【日本は崩壊するのか】吉田邦吉

とんでもないニュースだ。
金銭だけのことでは全くない。

国家が潰れるということなのかもしれない。私は素人だから違うと思うなら教えて頂きたい。毎日新聞によれば、東日本大震災の50倍か100倍の被害総額のある災害が、首都直下または南海トラフだそうだからだ(土木学会の試算)(土木学会 南海トラフ巨大地震は1410兆円 被害額推計 毎日新聞2018年6月7日)。

「地震とそれに伴う津波は発生から20年にわたる被害を累計し、南海トラフ巨大地震は1410兆円、首都直下地震は778兆円と見積もった。政府の想定を基に、長期にわたる国内総生産(GDP)の落ち込みを阪神大震災の経過を参考に推計」された。

「一方、公共インフラ整備を進めることで、これらの被害を最大6割軽減できると推計。政府・与党が推進する国土強靱(きょうじん)化計画をさらに強化するよう提言した。」とのことである。

これは、私の想像で言えば、この50倍や100倍というのは、東日本大震災が発生してすぐの金額から予想される話であり、その後の総額や原発事故の被害総額を入れたら倍数が違ってくるだろう(東日本大震災の被害総額は約16兆9000億円、内閣府が推計 ロイター 20110611)。

と言ってもそれは、1410兆円や778兆円という南海トラフや首都直下型地震の金額が変わることを意味しない。変わるのは、あくまで対策を非常にとれた場合には、半分ぐらいになるだろうという話である。半分だって存亡の危機だ。

公共事業したいから土木学会が言ったとも思えない。政府の地震調査委員会は30年以内に南海トラフ地震が80%の確立で発生するという試算もあるようだ。それも数年前から聞いているのであと25年ほど以内なのだろうか。

25年目に来るとか明日ということではない。とにかく、あと30年以内のどこなのかが、分からないから、そういう予想を立てているのだろう。災害は一つだけ起きるとは全く限らない。台風、地震、津波、竜巻、火災……。

本当は命のほうから考えるべきだが、そちらのほうを私はFacebookで何度も前に新聞記事を用いて周知してきた。今回は、金銭のほうが想像しやすいと思ってそちらで考えてみる。土木学会会長は最貧国に成りかねない、国難になると主張している。

現在日本は、年間の国家財政が大体55兆円(一般会計)収入しかなく、その1/3は既に将来の人達が税金などで負担する予定であり、なぜなら今は借金が1000兆円あってどうしようもない状態なのである。

そこから災害が来たら収入1/5とか1/2などになるだろう。そこから20年間は、さらに1000兆円もかかると言われてハイそうですかで出てこない。というよりも、ハイパーレスキューや自衛隊などの人数や機械がまったく不足するのだろう、さきに大問題だ。

が、生き残った先は、少なくとも従来の日本ではない可能性が高いようである。どういうことかと言えば、日本政府は確実に緊急事態条項またはそれに類似した超法規的な政令や法令により、国民の貯蓄1000兆円とも言われるそれを奪うだろう。

それができなければ、いや、出来たとしても人はパニックに陥っている可能性が高いので、しばらく放置される、または、金を工面できても他国から乗っ取られる可能性が、とても高い。国防を強化しても操作する人員は居ない可能性がある。

すなわち、首都直下や南海トラフは、
日本全体が有史以来のクライマックスを迎えるという現象なのであった。

…………しかし、この話はもう何度も書いてきた。この国は崩壊するまで分からないのだろう。30年以内に80%で起きるかもって言われても誰も騒がないに等しいのである。「だから売国政策が多いのか」なんて邪推してしまう。

どのみち存亡ならば紙幣を刷って福祉を増やしておいたほうが日本に住まう人々には良いと思われる、なぜなら今は日本の貨幣価値が高いからだ。しかし3・11の時も、起きてから蜘蛛の子を散らし、被災地や避難者についての差別発言が増え、政府東電が責任をとったとも思えない状況である。

本当にこのままで良いのだろうか。
本当に、無関心で良いのだろうか。

まともに全員に明確に語りすぎてしまうとパニックになって今の経済が混乱するからかもしれない。南海トラフ関係にある原発はどうなるのだろうか。フクイチはどうなる。パニックどころでない。未来の命と国家。

もし本当に起きてしまって、別の国になった後は、それもやむなしなのだろう。当面は納税先や言語や法体系が変わるだけだ。日本的な文化はそう簡単に変わらない。しかし、失われずに済むはずの命は助かってもらいたい。

