宇都宮空襲展にて   吉田葉月


19歳学生
「たまたま通りを歩いていて、気になって入ってみました。これまであまり宇都宮の空襲を知りませんでした。」

オリオン通りでそう答えてくれたのは、宇都宮在住であるという青年です。
オリオン通りは宇都宮のアーケード街。7月23日の夕刻、宇都宮は土砂降りの雨でした。戦後に作られたこのアーケードのおかげでオリオン通りでは一滴の雨にも濡れることなく、私は青年に質問をすることができました。
この日、オリオンACぷらざでは、「ピースうつのみや」(「宇都宮平和祈念館を作る会」から名称変更)による宇都宮空襲展が催されました。19歳の青年もまた、この日、宇都宮空襲展の会場に訪れた一人でした。

山口勇さん制作の収束焼夷弾実物大模型(左手前)とオリオン通り(奥)

山口勇さん制作の収束焼夷弾実物大模型(左手前)とオリオン通り(奥)

2015年7月後半に催されたこの宇都宮空襲展は、「ピースうつのみや」によって集積された、宇都宮における空襲を示す資料、同グループにより作成された模型や絵や年表といったものを通じて、当時の被害や生活について立体的に感じることのできる展示でした。
印象深かったのは、山口勇さん(故人)を中心として制作された、壁二面にわたる横長の宇都宮空襲のイメージ図と、宇都宮の炎の様相が分かる機能を持った緻密な都市模型でした。
当日、解説をしてくださった、「ピースうつのみや」内で語りの役割を務めているという大野幹夫さんのお話によれば、山口さんは市内在住の建築家で、空襲の際には雀宮にいたそうです。直接的な空襲に遭われ避難を要した大野さんとは異なり、山口さんは直接空襲の被害には遭っていなかったそうで、直ちに宇都宮の救済に入られたのだそうです。空襲直後の宇都宮に触れた体験から、中心となり絵画や米軍の戦闘機の模型といったものを作成していきました。

山口勇さんを中心として作られた火の手をあげる宇都宮の模型

山口勇さんを中心として作られた空襲後の宇都宮の模型

熱で変形した羽釜、熱火とすすでまっ黒になったが砂で落とし使われたというやかん。

熱火で変形した羽釜、熱火とすすでまっ黒になったが砂で落とし使われたというやかんなど。

慰安所と従業員の存在を示すポスター

慰安所と従業員の存在を示すポスター

19歳学生
「(展示を見て)明るい気持ちにはなりませんでした。戦争に関しては沖縄の修学旅行で興味を持ちました。」
「絵が印象に残りました。宇都宮で空襲があったことはなんとなくは知っていたけれど詳しくはありませんでした。」
絵というのはやはり山口さんらによる宇都宮における空襲のイメージを描いたもの。描かれているのが二荒山神社や松が峰教会であることが分かると彼は話しました。

オリオンACプラザ内。宇都宮空襲イメージ図。手前には罹災証明書などが展示。

オリオンACプラザ内。宇都宮空襲イメージを表した絵。手前には罹災証明書などが展示。

大野幹夫さん
「宇都宮の人は、東京の空襲や長崎の原爆を知っているが自分たちの身近な戦争を知らない。戦争は身近な問題だと捉えてほしいです。戦争は過去のことでは無いのです。子供が1日4000人死んでいます。人のことでは無いのです。自分のこととして考えて頂きたいです。あなたのような、若い人が動いてくれることが嬉しい。」

「ピースうつのみや」のメンバーの多くはパソコンを使わないので、メールやインターネットを使っている人たちに広げて貰えると嬉しいと大野さんは話されていました。しかし、そんな中でも、大野さんはITに関心があったこともあり、ご自身で「宇都宮平和祈念館を作る会」のサイトや「とちぎ炎の記憶」のサイトを作成されました。同サイトでは、身近な戦争をテーマに県内における戦争に関する情報の集積や公開をしています。今暮らしている場所の記憶に繋がる仕掛けを若い人に向けて作っている人がいるのだと感じました。

    ―各地で若い人による安倍さんの政治への反対や戦争反対のデモが行われているのをどう感じていますか。

19歳学生
「戦争ができるようになるのは良くないことだと思います。このままの方向で進むことは良くないと思います。」

 

