◇月いちリレーエッセイ◇  政治は遠いのか。な?  伊藤 千惠

衆院選が終わった。
ツイッターやフェイス・ブックなどのSNSではこれでもかというくらい関連の話が流れ、実際食傷した。
が、言論はヘイトや反社会的な意図がなければという留保付きで自由である。庶民層が政談、床屋談義するのはけっこうなことである。私には関係ない、興味ない、どうせ変わらないもんねという態度より数段いい。
(欲をいえば、同じ話題はもういいからちょっと違う話題とか、違う切り口の意見とかをみんな書いてくれればいいんだけど。その方が波及力あると思うし。)
問題は、それが庶民層におけるマイノリティにすぎなくて、若年層、30歳~40歳代の働き盛り層がとても少ないということ。毎日の通勤満員電車のなかをみわたしても、会社のオフィスで雑談していても、街のカフェや商店街をぶらついていてもいっこうにそのような声は聞こえてこない。
それはそのまま投票率につながるんだろう。
どうしたものか、、、。
ということをいつも考えている。

東日本大震災による福島第一原子力発電所事故から政治や行政へ不信感を抱き、いろいろな知らなかった知ろうとしなかった情報を得て、選挙運動なんかに興味を持った人はたしかにいる。自分もそうだし、震災以前は存在しなかったことを考えると、少数でも激的変化かもしれない。
ということを考えるに、なにかひとつ気になること―例えば働き方や給料のこと、子どもの教育、親の介護、年金、医療にかかるお金、災害、表現の自由、個人商店がなくなる、なんてことでも必ず政治につながるものだ。なにひとつ不満も不自由も感じていない人はいないだろう。
大きな社会的問題だけをとりあげる必要はぜんぜんない。そこから関心のない人へのアプローチができるかもしれない。
だいじなのは自分の見方意見を絶対的なもののように言わないこと。選挙に行かなかった、政治に関心がないことを否定するようなことは言わないこと。そこ出発点では対話は生まれないんじゃないかな。
一挙にマス(=集団、かたまり、大衆)を変えさせるなんて全体主義的で気持ちの悪いものであるから、まず自分の身近にいる無関心びとと会話すること、対話することだなあ。
と、ひきこもり派の自分はつらつら考える。

デモや反戦に「反対」で「平和活動」ですのお花畑な人達へ 吉田邦吉

ブログ「わたしは戦争にも原発にも反対しません」が流行ってるようなのですが、たいへん違和感です。

まず、あなたがたが、「自分でどんな活動をしているのか」を書いてください。それで十分です。他人のデモ活動を否定する必要はどこにもありません。「反対」をネガティブとレッテルばりしないでください。福島で言えば被災も悲しみも「見えないポジティブ復興」という偽善まっぴらごめんです。

私達ふくしまの被災者は「見えない放射能」じゃないんです。

デモにいくのに、まず、「決意」して、「予定」を考えて、「予算」を考えて、「勇気」をもって、「逡巡」して、それから「声を出すかどうか考え」て、さらに「ゆらゆらと電車に揺られ」そうしてやっと「長い道のりとなるデモ」を行い、「ふらふら」になり、「家路も遠い」んです。

それを何知ってるんだと私は言いたいです。私も一度しかデモしたことないんですが(場所は福島の浜通りです)、少なくとももうデモをバカにするやつはお前一度でも行けって思います。ボランティアってそんなにエラくてデモ活動がそんなにサゲなんですか?

集会結社表現の自由、デモ活動は憲法で認められている人権です。
同じく人の営みではありませんか。

優劣をつけようとする姿勢。
悲しいと思います。

防衛という美名で侵略をした大東亜戦争を、「ボランティア活動」「平和活動」で、すぐさま防げるんでしょうか。長い長い、気が遠くなるほど遠い道のりではありませんか。それはそれで立派なんですから、自分を万能と思っちゃいけません。デモ活動をしている人達は、自分たちを万能の神だなんて絶対思っていません。

同じ志で、同じく平和を目指すために、やっていることなのです。
対等で居ましょう。お互いにリスペクトしましょう。

お互いに片方だけならなおのこと相手を知らないはずです。
お互いを思いやり、お互いを尊重しましょう。言葉で言うのは簡単なのですよ。