それに、お金のことよりも、機械があってもガソリンが、人が居ても物資が、そして食料が、また非常事態になるだろう。田舎をバカにしている場合ではない。日本全体が自給自足するためにも一次産業を大事にせねばならない。

侵略されたら難民に等しい。しかし私は既に原発事故の国内難民なのであった。また難民になるのだろうか。3・11の時も、2011年1月に偶然のネット情報を見て私は「原発事故が起きる」ということを予測したものだった。

日本の最期か……、日本の最期を自分が生きている間に観てしまうことになるとは、想像したくないし考えたくもない。だが昨今の激動では、昨今のウソばかり政治では、一体本当にこの国は続くのかと思わざるを得ない。

日本の未来に、東北の再生エネルギーが役立つかもしれない。希望を託したい。いつも読んでくれる人達と、日本に居るみんなの幸せを祈ってせめてここに書き記す。

いやさか。

参考文献
かさぶた 福島 The Silent Views 2016/2/26 中筋純 東邦出版
首都直下地震 (岩波新書) 新書 – 2016/2/20 平田 直 岩波新書
南海トラフ地震 (岩波新書) 新書 – 2016/1/21 山岡 耕春 岩波新書
南海トラフ被害、20年間で最悪1410兆円 土木学会が推計 インフラ耐震化で3~4割減 日経新聞 20180607
南海トラフ地震の想定動画 ※非公式
南海トラフ地震 被害1,410兆円 国の予算の14倍 FNN PRIME 20180608
南海トラフ地震の被害想定 朝日新聞 20150908
南海トラフ地震「兆候」 対応の国指針まだ、広がる困惑 朝日新聞 20150528
南海トラフ地震に関連する情報 気象庁(情報が混乱しているが、次のリンクを読むに、どうやら気象庁を見ておくと良いようだ)⇒「南海トラフの地震にどう対応するか」(視点・論点)2017年11月02日 (木)静岡大学教授 岩田孝仁 NHK
中央防災会議 内閣府
「南海トラフ地震は、おおむね100~150年間隔で繰り返し発生しています」気象庁
南海トラフ巨大地震 毎日新聞
南海トラフ巨大地震 長期的な経済被害 推計で1410兆円 NHK 2018年6月7日【土木学会の委員会の委員を務めた、巨大地震の防災対策に詳しい関西大学の河田惠昭特別任命教授は「会社だと赤字で倒産するが、国の場合は滅亡する。南海トラフ巨大地震のような『国難災害』が起きると、国が成り立たなくなると考えるべきだ」と指摘】【「今は、南海トラフ巨大地震も首都直下地震も、30年以内の発生確率が70%から80%ほどになっていて、一刻の猶予も許されない時代に入っている。『想定外』という言葉は東日本大震災で最後にしなければならず、そのためには新たな対策を進めていかなければならない」と話し】た(引用)。
「ふだんと比べて巨大地震発生の可能性が高まっている」「新情報 知らない8割」 NHK 20180328

大阪府北部で震度6弱 毎日新聞 20180618 18日午前7時58分ごろ、大阪府北部で震度6弱の地震があった。気象庁によると、震源地は大阪府北部で、震源の深さは約10キロ。地震の規模を示すマグニチュードは5.9と推定される。京都府、奈良県、滋賀県、兵庫県でも震度5を観測した。この地震による津波の心配はない。(引用)

ざっと参考メモがてらに書いておく。地震対策につきNHKでは家具の転倒や落下への対策をと書いているのは、テレビが水平に枕元へ飛んできたりするからだ。そう考えると、地震で最初に重要なのはヘルメットや厚手の服や靴などなのかもしれない。次に水や食料。そしてトイレなど。私が地震の時に最も「失敗したと感じている」のは、「本がなだれ込んできてPHS充電器の場所がわからなくなってしまったこと」だった。

当時、貴重品だけ私は「なにか大地震あるかもしれない」と予測していたためだ(しかし当時の私に発信力はゼロだった)。とにかく充電器のせいで後々だれとも連絡がとれなくなる。ほかの人達は遠いコンビニや他のひとから借りて、大丈夫だったかと確認しあっていた。いっぽう、わたしは英和辞書や哲学そして聖書を読んでいたり、できた仲間たちと風呂を探したり店を探したり行政にお願いして対策を増やしたりした(そのため私の避難所では風呂が安定して大変早かった)。ネット回線がなくなると、いきなり家族以外で孤独になる。