ところで、近頃の学生主導のデモで大事にされていると感じるのは、まず自分自身について話そうとすることです。その言葉、声、姿には、個々人から発せられる知と熱と彩りがあります。彼らが路上に立ち続けるのは、戦争体験者の大野さんの言う「身近な戦争」が内包するようなことを、自身のこととして抱いているからなのかもしれません。
宇都宮空襲展に関心を持ち足を運ぶきっかけは、そういった若い人たちの姿や声に押されたところもありました。そのうえで、この展示を媒介として、身近に暮らす若い人の声に触れることができたことを嬉しく思います。そして、これからも若い人たちが宇都宮で平和に集い遊び学べることを切に願います。

宇都宮空襲展のポスター「やっぱり、戦争ダメだよね!」

宇都宮空襲展のポスター「やっぱり、戦争ダメだよね!」

 

参考HP:
とちぎ炎の記憶[栃木の戦災・空襲を語り継ぐ会]http://tsensai.jimdo.com/
オリオン通り商店街振興組合http://www.orion.or.jp/index.html

国民学校の少女の記憶(外伝) 高田 緑

(1)よりつづく)

少女には、明治33年生まれの伯母がいた。
父親とは6歳違いの、明治、大正、昭和を生き抜き、土佐の血を受け継いだ伯母だった。(中島家は、廃藩置県の後に土佐から郡山市喜久田町に移り住んだ歴史がある。)
井上家に嫁いだ伯母の井上 光(こう)は、昭和63年の88歳のお祝いに、長年に渡りしたためていた句や日記を自費出版した。

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『草の露』である。 この世には出なかった本であったが、折りにつけ、少女の娘である私は読んでいる。
先の戦争に息子を送り出した光さんの言葉は重く、力強さを感じる。
次男は昭和18年の“雨の神宮外苑“で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかったという。「行ってきます」とは言わずに、「行きます」と一言残し家を後にした。
長男は昭和19年5月に海軍少尉に任官し、海南島での任務を命ぜられ決死隊を組織したが、不本意ながらも生きて帰国した。「生き恥さらして帰ってきてしまいました。」、と玄関先で自決しようとしたという。 長男はその後、神風特攻隊についての随筆集を残しているが、「人間の出来る最後のもの、それは自ら撰ぶ死であるのだ。」、と最後に記してあるのを読む度に心が痛む。

戦争により、親より先に子に旅立たれ、離婚と再婚、そして夫の死。そしてまた娘に先立たれ、波瀾万丈 の人生を歩んだ少女の伯母は、100歳を過ぎるまで生き、少女にどんな世でも強く、プライドを持って生きる事を身を持って教えたという。

『草の露』の中の、戦後40年に当たり、光さんが85歳の時に書いた文が心に沁みる。

力強く生きるからこそ人間です

すっかり世の中が変わりました。
私は明治中期に生まれ、明治、大正、昭和と長い人生がいつの間にか過ぎたと思っております。
私どもが若い頃は、世の中の人はもっと親切で、誠実であり、国を大切に、神を敬い、親には孝行し子供には大切に、そして礼儀正しく厳しく育てたものです。
この寒い時期に、白鳥は一家眷属大勢で仲良くシベリアから日本の湖水に来ます。
晩秋には、北方から雁がきれいに列を組んで渡来します。
鳥でさえこんなに仲よく助け合って生きているのに、万物の霊長であるはずの人間が、どうして些細な事で殺し合いをしたり、子供を道連れに一家心中したり、子供が父母を殺したりするのでしょう。
人生、色々な一生があります。
悲しき事、苦しき事、耐え難い事、これを乗り切る事が人の道ではないか、と私はいつも心の中で思いながら生きて来ました。
生きる事は辛い事のみ多いものではありません。
楽しい事の方が、きっと多いのです。
明るく希望を持って生きる事です。
・・・・・・・・・
日本人と言う事に誇りを持つ事、どんな時でも自分に誇りを持つ事です。
苦しさも悲しさも乗り越えて、力強く生きるからこそ人間です。
悲しさに潰されそうになった時も、じっと我慢して、少しでもよい方に向かう事を考えて生きて行こうと思います。
(『草の露』井上 光著より抜粋 )