ある晴れた日の午後に訪れた公園は、私に戦争の怖さを教えてくれた      米田 博

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6月5日(日曜日)
私は、バスに乗りとある場所にむかった。たどり着いたのは東大和南公園。
テニスコートにグランドに大きな広場、日曜日とあって多くの人達が余暇を楽しんでいた。そんな公園の奥に、この変電所は佇んでいる。

「 日立航空機立川工場変電所」

2016-06-05-17-12-39_deco太平洋戦争当時、航空機のエンジンをつくる軍需工場に電力を送電するための施設。

太平洋戦争が激化していった昭和20年(1945年)2月17日にF-16Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機等による機銃掃射。4月24日にB-29による空襲。
隣接する工場は跡形もなく大破したが、変電所は大きな被害を免れて平成5年(1993年)まで変電所として使用された。

2016-06-05-17-14-11_deco多くの家族連れが余暇を楽しむ公園の奥で、この変電所を見つけた時…背筋がゾクッとした。近づくと、思わず息を飲んだ…
凄まじい重機関銃の跡
コンクリートに、こんな大穴あくんだ…

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2016-06-05-17-14-34_decoこの機銃掃射をしたのは、戦闘機のヘルキャットとムスタング。搭載されていた機銃は、12.7mmブローニングM2重機関銃。 ジョン・ブローニングが第一次世界大戦末期に開発した重機関銃で、現在でも改良され自衛隊や海保、アメリカ、NATO、各国の軍隊で使用されている。有効射程距離は2000m、(最大射程距離6000m)、機関銃の傑作と呼ばれている。

今、対物兵器の重機関銃は、人に対して使用しないようにと促されている…でも、そんな事おかまいなしに世界中の軍隊は、平気で重機関銃を人に向けている…

戦闘機搭載ガンカメラが捉えた、非戦闘員への機銃掃射 – YouTube
http://m.youtube.com/watch?v=sE1YCpmQdig

こんなのくらっちゃえば…
腕にあたりゃ…腕が吹っ飛ぶ
身体にあたりゃ…大穴があく
風船に針を刺したように…頭が砕け散るんだろうな

2016-06-05-17-17-30_decoそんな事を考えながら写真を撮っていると、若いカップルがやってきて話をしていた。男性が「戦争の時の戦闘機の銃弾の跡なんだよ」って、そしたら女性は「ふ〜ん、そうなんだぁ。早く行こう」…だって
振り向けば、この機銃掃射の跡のすぐ近くでレジャーシート広げて弁当食べてる。
私にはちょっとムリかな、ここで弁当なんて…
多くの家族連れがいる。ここにいる親達は、この変電所のことを子ども達にどう伝えてるのだろう…
伝えてるのだろうか…
伝えることがあるだろうか…
と疑問に思った。

2016-06-05-16-25-14_decoここには、私が生まれる約30年前…大きな工場があった。戦闘機の機銃掃射を浴び、100機のB29の焼夷弾で工場は壊滅…110名が亡くなった。

ここは、東京 東大和市
西武鉄道拝島線の玉川上水駅の近く
「東大和南公園」

機銃掃射に狙われたら…
腕にあたりゃ…腕が吹っ飛ぶ
身体にあたりゃ…大穴が開あく
風船に針を刺したように…ボンッと鈍い音をだして頭が砕け散るんだ

機銃掃射でボコボコになった変電所は…そういう恐怖を教えてくれる。

父と伯父と戦争と  伊藤千惠

私の父(2011年没、94才)と、父の兄(2000年没、92才)は、日韓併合後の朝鮮総督府逓信局(在ソウル)に職を得て、熊本から朝鮮半島へ渡り、敗戦後の混乱と緊張のなか郷里へ引き揚げてきた。

父は、逓信局から3たび応召している。
生前、父がよくした戦争の話は、暗号兵であったゆえ護衛がついていたとか、作戦中に虫垂炎になり野戦病院で麻酔なしの手術を受けたなど、断片的なもので悲惨な印象はなかった。

父のいた部隊の上官は人格者であったようで、戦後も交流があり、その人からいただいた写真帳が残っている。
昭和15年(1940年)、中国の山西省太原が戦地であった。

昭和15年 中華人民共和国山西省古縣鎮にて戦友と

昭和15年 中華人民共和国山西省古縣鎮にて戦友と

[写真左が父、右は父の一番の戦友で昭和15年(1940年)5月に戦死、と父のメモ書き]

写真帳には、上官であった人の注釈がびっしりと記入されている。そこには、「生死を共にして滅私奉公の戦いの思い出のよすがとして」とあり、戦地でともに戦った仲間への懐かしさはあっても、戦争への反省といったものはうかがえない。
おそらく彼らの部隊は最前線ではなく、残虐な行為も死者も少なかったのであろう。
戦争経験者のなかで、そういう感懐を持つ人も少なくないのではないか。