その次に大変なのは集団行動である。これにはまいる。いろんな人がいる。長引く不安、寒い、腹減る、疲れて、多数が風邪をひいたり体調不良になる。そして最後に政治である。政治を改善せねばわれわれに未来はない。今やリッチたちは時々タックスヘイブンであり核兵器シェルターさえ購入しているのだから、億単位の家庭用の飛行機だって購入しているだろう。なんとも言えないこの露骨な差をわれわれは少しでも憲法25条にある通り、人としての最低限度を保たなければばならない。

大阪で最大震度6弱 地震発生時にやるべきこと・やってはいけないこと「東京防災」を使う 2018/06/18 籏智 広太 BuzzFeed

時系列でわかる 大阪で震度6弱 NHK 20180618 閲覧 激しい地震などは「想定内」になってきている昨今。身近なところではブロック塀の安全管理について要注意。ぜひとも深呼吸から準備を始めていきたい。

大阪地震で女児ら3人死亡「古いプールの壁やブロック塀は共振して危険なインフラ」地震学者 西岡千史 2018.6.18 Aera dot

すべての犠牲者にお悔やみ申し上げます。今回メディアは言うだろうか。いま稼働中の原発4基すべては西日本にあるということを。最終処分場や再エネも含め議論すると西日本や首都や日本全体にとって良い。こんな時に原発事故が来るわけで。だれか知らぬ無関心であった人々に届き、本格的な対策や準備への学びのきっかけになることを願って。

◇月いちリレーエッセー◇ 共に過ごしてきた「我が家」が無くなるとき~酒井 政秋~

2017年も残すところあと14日。

今年は3月末日に飯舘村避難指示解除になり、ようやく解除後に我が家の除染がはじまり、我が家の家屋解体をした。

家が無くなるという事は、はじめは想像すらつかないし実感すら持っていなかった。ただ、漠然と家を解体するんだな。という事だけだった…。

家屋2017しかし、いざ、除染が始まり、土が削られ、家屋周辺、田畑などがどんどん剥がされていくたび、心の中で何かが削られるような、いや、何かをえぐられる様なそんな気持ちがした。それは自分が育んできた生活をむしり取られるような感覚かもしれない。

除染も終わり、いよいよ家屋を解体するという連絡が入った。
祖父母が一代で築きあげた家が壊されていく。祖母からしてみたら、どれほどの心の傷なのかは孫であるわたしにも想像できない。もしかしたら、今まで生きた人生を一瞬で奪われる様な気持ちなのかもしれない。けれど、本心は分からない。
9月解体現場を見に行こうと決めた。家にたどり着くまで何を思って車を走らせたのかその時の記憶はないけれど、解体がはじまった家を見て、心臓がバクバク音を立てて早くなっていくのは感じた。この時にようやくこの家が、私が生まれてから共に生活をし、台風の日も、雪の日も、あの地震の時にさえも共に過ごしてきた「我が家」が無くなるときだと実感したのである。

壊されていく我が家変わりゆく姿を行ける日に足を運び写真で撮り収めた。
だんだんと崩れていく我が家が哀愁を帯びてゆく。

解体家屋

季節は初秋から本格的な秋へと変わる中、一軒の家は、更地になった。

更地

幼い頃、囲炉裏の淵でどこまで遠くに飛べるか姉と競い合っている中、誤って落ち大やけどをした囲炉裏も、よく寝坊をしそうになって急いで滑り落ちてた階段も、親戚がお盆に集まり従妹たちと蚊帳に入って遊んでいた客間も、受験勉強を夜遅くまでやっていた部屋も今では私や家族の心の中にしか存在しない。そこに行っても、影も形も今はない。けれども、そこは私が生まれた故郷ではあることは確かなわけである。

原発事故というものは、どこまで私たちの心を汚していくのだろうか。
わたしの住んでいた集落(わたしたちは「組」とも言っている)は帰村する人はゼロである。いずれ誰かが住むにはもう一度、先代が行ってきた「開拓・開墾」をしなければ住めないであろう。そういう「時の継承」をも失ってしまったのである。

これから、集落に祀ってある神様はどう継承していくのか、今の世代の人たちですら年配者である。次世代と言ってもこの集落では私を含めて2名しかいない。話し合いを重ねながら解決していくとは思うが、20年後の未来が原発事故のおかげで時を越えてのしかかってくる。緩やかに継承するはずがそうもいかない状況にさらされている。それもまた問題である。こうして、一つの集落、個々の問題だけでも問題は山積しているのである。飯舘村全体で大小問わずにどれだけの問題が日々増えていってるか予想をはるかに超えるだろう。そのなかで、当事者が沈黙してはダメ。と風の便りでそういう声が聞こえてくる。しかし、それ以上に現場では日々その問題と向き合い打開策を考えている人もいるという事を知ってほしい。そのうえで、無理のない範囲で発信を出来る人はやっていると理解をしてほしい。

