたことのように思えた。どうして電気を使っていた東京の人間が優雅に毎日を送っていて、福島の人はそうではないのだろう。そんな違和感は、日々原発や福島の現状を調べて知っていくにつれて膨らんでいった。

その後は福島関連のNPOのイベントに参加したり、講演会に行ったり、大学で情報発信のためのサークルを作ったりした。

そして当時ジャーナリスト志望だった私に、知人が紹介してくれたフリージャーナリストのある人が言った。「福島のために何かしたいならまずは福島に行ってインタビューしてくることだな」

その一言で、私は2013年2月から福島県でインタビューを始めた。
震災が起きる前のこと、震災時のこと、その後の生活のことを聞いた。
聞けば聞くほど、私は自分が今まで何も知らなかったのだということに気付いた。
福島のために何かしたいのなら、現地の人が何を考えているかを知らずに動くことは逆に迷惑をかけることになるかもしれない、そう思いインタビューを続けることにした。

そしてこのウェブマガジン「ヴェルトガイスト」に寄稿させていただくことになったのも、編集長吉田邦吉さんとインタビューで縁があったからだった。

        *

東京から福島に通うだけでは本当のことは見えないかもしれないと感じていた。
2014年4月、思い切って私は福島に移住した。

8月から福島県田村市都路町で復興支援員として活動している。
都路町の一部は福島原発から約20キロ圏内に位置しており、今年4月に避難指示が解除された。徐々に住民が帰還するなかで、細かいサポートを行い地域が持続可能になるよう活動している。

めぐりめぐって福島に来たことは大きな意味があると思っている。
出会った人、土地、景色、空気、雰囲気、心の奥底の声、喜びや悲しみ、そういったものすべてに触れられる日々を大切にしたい。
そして自分の目で見たものだけを伝えていきたい、そう思っている。

まだまだ新参者ですが、新しい福島県民として、ウェブライターとして、今後ともどうぞよろしくお願い致します。