7年目の原発事故避難生活(序章) 酒井政秋

   <序章>

2011年に起こった東日本大震災とその後に起きた原発事故からまもなく6年が経とうとしている。問題は果たして解決へ向けて進んでいるのだろうか。何か置き去りにされていないだろうか。
3月11日に向けて、これから幾週にわたり各章ごとに区切って伝えていきたい。

序章では、あの日から今までについて軽く触れておきたい。

第1章は。村民の声をお届けする予定でおります。

最終章では、あの日から今まで、そしてこれから未来への個人的な体験と展望、思いを書くつもりでいる。

では、あの日から振り返ることにしよう。
2011年3月、飯舘村一帯が高濃度の放射性物質に包まれ、大地は汚染され、そして人々は何も知識がない放射性物質による汚染によって飯舘村でかなうはずだった未来も、その地での生活さえも一瞬にして奪われた。国は年間積算線量20ミリシーベルト/年を超えるとして同年4月11日計画的避難区域に指定した。しかし、いろんな事情や状況で避難が遅れ、飯舘村の住民は初期被ばくを浴びることになってしまった。わたし自身も、ペットの問題や高齢者を抱える家族など様々な状況で、避難できない状況にいた。仮設住宅ができる7月まで、ほとんどを飯舘村に居るしかなかった。今、思えば、この時に無理にでも避難していれば、体調の悪化は避けれたのではないか。これまで6年間大きな病や小さな体の変調との闘いの日々だった。それでも、わたしは生かされた者として、飯舘村の現状を発信できる場で、発信し、村民と傾聴、小さな声を政治家に届ける事、ワカモノ・村民との対話など、様々な角度から、この困難を一つでも解決するように、いや、今考えると、とにかく必死だった。それをやっていることで生きる事を感じていたのかもしれない。しかし、次から次へと現状は刻々と変わる。政権交代、行政との溝が深まっていく、放射性物質の考え方や価値観の違いからの意思疎通の困難さ。時には、脱原発・反原発の活動をしている人からの罵声や脅威にも感じるほど責められることもあった。また、逆に(福島は)安全だ。という人からも時には責められた「風評を煽ることは言わないでくれ。」「あなただけが当事者ではない。」なども言われた。誰も間違っていない。誰にだって守りたいものはある。それは分かっている。どちらも「守りたい正義」なのだから。けれど、わたしは実害しか話していないし、書いていない。正義と正義のぶつかり合いは何も生まない。お互いを尊重し、議論をすることが一番必要なはずなのに。それができない現実。

なぜ理不尽に叶えたかった未来も人生も奪われて未だに真摯な謝罪も加害者である東電や国からはない。そして社会的責任をとらない。いや、意図的に取ろうとしないことは過去の公害歴史を見てもわかる。
あの日、一瞬世界が止まった原発事故をも現在、忘れ去られようと感じるのはわたしだけだろうか。この3月末で飯舘村も帰宅困難区域を除き避難指示が解除される。しかし、この解除間際になっても、細部にわたる具体的な方針は行政側から提示されないままだ。提示されるのは、帰らない村民・帰れない村民は、いずれ切り捨てられるということだけだ。わたしたちは好きで避難をしたわけでもないし、好きで村外に住むわけではない。根本的な問題が解決していれば気持ちよく帰村を受け入れたであろう。しかし、放射線量はまだまだ低下せず、除染をしても、完全に放射性物質は消えない。特に私の住んでいた実家は山の中。線量はいまだに1マイクロシーベルト/毎時を超える値だ。わたしは帰らないという選択をしなければならなかった。
これからは村外に住む村民は飯舘村民とは見なされない日が近い将来来るであろう。

