「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」のこと ②

これは「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」のこと① の続きです。

2015年3月14日。三軒茶屋。KENからの帰り道。(撮影・吉田葉月)

2015年3月14日。三軒茶屋。KENからの帰り道。(撮影・吉田葉月)

東北本線に乗って栃木県に帰る。ずっとKENでのことを思い出していた。
家族が暮らす、借り上げ住宅の畳に座る。

都市の緊張から解き放たれて、ふと、我に返る。そして気付いた。

自身を当事者から外してやらないと、あの絵とトークは、まともに受け入れられないものだったな、ということ。それほど惨い光景が見えてしまったのだ。

壷井明さんの表現と、その人が語った事についてあらためて思い返す。

当事者たちにとって、あるいは、当事者らを見守る多くの人たちにとっても、重要である事柄と言えそうなことであるにもかかわらず、聴かなければそのまま埋もれてしまいそうな現地の声や姿があるのだろう。私は、それを壷井さんの絵や言葉から感じ取った。

また、現地に赴きながらの制作スタイルに、私は一人静かに胸を打たれてもいた。

目には捉えにくいけれど、現地に漂っているものを捉えてしまった。
言葉にするとどこかで冷たく伝播されていくかもしれない。伝えたいけれど、伝えることに恐れを抱かせる現実。そんな中、絵画と呼べる表現にこそ出来る事があるのだという思いが浮かぶ。
そう思ったきっかけは、おそらく壷井さんがこう話しだした事に端を発するだろう。

「原発作業員に話を聴きたかった。だけど、どうやって出会えば分からなかった」

壷井さんが東京の路上で自身の絵を置いてみると、ほとんどの人が、怖いものに触れたくないというような面持ちで、それを避けていったそうだ。そんな中、たまに興味を持って近づいてくる人たちもいる。若者もいる。そんな人たちは壷井さんに、描かれている物に関する疑問を投げかけたり、感想を述べたりする。それに壷井さんが答える。対話が生まれるのだ。

或る時の事。路上生活者のような出で立ちの人がじっと壷井さんの『無主物』を見ているのに気付いたそうだ。
壷井さんが声を掛けてみる。
すると、その人は、

「以前、自分は福島で原発作業員だった」と話し出したという。

絵を置いてみたことで出会いが生じ、対話が生まれた。

おそらく、私も『無主物』に触れて、対話を始めようとする一人である。

家族や近所同士などの近しい間柄であればこそ、かえって開示しにくくなる思いもあるだろう。

外部に溜息が漏れないようにと、きつく縫い付けてしまった魂の入れ物。その入れ物の糸が外部からの介在によって、緩みを見せた時、内にあるものが溢れ出る。そんな景色が壷井さんが私に見せた景色だ。原発や放射能に翻弄され続けている人が救われ、世界とひとつとなれるような願いが、壷井さんの絵に込められている。

私はそう感じた。

壷井明さんは『無主物』をこれからも描き続けるのだそうだ。

「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」のこと ①

2015年3月14日。三軒茶屋。「KEN」の入り口にて。「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」の掲示。(撮影・吉田葉月)

2015年3月14日。三軒茶屋。「KEN」の入り口にて。「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」の掲示。(撮影・吉田葉月)

2015年、3月14日。
東京は三軒茶屋の、KENに向かった。「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」という展示とトークを見聞するために。

地下にある会場の扉を開けると、パソコン越しにこちらに向いて座っている人がいた。壷井明さんである。私に向けて挨拶の声がかかる。会話が始まった。

最近、福島県を訪れたのはいつであるか尋ねると、今年の1月であると壷井さんは答える。2か月前。そう遠くない、新しい過去だ。
壷井さんは、3.11以降、福島県に通いながら、仮設住宅に暮らす人や、原発作業員など、住人の声を直接聴き続けている。そして、そんな体験を経て顕わになる光景を、ベニヤ板に描いていくのである。そうして作られてきたものが、今回展示された『無主物-No Owner Substance-』だ。

