父と伯父と戦争と  伊藤千惠

私の父(2011年没、94才)と、父の兄(2000年没、92才)は、日韓併合後の朝鮮総督府逓信局(在ソウル)に職を得て、熊本から朝鮮半島へ渡り、敗戦後の混乱と緊張のなか郷里へ引き揚げてきた。

父は、逓信局から3たび応召している。
生前、父がよくした戦争の話は、暗号兵であったゆえ護衛がついていたとか、作戦中に虫垂炎になり野戦病院で麻酔なしの手術を受けたなど、断片的なもので悲惨な印象はなかった。

父のいた部隊の上官は人格者であったようで、戦後も交流があり、その人からいただいた写真帳が残っている。
昭和15年(1940年)、中国の山西省太原が戦地であった。

昭和15年 中華人民共和国山西省古縣鎮にて戦友と

昭和15年 中華人民共和国山西省古縣鎮にて戦友と

[写真左が父、右は父の一番の戦友で昭和15年(1940年)5月に戦死、と父のメモ書き]

写真帳には、上官であった人の注釈がびっしりと記入されている。そこには、「生死を共にして滅私奉公の戦いの思い出のよすがとして」とあり、戦地でともに戦った仲間への懐かしさはあっても、戦争への反省といったものはうかがえない。
おそらく彼らの部隊は最前線ではなく、残虐な行為も死者も少なかったのであろう。
戦争経験者のなかで、そういう感懐を持つ人も少なくないのではないか。

写真をいただいた部隊長副官(中央)と本部付きの軍犬と当番

写真をいただいた部隊長副官(中央)と本部付きの軍犬と当番

父の死後、実家の物置から出てきた汚れた水筒には、『昭和20年(1945年)3月、3度目の応召、朝鮮軍兵站部羅津支部の要員として勤務中、突如としてソ連が8月9日宣戦布告し満州に侵入、北鮮羅津地区に爆撃を開始。朝鮮人上等兵を連れて帰途中、新品であった水筒が爆撃でざらざらになった。』というメモがついていた。

昭和20年(1945年)8月9日 ソ連軍の爆撃でざらざらになった水筒

昭和20年8月9日 ソ連軍の爆撃でざらざらになった水筒

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父の水筒メモ

朝鮮人上等兵ということばに、はっとした。
(朝鮮人という表現は当時の呼称にならったものであり、蔑称として使っているものではない。)
被統治国の兵もいたのだ。
父も伯父も、中国や韓国の人たちをさげすむような言動はいっさいしなかった。
高潔な性格であったと思う。
彼らは日本のした戦争をどうとらえていたのか。

あるはずの父の日記も見つからず、生前、もっと詳しく話を聞けばよかったと後悔の念しきりである。
伯父が昭和63年(1988年)に自費出版した「開拓記」の存在を思い出し、20年ぶりに読んでみた。

昭和20年(1945年)8月14日の敗戦前日から、引き揚げてくるまで、伯父が俳句手帳に書きつけたという敗戦記録から始まっている。

昭和63年(1988年)12月出版

昭和63年(1988年)12月出版

伯父は18歳から敗戦までの20年間、ソウルの逓信局に務め、一度も招集されなかった。当然、被統治国側の人たちも職員として勤務している。伯父は、彼らのことを日本人とまったく同様に接し、彼らも伯父と親密に交流している様子がうかがえる。
しかし、日本人職員は様々な現場を経験させられて本配属になるが、彼らは同じ部署でずっと同じ仕事をし、昇級することはないと伯父は書いている。すぐれた書をする者がいても、重用されることはなかったと。
明確にではないが、彼らに対する同情の念が感じられる。

少し長いが、当時の日本人の代表的な認識ではないかと思う一文があるので引用する。

『渡鮮に当たって私は「朝鮮」について何の知識もなかった。日清、日露の没後日本の進出により日韓併合が行われ一視同仁の大日本帝国の一部であること以外は。従って民衆の思想動向がどのようなものであるか、日本の植民地経営が着々と行われている反面、独立運動が絶えず一部の人々によって続けられていたことなど「知らされない側」の一人に過ぎなかった故である。
現地に長くいれば、彼らが従属民族の悲哀を持っていることを肌で感じたことはある。しかし当時は民衆が被圧迫民族だと感じることなどまるっきりない無知の時代でもあった。』

伯父は、半島で短歌や俳句の文芸誌を発行するなど、多少は知識人の側面もあったが、軍国主義体制への批判のようなものはみられない。一介の逓信局員であり、何も知らされなかった国民はそうしたものであったと推量する。

一方で、敗戦直前に病死した外交評論家、清沢洌のように、当時の軍部・政府の非合理性、精神主義や、それに追随する文学者への痛烈な批判、大本営発表への不信感など、現代ジャーナリズムと同等の視点を持つ人もいたのである。
彼の「暗黒日記」は、出版を想定したものではなく、戦争記録としてつづった日記であるがゆえに、近代以前とも言える人々の戦争への認識や、この時代の異常さが伝わってくる。

ここ数年の世情をかんがみて、痛みを伴ってでも戦争を庶民から天皇まできちんと省み総括してこなかったツケが、私には今も続いているように思えてならない。

実は、この「開拓記」は、終戦後、伯父が郷里に帰り開拓地へ入植してからの苦闘の連続の方が、読み物として断然面白いのだが、それはまた別の稿へ。

簡単に書すと、父は熊本市内に郵政関係の職に就き、伯父は39才で開拓地に入植、夫婦2人で20年間、大地を開墾し続け、60才にして夢であった書道教室を開き、書家としての人生をまっとうした。

最後に「開拓記」のなかのことばを。
『私共には死ぬまで戦後は終わらないだろう。』

 

参考文献
・「暗黒日記」清沢洌著(1990年刊行)