わたしたちは「飯舘村村民 避難者」から「自主避難者」となるのだ。

これからますます、発言しづらい空気感が強まるだろう。

本当の「沈黙」が訪れさせないために。

小さな声でも伝えていきたい。微かな声になっても伝えていきたい。

わたしの発信の場であるWELTGEIST FKUSHIMAにて。

序章のおわりに
この場を運営してくれる編集長はじめライターの皆さんに感謝の意を込めて。

撮影:筆者

撮影:筆者

曖昧な物質と曖昧な避難指示解除と  酒井政秋

昨日(平成28年5月11日)で飯舘村「方部別住民懇談会」(実質的に平成29年3月末の避難指示解除及び平成28年7月1日からの長期宿泊の実施について国に要望したことなどを踏まえての説明会である。)が一通り終わった。日程はたったの5日で、ご都合のつく日や場所にお越しくださいとのことだった。
しかし、今回諸事情により、どの会場にも足を運べなかった。
これで、「説明会はなされ、一定の理解を得た」ことになってしまうのだろう。
これまでの懇談会や説明会を例にとっても、避難指示解除は強行されるだろう。
これが民主主義のあり方なのだろうか。

原子力災害対策本部が平成27年6月12日に改訂した「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」の資料によると、避難指示解除の要件として、
① 空間線量率で推定された年間積算線量が20ミリシーベルト以下になることが確実であること。
② 電気、ガス、上下水道、主要交通網、通信など日常生活に必須なインフラや医療・介護・郵便などの生活関連サービスが概ね復旧すること、子どもの生活環境を中心とする除染作業が十分に進捗すること。
③ 県、市町村、住民との十分な協議
と説明している。

飯舘村の場合、どの要件も満たされないままである。ましてや、飯舘村の生活圏は山や自然と密接に関わりあっている。つまり自然を切り離した生活はできないのである。
このまま、どの要件も満たさないまま、飯舘村避難指示解除をした場合、 禁止事項ばかりが増えてくる。
① 山には入らないこと。
② 山菜やキノコは食べないこと
③ 自家製野菜は常に測ること
④ 線量の高いところ(ホットスポット)には近寄らないこと。

これはほんの一部にしかすぎないのかもしれないが、ざっと考えただけでも、非常に拘束された生活が待っている。帰ったとしても、本来の自然とつながりあった生活には程遠いと思われる。
そこで、私自身危惧しているのが、放射性物質は「目には見えない、味もしない、匂いもしない」曖昧で且つ存在感のあるめんどくさい物質であるために、「ちょっとぐらい食べてもいいんじゃないの?」という、自然と結びついてきた人たちにとっては形の見えない誘惑に襲われてしまうことである。
「ちょっとぐらい」・・それが一番危険であることは過去の公害を学んでみて危惧しなければならないことだと思う。国の基準値の曖昧さも含めて、「ちょっとぐらい」それを春、夏、秋と続けていったら、「内部被ばく」するという事になる。それは、年配者だから良い、とはどうしても思えない。それが積もり重なって、「癌」や「持病」が誘発されてしまうのではないか、とても心配だ。
避難指示解除になったから、問題が解決するわけではない。避難指示解除によって、村民の健康も安全も揺れ動かされ、そしてまた新たな問題、村としての存続危機に見舞われてしまうのではないか?それが村民にとって飯舘村にとって果たして良いことなのだろうか?
それぞれの意見は異なる。だからこそ、避難指示解除というのは個人個人が決めてもいいのではないか。全体で解除をすると切り捨てられる村民もいる。「避難指示解除個人選択権」もあってもいいのだはないだろうか。ひとりひとりが本当の意味で自由に選択できる権限。それが人権というものなのではないだろうか。

もっと国や東電は一人ひとりの人生の重さを考えてほしいと思う。そして、一人ひとりの「幸せ」が担保できる社会になってほしいと切に願う。

【 福島からのメッセージを鹿児島経由で… 】(下) 米田ひろし

中巻-【福島県のとある高校教員からのメッセージ】から続き)