KENの粟津ケンさんによれば、壷井さんは「現代における琵琶法師とか創世記のラッパーのよう」であるという。

私が、かつて双葉郡の住人であったことを告げると、壷井さんの表情に緊張が見えた。トーク開始の定刻近くになるまで、私の体験について話を聴いてもらう流れとなった。聴き手のスイッチを入れてしまったような気がして、自分の来歴を明らかにしたことを少し申し訳なく思った。

思ったものの…、
元福島県の住人で、避難者ともいえる私がこの日この場所に足を踏み入れたことを、予期せぬ出来事と思わせたとしても、異質なことではないはず。壷井さんの作品が、多かれ少なかれ、どこかで当事者性を感じている人間を引き付けた。その証拠として自分がここにいるとも言える。

私の後に、人がぽつぽつと訪れ始める。

壷井さんが絵の前に立ち、トークが開始となった。

2015年3月14日。KENのフロアで。私に映った光景。絵の前に立ち、当事者らについて話す壷井明さん(絵・吉田葉月)

2015年3月14日。KENのフロアで。私に映った光景。絵の前に立ち、当事者らについて話す壷井明さん(絵・吉田葉月)

壷井さんが描いたものについて語り始める。

何枚かの絵に登場するものは、防護服を着て鎖に繋がれている人たち、
赤い風船を手に持った二人の親子、
仮設住宅の前の広場で、ひとり佇む男性など…。

それらは、

建築業界の構造の鎖に繋がれるが如くに暮らしている原発作業員や除染作業員達について、現地で見聞きしたことによって浮かび上がったものだったり、

福島県のとある地において、孤立状態となりながらも、日常の平穏さを保つように生きる、子を持つ母親に出会ったことで浮かび上がったものだったり、

草木や土と共に育んだ身体を離れたが故、己の輪郭を失ってしまったかのような元農家の人と触れ合ったことで浮かび上がったものだったりする。

そんなふうに、当事者たちとの出会いが、壷井さんに絵を描かせているように思える。

描かれたものを起点に、当事者たちの言葉を代弁するかのように語り続ける壷井さん。その緊張の面持ちを、私は仰ぎ見ていた。壷井さんは、いつまでも話せそうだと言っていたが、時間となりトークが終了する。

私は、絵や言葉から成る空間を、ただただ浴びて佇むことしかできず、出会った人たちと別れ、その場を後にした。

(続く)

5年目の3.11 ~空も海も大地もつながっている~ 伊藤千惠

4年前の3月11日のことを克明に覚えている。
仕事場から家まで歩いて帰った。
そのとき東北の地で何がおきているか知る由もなく、夜中に幹線道路をぞろぞろと歩く東京のわたしたちは、ちょっと非日常的なうきうきとした気分でさえあった。
帰宅し、テレビをつけ尋常ならざる風景に息をのみ声を失いうちのめされた。
生活のすべてを災厄にうばわれた人々。
そして、東京で消費するための電力を作っていた東京電力福島第一原子力発電所の事故。

責任の重大さを認めない政府と東電に憤りを感じた人たちの抗議のデモへ行った。
今まで知ろうとしなかった政府の、中央省庁の、産・学界の功罪。自分の無知。
この国の経済成長の陰画のように存在する環境汚染や地方の衰退。日米関係。
いろんなものを読み漁り雑多に理解し、書き散らし、叫んだ。

以前から知っていた福島在住の知人のブログには、東京人の活動は違和感を持つとあった。
それにまたうちのめされた。理解されていると勝手に思い込んでいた。
困窮している人のことを考えるのが先じゃないか?
ネットでは多様な声はひびいてこない。

町ごと避難、という考えられない事態を体験した人たちのところへ行った。
福島県内に戻ったり、県外へ自主避難したり、ずっと住み続けたり、
さまざまな状況にいる人のことを自分の目で知りたいと思った。
取材対象としてではなく、欠落した知識を埋める情報としてではなく、
お隣に住んでいる人として、友だちとして話を聞きたいと思った。
今は、何をするべきかではなくて、自分はどうしたいかと思って生きている。