来年は原発事故から8年目、時だけが足早に過ぎ去っていくが、それとともに県内の中での温度差、県外の温度差、自分の中での記憶の風化、どれだけ「自分事」として考えられるのか、当事者としても試される1年になるのではないかと思う。

 

本年もご愛読くださり誠にありがとうございました。

来年もできるだけ発信できるように精進していく所存でございます。

◇月いちリレーエッセイ◇  政治は遠いのか。な?  伊藤 千惠

衆院選が終わった。
ツイッターやフェイス・ブックなどのSNSではこれでもかというくらい関連の話が流れ、実際食傷した。
が、言論はヘイトや反社会的な意図がなければという留保付きで自由である。庶民層が政談、床屋談義するのはけっこうなことである。私には関係ない、興味ない、どうせ変わらないもんねという態度より数段いい。
(欲をいえば、同じ話題はもういいからちょっと違う話題とか、違う切り口の意見とかをみんな書いてくれればいいんだけど。その方が波及力あると思うし。)
問題は、それが庶民層におけるマイノリティにすぎなくて、若年層、30歳~40歳代の働き盛り層がとても少ないということ。毎日の通勤満員電車のなかをみわたしても、会社のオフィスで雑談していても、街のカフェや商店街をぶらついていてもいっこうにそのような声は聞こえてこない。
それはそのまま投票率につながるんだろう。
どうしたものか、、、。
ということをいつも考えている。

東日本大震災による福島第一原子力発電所事故から政治や行政へ不信感を抱き、いろいろな知らなかった知ろうとしなかった情報を得て、選挙運動なんかに興味を持った人はたしかにいる。自分もそうだし、震災以前は存在しなかったことを考えると、少数でも激的変化かもしれない。
ということを考えるに、なにかひとつ気になること―例えば働き方や給料のこと、子どもの教育、親の介護、年金、医療にかかるお金、災害、表現の自由、個人商店がなくなる、なんてことでも必ず政治につながるものだ。なにひとつ不満も不自由も感じていない人はいないだろう。
大きな社会的問題だけをとりあげる必要はぜんぜんない。そこから関心のない人へのアプローチができるかもしれない。
だいじなのは自分の見方意見を絶対的なもののように言わないこと。選挙に行かなかった、政治に関心がないことを否定するようなことは言わないこと。そこ出発点では対話は生まれないんじゃないかな。
一挙にマス(=集団、かたまり、大衆)を変えさせるなんて全体主義的で気持ちの悪いものであるから、まず自分の身近にいる無関心びとと会話すること、対話することだなあ。
と、ひきこもり派の自分はつらつら考える。

 7年目の原発避難生活 (間章)~あの日のキオクの断片~ 酒井政秋

あの日とは

2011年3月11日 14時46分のこと。

東日本が大きく大きく揺れた。

この世の終わりかのように揺れた。

(中略 発災当初は会社にいたが、皆家族の無事を確認するために仕事どころでは無い揺れだったので解散して自宅に向かう)

カーラジオからは大津波警報と叫んでいる。

焦った。家へと向かう車を何度も止めて、メールを送る。

また、揺れた。

余震が次から次と来る。

不安の中、

真っ暗闇になった。

飯舘村は停電。

ろうそくの明かりで、

夕飯を食べた。

その日食べたサツマイモの天ぷらやジャガイモの天ぷらの味が忘れられない。

夕飯を食べたとき、‟生きてる”ことを実感した。

涙が出そうになった。

必死で堪えた。明日を生きるために。

夜になっても幾度となく突き上げるような大きな余震が止まらない。

そのたびにストーブを消した。

ラジオでは、

ジィーーーーー、

”「まるでここはゴーストタウンです。このような光景は見たこともありません。」”

とラジオの向こうからアナウンサーの声。

おそらく浜のほうはもっと大変なことになっているんだな。

不安と恐怖・想像で震える体をおさえるように、布団に包まる。

ウトウトすると、また地鳴りが聞こえ、

大地を揺さぶる。

そのうち、うっすらと明るくなった。

わたしは外に出た。

東の空が夜空を押し返すように静かに明るくなった。

その時、思った。

「明けない夜はないんだな。」と。

 