2015-05-15-10-57-18_decoこの高校教員は、自分の受け持った生徒さんを卒業式で送り出すまで癌の手術を待った…
彼はここ最近復職し、3月に卒業した生徒達が、毎日のように就職や専門学校に行ってからの悩みなどを彼にうち明けに来る。

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教員として
子どもたちと向き合うこと。
父親として家族を守ること
夫として妻を支え合って生きていくこと
人として仲間とともに人生を楽しむこと
世界中の友と手を結ぶこと。
残り時間を有意義に静かに妻と暮らしたい。

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2015-05-21-18-47-30_deco放射性物質は目に見えず、匂いもない
ひっそりと体を痛めつける
自覚症状が出てからでは肉体的精神的に辛くてキツイ…

身をもって知らされた…

2013年7月、家族全員でNPOの医療機関でエコー検査した結果、私にウズラの卵大の腫瘍らしきものがエコーに映った..

2015-05-21-18-46-59_deco甲状腺二次検査と細胞診検査の結果、さらに石灰化も判明し、右葉には4mm大の結節2個も発見された。

医師の診断は、Class1からClass5の段階のClass2で、良性の範囲内と考え、小型のろ胞上皮細胞を認め、今後は3か月後、半年後、1年後程度で検査をして腫瘍が大きくなっていないか、変化がないかを経過観察すればよいという所見だった。

私は、いろいろ考えた結果…PETの検査を受けることにした。

received_834262886665373半減期2時間の放射性同位体フルオロデオキシグルコース(F18)を微量注入し…

強い光を放っていなければ正常
強い光を放っていれば異常
これがPET検査。

CT、レントゲン、エコー、細胞診検査ではなかなか判断しにくいものを映像化できる有効な検査…しかし、放射性物質を注入しなければならない…

注入時は1000μ/shというとてつもない単位になる。これが田母神さんなんかが言う、「たったあれだけの放射能で….」みたいなのに通じている由縁である。
まぁ、だが….安易にこの情報を知識のない人に公表してはいけないと思った。
「放射能を理解し、放射能と共に」
うまく付き合わないといけない
「フカイとともに・・・」
映画「ナウシカ」のワンシーンが頭に浮かび…

半減期8日 放射性ヨウ素131(i131)
半減期2年 放射性セシウム134(Cs131)
半減期30年 放射性セシウム137(Cs137)
半減期2時間 放射性同位体フルオロデオキシグルコース(F18)

放射性同位体フルオロデオキシグルコース(F18)は、24時間後には完全に体内から消え去るが、その他は長い時間、身体を傷め続ける…これをひとまとめに考えるのは、おかしい話である。

自分が恐れていた放射性物質のおかげで、病巣が悪性であることが判明し、手術の方針が決まり、今年の3月に手術。

入院も手術の決断も自分の中で決めた…
どれだけ妻を孤独にしたかわからない…
入院・手術、術後の生活を妻には負担をかけてしまっている。

毎食の食事も管理しながら、わがままな私のリクエストに答えるために毎日、毎日、悩みながら作ってくれる。
簡単に感謝とか謝罪はできない …

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放射能と向き合うことは、単発で賛成反対を言えるほど、簡単ではなく…長い時間、一生つきまとう、気の長い話になる
どうか、短絡的な感情にならずに長い目で、この福島とその子どもたちの未来を見守ってください。

(私たち夫婦は二人の子どもを県外に出しました。
夫婦が県外を離れない、離れられないのは、ここで頑張らないといけない事情があるのも事実です。
いつかは何も考えず、大地に寝そべることのできる地に、移住できることを信じて。一日、一日を生きていくだけの、ふつうの夫婦です。
どうか、温かく、支え見守ってください。)