先のことはわからない。
空も海も大地もどこまでもつながっているように
隔絶するのではなく、やわらかく受け止めたいと思っている。

ご挨拶

初めて福島に来たのは2013年2月だった。
それまで私は福島とは縁もゆかりもなかった。
「福島県」が日本の中でどこに位置するかさえも知らなかった。

震災が起きなければ、私が福島に移住することはなかったかもしれない。
震災が起きなければ、今私が日々対面する人たちとは一生出会わなかったかもしれない。
そう思うと不思議である。

都心から離れた郊外にある東京都日野市で生まれ育った。
母親は茨城の出身で、幼い頃の田舎での暮らしを聞くのがいつも楽しみだったこともあり、いつか田舎暮らしをしてみたいと思っていた。

性格は好きなものにはとことんのめり込むタイプ。
深く入り込むほどに、地底の深い部分に触れることができるような気がする。
気に入ったら同じ本を何度も読む。
同じ音楽を何度も聞く。

めんどくさがりで横着。
やるべきことをいつも後回しにして怒られる。
ぎりぎりになっていつも大事なことに気付く。

興味があることに関しては、思い立ったらすぐ行動する。
しないと気が済まない。
自分に正直。他人にも嘘がつけない。

        *

震災が起きるまで、原発が何かも知らなかった。
電気がどうやって発電されているのかについて気にしたことはなかった。
多くの人がそうかもしれない。

震災で爆発した福島第一原発の発電する電気が東京に送られていたことなんて知る由もなかった。
でもその事実を知ったとき、私はどうしようもない気持ちになった。

1年が経過した頃、東京で暮らす人々は震災のことなんか忘れているように見えた。彼らの目にはそれらは過去でしかなかった。現在進行形の事実ではなかった。
目の前にやるべきことがあったし、過ごすべき日常があったからだ。
そうして人々は震災があったことを忘れていった。

しかしニュースや雑誌や新聞で見る福島の現状を考えると、それはばかげたことのように思えた。どうして電気を使っていた東京の人間が優雅に毎日を送っていて、福島の人はそうではないのだろう。そんな違和感は、日々原発や福島の現状を調べて知っていくにつれて膨らんでいった。

その後は福島関連のNPOのイベントに参加したり、講演会に行ったり、大学で情報発信のためのサークルを作ったりした。

そして当時ジャーナリスト志望だった私に、知人が紹介してくれたフリージャーナリストのある人が言った。「福島のために何かしたいならまずは福島に行ってインタビューしてくることだな」

その一言で、私は2013年2月から福島県でインタビューを始めた。
震災が起きる前のこと、震災時のこと、その後の生活のことを聞いた。
聞けば聞くほど、私は自分が今まで何も知らなかったのだということに気付いた。
福島のために何かしたいのなら、現地の人が何を考えているかを知らずに動くことは逆に迷惑をかけることになるかもしれない、そう思いインタビューを続けることにした。

そしてこのウェブマガジン「ヴェルトガイスト」に寄稿させていただくことになったのも、編集長吉田邦吉さんとインタビューで縁があったからだった。

        *

東京から福島に通うだけでは本当のことは見えないかもしれないと感じていた。
2014年4月、思い切って私は福島に移住した。

8月から福島県田村市都路町で復興支援員として活動している。
都路町の一部は福島原発から約20キロ圏内に位置しており、今年4月に避難指示が解除された。徐々に住民が帰還するなかで、細かいサポートを行い地域が持続可能になるよう活動している。

めぐりめぐって福島に来たことは大きな意味があると思っている。
出会った人、土地、景色、空気、雰囲気、心の奥底の声、喜びや悲しみ、そういったものすべてに触れられる日々を大切にしたい。
そして自分の目で見たものだけを伝えていきたい、そう思っている。

まだまだ新参者ですが、新しい福島県民として、ウェブライターとして、今後ともどうぞよろしくお願い致します。