写真をいただいた部隊長副官(中央)と本部付きの軍犬と当番

写真をいただいた部隊長副官(中央)と本部付きの軍犬と当番

父の死後、実家の物置から出てきた汚れた水筒には、『昭和20年(1945年)3月、3度目の応召、朝鮮軍兵站部羅津支部の要員として勤務中、突如としてソ連が8月9日宣戦布告し満州に侵入、北鮮羅津地区に爆撃を開始。朝鮮人上等兵を連れて帰途中、新品であった水筒が爆撃でざらざらになった。』というメモがついていた。

昭和20年(1945年)8月9日 ソ連軍の爆撃でざらざらになった水筒

昭和20年8月9日 ソ連軍の爆撃でざらざらになった水筒

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父の水筒メモ

朝鮮人上等兵ということばに、はっとした。
(朝鮮人という表現は当時の呼称にならったものであり、蔑称として使っているものではない。)
被統治国の兵もいたのだ。
父も伯父も、中国や韓国の人たちをさげすむような言動はいっさいしなかった。
高潔な性格であったと思う。
彼らは日本のした戦争をどうとらえていたのか。

あるはずの父の日記も見つからず、生前、もっと詳しく話を聞けばよかったと後悔の念しきりである。
伯父が昭和63年(1988年)に自費出版した「開拓記」の存在を思い出し、20年ぶりに読んでみた。

昭和20年(1945年)8月14日の敗戦前日から、引き揚げてくるまで、伯父が俳句手帳に書きつけたという敗戦記録から始まっている。

昭和63年(1988年)12月出版

昭和63年(1988年)12月出版

伯父は18歳から敗戦までの20年間、ソウルの逓信局に務め、一度も招集されなかった。当然、被統治国側の人たちも職員として勤務している。伯父は、彼らのことを日本人とまったく同様に接し、彼らも伯父と親密に交流している様子がうかがえる。
しかし、日本人職員は様々な現場を経験させられて本配属になるが、彼らは同じ部署でずっと同じ仕事をし、昇級することはないと伯父は書いている。すぐれた書をする者がいても、重用されることはなかったと。
明確にではないが、彼らに対する同情の念が感じられる。

少し長いが、当時の日本人の代表的な認識ではないかと思う一文があるので引用する。

『渡鮮に当たって私は「朝鮮」について何の知識もなかった。日清、日露の没後日本の進出により日韓併合が行われ一視同仁の大日本帝国の一部であること以外は。従って民衆の思想動向がどのようなものであるか、日本の植民地経営が着々と行われている反面、独立運動が絶えず一部の人々によって続けられていたことなど「知らされない側」の一人に過ぎなかった故である。
現地に長くいれば、彼らが従属民族の悲哀を持っていることを肌で感じたことはある。しかし当時は民衆が被圧迫民族だと感じることなどまるっきりない無知の時代でもあった。』

伯父は、半島で短歌や俳句の文芸誌を発行するなど、多少は知識人の側面もあったが、軍国主義体制への批判のようなものはみられない。一介の逓信局員であり、何も知らされなかった国民はそうしたものであったと推量する。

一方で、敗戦直前に病死した外交評論家、清沢洌のように、当時の軍部・政府の非合理性、精神主義や、それに追随する文学者への痛烈な批判、大本営発表への不信感など、現代ジャーナリズムと同等の視点を持つ人もいたのである。
彼の「暗黒日記」は、出版を想定したものではなく、戦争記録としてつづった日記であるがゆえに、近代以前とも言える人々の戦争への認識や、この時代の異常さが伝わってくる。

ここ数年の世情をかんがみて、痛みを伴ってでも戦争を庶民から天皇まできちんと省み総括してこなかったツケが、私には今も続いているように思えてならない。

実は、この「開拓記」は、終戦後、伯父が郷里に帰り開拓地へ入植してからの苦闘の連続の方が、読み物として断然面白いのだが、それはまた別の稿へ。

簡単に書すと、父は熊本市内に郵政関係の職に就き、伯父は39才で開拓地に入植、夫婦2人で20年間、大地を開墾し続け、60才にして夢であった書道教室を開き、書家としての人生をまっとうした。

最後に「開拓記」のなかのことばを。
『私共には死ぬまで戦後は終わらないだろう。』

 

参考文献
・「暗黒日記」清沢洌著(1990年刊行)

受け継がれた戦争の記憶【序章】(下) 米田ひろし

上巻から続く)