【 郡山市からのメッセージを鹿児島経由で… 】(中) 米田ひろし

上巻から続き

【福島県のとある高校教員からのメッセージ】

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放射性物質は目に見えず、匂いもない…

体は、ひっそりと痛めつけられ続け
自覚症状が出てからでは遅いし、肉体的にも精神的にも辛いしキツイ…

3.11の数日後の2011年3月15日〜16日には、私の家族に雨と雪が降り、
買い物に列をなしたスーパーの前で、見えないヨウ素が体に降り注いだ。

匂いも色も知識もないから、「直ちに健康に問題はない」という情報に騙された。2015-05-19-05-57-20_deco
妻のボランティアに同行、強制的に避難させられた2千数百人の姿を見た。

私は、高校の教員だが自作のガイガーカウンターを作った。自作の線量計で福島県じゅうを走りまわった…本やネット文献と照らし合わせて見えないものが見えてきた。

住んでいた地域よりも線量が高い中通りに避難させられた人達がいる…身をもって感じた。

国や行政が適切な場所に避難指示を出していれば、もう少し苦しみも少なかったかもしれない…それを私は身をもって知っている。 2015-05-19-05-56-32_deco
人は火を使うが、大量に使えば、危険なのは誰でもが知っている。

タバコ、酒、自動車、飛行機etc

危険はいっぱいあるが、勝手にばら撒いておいて「ごめんなさい」も言えないものは要らない。 2015-05-19-05-57-58_deco
経済・理想優先で屁理屈こねて「安心だ安全だ」それは言い訳。

今流行りの解釈を捻じ曲げれば「悪が善に」、「善が悪に」簡単に入れ変わる。

放射能を知り
放射能で苦しんだ

この4年間は、そういう日々だった。2015-05-15-10-57-18_deco下巻へ続く

「風にたじろがず日々を生きる ~ 5回目の3・11によせて ~」 酒井政秋

2011年3月のあの日からもうすぐ4年。

未だ置かれている状況は『避難』という中の非日常のような日常を送っている。

いつ日常という平穏な暮らしに辿り着けるのだろうか。

4年という月日で自立再建の決断をそれぞれ迫られている。

その中でいつも心は揺れ動き定まらない状況だ。

「安住の住まい」とは、プライバシーが守られ、日々の中で最も落ち着く空間でなくてはならない大切な場所。そこが未だないというのは落ち着かない。

日々、仮設住宅では救急車のサイレンや隣の足音や物音の中で生きるというのは、心を乱される。

飯舘村で育ち暮らしてきたものにとって『音』の変化でもあったと思う。

飯舘村にいるときは鳥の鳴き声、カエルの鳴き声・川のせせらぎ、風の音それが生活の中での『音』だった。

そして、その『音』は四季を感じるとても心休まる当たり前の音だった。

 

原発事故というのはひとり一人の人生や生活を一変させ、住み慣れた環境だった故郷を汚染された。

確かにそこにあっても、自由に入ることが出来ても『生活』ができぬ土地になってしまった。

原発事故前の暮らしは二度と元には戻らない。

あの日あの時の厳しくとも心は豊だった暮らしは、思い出でしか味わえない。

未来へとゆく者として原発事故は日本のどの地域においても、世界のどの地域においても起きてはならない事だと思う。もう歴史は繰り返されてはならない。

 

風が運んできた放射性物質。

いつもわたしたちはこの4年、

ある意味で風に心を乱され続けた日々であった気がする。

風潮であったり風化であったり、良いも悪いも常に取り巻く風がある。

追い風にも向かい風にも成り得る風。

その風にたじろがぬように。

 

歴史の中で人は誰かが最先端として作ったもので、時を経てまた別の関係のない誰かが苦しめられるという現実がある。

そんな歴史の繰り返しで良いのだろうか。

いつもこの時期はやけに大きなプレッシャーがのしかかる。

そして

結びに2011年3月11日から現在まで多くの尊い命が旅立たれた。

人・ペット・家畜・自然

静かに深く祈りたい。

 

 

2015年3月5日 飯舘村の風景

2015年3月5日 飯舘村の風景