しかし、

そこからがまた地獄の日々だった…。

何もかも奪い、大地を汚したあの事故が起きたのだ。

あれから6年経とうとしている。

ミエナイものはまだ、あちらこちらに点在している。

だからこその問題も積み重なってゆく。

海を見たくなったわたしは車を走らせた。

そこに広がる海は太陽にキラキラと輝いていた。

海に向かって静かに祈った。

 

 

撮影:筆者 2017/03/05の海

撮影:筆者 2017/03/05の海

 

7年目の原発事故避難生活(序章) 酒井政秋

   <序章>

2011年に起こった東日本大震災とその後に起きた原発事故からまもなく6年が経とうとしている。問題は果たして解決へ向けて進んでいるのだろうか。何か置き去りにされていないだろうか。
3月11日に向けて、これから幾週にわたり各章ごとに区切って伝えていきたい。

序章では、あの日から今までについて軽く触れておきたい。

第1章は。村民の声をお届けする予定でおります。

最終章では、あの日から今まで、そしてこれから未来への個人的な体験と展望、思いを書くつもりでいる。

では、あの日から振り返ることにしよう。
2011年3月、飯舘村一帯が高濃度の放射性物質に包まれ、大地は汚染され、そして人々は何も知識がない放射性物質による汚染によって飯舘村でかなうはずだった未来も、その地での生活さえも一瞬にして奪われた。国は年間積算線量20ミリシーベルト/年を超えるとして同年4月11日計画的避難区域に指定した。しかし、いろんな事情や状況で避難が遅れ、飯舘村の住民は初期被ばくを浴びることになってしまった。わたし自身も、ペットの問題や高齢者を抱える家族など様々な状況で、避難できない状況にいた。仮設住宅ができる7月まで、ほとんどを飯舘村に居るしかなかった。今、思えば、この時に無理にでも避難していれば、体調の悪化は避けれたのではないか。これまで6年間大きな病や小さな体の変調との闘いの日々だった。それでも、わたしは生かされた者として、飯舘村の現状を発信できる場で、発信し、村民と傾聴、小さな声を政治家に届ける事、ワカモノ・村民との対話など、様々な角度から、この困難を一つでも解決するように、いや、今考えると、とにかく必死だった。それをやっていることで生きる事を感じていたのかもしれない。しかし、次から次へと現状は刻々と変わる。政権交代、行政との溝が深まっていく、放射性物質の考え方や価値観の違いからの意思疎通の困難さ。時には、脱原発・反原発の活動をしている人からの罵声や脅威にも感じるほど責められることもあった。また、逆に(福島は)安全だ。という人からも時には責められた「風評を煽ることは言わないでくれ。」「あなただけが当事者ではない。」なども言われた。誰も間違っていない。誰にだって守りたいものはある。それは分かっている。どちらも「守りたい正義」なのだから。けれど、わたしは実害しか話していないし、書いていない。正義と正義のぶつかり合いは何も生まない。お互いを尊重し、議論をすることが一番必要なはずなのに。それができない現実。

なぜ理不尽に叶えたかった未来も人生も奪われて未だに真摯な謝罪も加害者である東電や国からはない。そして社会的責任をとらない。いや、意図的に取ろうとしないことは過去の公害歴史を見てもわかる。
あの日、一瞬世界が止まった原発事故をも現在、忘れ去られようと感じるのはわたしだけだろうか。この3月末で飯舘村も帰宅困難区域を除き避難指示が解除される。しかし、この解除間際になっても、細部にわたる具体的な方針は行政側から提示されないままだ。提示されるのは、帰らない村民・帰れない村民は、いずれ切り捨てられるということだけだ。わたしたちは好きで避難をしたわけでもないし、好きで村外に住むわけではない。根本的な問題が解決していれば気持ちよく帰村を受け入れたであろう。しかし、放射線量はまだまだ低下せず、除染をしても、完全に放射性物質は消えない。特に私の住んでいた実家は山の中。線量はいまだに1マイクロシーベルト/毎時を超える値だ。わたしは帰らないという選択をしなければならなかった。
これからは村外に住む村民は飯舘村民とは見なされない日が近い将来来るであろう。

わたしたちは「飯舘村村民 避難者」から「自主避難者」となるのだ。

これからますます、発言しづらい空気感が強まるだろう。

本当の「沈黙」が訪れさせないために。

小さな声でも伝えていきたい。微かな声になっても伝えていきたい。

わたしの発信の場であるWELTGEIST FKUSHIMAにて。

序章のおわりに
この場を運営してくれる編集長はじめライターの皆さんに感謝の意を込めて。

撮影:筆者

撮影:筆者