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70年前の沖縄で戦死した父の叔父である 國 清秀

清秀が沖縄に配属になった昭和19年に、母親宛に出したハガキに 「球第12517部隊」と書いてあった。

球第12517部隊は、 独立高射砲第27大隊・第一中隊、(通称)中村隊、小禄飛行場の防衛に当たり、高射砲でアメリカの飛行機と戦闘した。

2015-05-12-12-36-59_deco 昭和20年4月1日の米軍上陸後は、対空ばかりでなく高射砲で対地攻撃も行ったという…
一発撃てば、発泡炎で居場所が判明しすぐに反撃の的にされてしまう高射砲部隊…
ガマと呼ばれる避難壕は、死体と負傷兵であふれかえったという….
6月22日当時の550余名のうち、戦傷者を含んで僅か150余名…. 死亡報告書が正しければ、 その150名に清秀さんは入っている。

2015-05-12-12-33-45_deco部隊は残存兵力を結集して、 6月22日から 3日の払暁にかけて優勢なる敵に肉薄戦闘を敢行し、遂に壮烈なる最後を飾ったという….
清秀が亡くなった真栄平では、日本兵による住民虐殺もあった場所… (下記サイトより引用) http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasentoheiwakyouiku/ptakatudoutoheiwagakusyuminikouza.htm 米軍との戦闘が始まると、ガマを使った抵抗戦が計画され、日本軍の命により地元住民をガマから追い出し、住民を米軍の猛爆に晒した。

(第一次ガマ追い出し)
・首里戦線を突破された日本軍は組織的な戦闘はできず、小集団がそれぞれにガマの避難民を追い出し、ガマを根城に散発的な抵抗戦に入る。その結果、住民および避難民を米軍の猛爆に晒した。

(第二次ガマ追い出し)
・米軍の掃討戦の状況の中で、日本兵は敗残兵として住民をガマから追い出し、或いは雑居し住民を巻き込んでの玉砕戦の様相を呈する。

(第三次ガマ追い出し)
・日本兵は、住民の食糧や飲料水を奪った。
・米軍の攻撃に対して住民を楯にした。
・住民の投降に対して阻止、妨害した。
・住民をスパイ容疑等で殺した。
・泣く子どもを殺したり、殺害強要をした。
・ごく一部、日本兵の虐待から住民を助けたり、米軍への投降を勧める日本兵もいた。

父は「清兄は、すごく優しい人だった」と言う。 祖母は終戦後、死亡報告書が届くまでの2年間、毎日深夜に来る密航船が着く港に迎えに行き、夕暮れ時には沖縄の方向を見ながら泣いていたという…
2015-05-12-12-39-09_deco 清秀の書いたハガキに父の名前…「一夫君も元気に…」というのが書いてあった。それを手にしていた読んでいた父の姿が忘れられない。 これが、ハガキと死亡報告書が私に教えてくれたこと 、「これで受け継がれた記憶」と史実の「点と点」がつながり「線」になった。

清秀さんは、住民と話したんだろうか…

自決用の手榴弾を渡したんだろうか…

米軍へ投降を促したんだろうか…

「日本人は…忠誠心が他の国より強い …もう…清秀さんが生きた時代はくり返しちゃいけない。 」

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受け継がれた戦争の記憶【序章】(上) 米田ひろし


平成27年5月9日、私と父にとって大事な人の遺品を家中ひっくり返し探して、写真に撮ってみた…
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幼い頃よく戦争の夢を見ていた。
今でも残るその恐ろしい夢の記憶
もの凄い艦砲射撃、空襲、自決…
幼い頃、カミナリが鳴ると艦砲射撃だと思った…恐くてたまらなかった。
台風の時の濃い夕焼け…「空襲だ」って思って泣いて帰った。
あまりにも恐怖で今でも覚えてる2,3歳頃の記憶
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幼い頃、絵本は興味なかった
沖縄戦の写真集が家にあった
女の子が幼子を背負って白旗を持って歩いてい写真集…死体がいっぱい載ってた。
怖いながらも何度も何度も見ていた…
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4歳の頃、沖縄へ引越し…
そこら辺には、防空壕、沖縄特有のお墓、サトウキビ畑、水牛の牛車、青空、透き通る海、初めて行く場所なのにすべてが懐かしく感じた。
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それから21年後の25歳のころ…
事故や不運が多過ぎて、それを心配した当時付き合っていた嫁さん。
私を霊媒師の所へ…なぜ、幼少期の私が沖縄を知っていたのか言い聞かされた。沖縄で戦死した祖母の弟「 國 清秀 」の思いが私に25年の間、宿っていたのだという…

受け継がれた戦争の記憶…
2015-05-12-15-53-31_deco下巻へ続く