5回目の3.11によせて 想ってたこと

日々の奮闘や悩みやおふざけの断面も伝わってくるから

その日だけが特別じゃないのになぁと思ってもいて

特有の光や影の熱量みたいなものがなだれ込んで

自分たちのことなのに別の場所で盛り上がっているような

サビだけ良いように切り取られたヒットチャートのような

それに毛羽立っている自分が情けなくも思った

それぞれの想いがあって良いって自分が言ってたのにね

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僕は国際試合を観て「日本の誇り」と胸に手を当てるタイプではないし

ライブ会場で一律の身振り手振りに身を任せる方ではないし

1人でぶらぶらと出掛けては周囲の空気感や関係性の

うねりやゆらぎを感じて物思いにふけっているような人間だ

そこに溶け込んでいるような、溶け込まないような、溶け込めないような

自分の器の中で悲しめる分だけしか悲しめないし、喜べる分だけしか喜べないし

会話の中にある“つまらないもの”“くだらないもの”の寛容性にも支えられていた

 

そういえば昨年の今頃は

追い風も向かい風も一度置かせてもらおうと思っていた

どれも大切で重みのあるものだから

簡単に捉えたり表現するものでもないと思っていた

だからせめて寝ても覚めても状況を知ろうと躍起になっていた

 

数が集まることで発生していたそれらの風や

それぞれの中にさえ生まれてしまった光と影

広まり

それまで大して語れるものなどなかったのに

体の中に行き渡らせすぎてしまったその体験を

その主語や定型文で語りすぎている罪悪感や違和感

重く語りすぎのような 軽く語りすぎのような

どちらでもない薄っぺらい感じのような

なんらかのかたちで加担もしていた

 

“どのあたりの感覚”でとらえて言えば良いのか

体は在るけれど言葉にするだけの元気がないような

言葉は在るけれど口にするだけの体がないような

頭と心と体が別の次元にいるような変な感じがしていた

 

風が渦巻く合間に置き去りにしていた等身大の“もやもや”や

様々な出来事の“喪失後”を生きる人はどんなことを想っているのか

そこではどんなかたちで表現がされているものなのか

それが辿り着いた先はなんなのか

そのままを“なんらかのかたち”で表現するには

それらの立ち位置に触れることが必要に思えた

そしていくつかの場に出向き、考え、

小さな対話の場を設けたりした1年となった

対話の場

対話の場

そう過ごす中で

“好い加減”と“いいかげん”をなくしたんだなと思った

それは地域や人間関係や自分の中にもあるものだったし

それらに守られてもいたんだなと

でもそれが許せないものにもなったから

それらを打ち消すように過ごして苦しかったんだなと

ここへきて少しだけ落ち着いて見ることができたのかな

日々の安心

向き合わなくてはいけない部分が露出したことは変わりないけれど

それらを結び付けてる“ゆるし”や“あそび”を含んだ

これからの”イイカゲン”をつくるために過ごしてもいいと思った

あとは元気ならばいい

今はそんな気持ちでいる

日々のこと