国民学校の少女の記憶 (1) 高田 緑

昭和9年生まれの母は、多感な少女時代に先の戦争を体験している。

中島家の長女として生まれた、中島 良(よし)は昭和16年、尋常小学校から国民学校に改称されたその年、郡山市赤木国民学校に入学した。

昭和16年のお正月の家族写真
(福島県郡山市咲田町の自宅にて。これ以降の家族写真はない。)

その年の12月に大東亜戦争が勃発。
終戦までの4年間を、現在81歳になった少女は、長い時を経て、澱んだ記憶を流すように語った。

「大本営発表。本未明、日本軍は米国・英国を相手に戦闘状態に入り」(少女の記憶)

ラジオからの発表で、真珠湾攻撃での日本軍の圧勝と戦争の始まりが7歳の少女の記憶に刻み込まれ、小国民(国民学校の子ども)としての生活が始まったのだ。

昭和17年シンガポール陥落の情報が入ると、大人は提灯、子供は旗行列をして祝った。

子どもにまでも軍歌を歌わせた軍国主義の社会。少女は、この平成の世になってもその歌の一節一節を忘れてはいなかった。

学校での教育は、社会の科目以外は至って普通であったが、社会の時間はすべて「兵隊さん(軍)」を賞賛する教育のみ。兵隊さんが我慢しているのだから。兵隊さんがお国のために戦っているのだから。欲しがりません、勝つまでは。当たり前の教育だった。

家族であっても「戦争」に関する話題は全てタブーとされていた。どこにスパイが潜んでいるかも分からないから。国民がコントロールされていた、そんな時代だったのだ。

当時、専売局の官吏であった祖父だが、大学在学中はジャーナリスト志望であった。それ故に尚更、言論の自由のない社会への憤りは大きかったであろうが、それさえも越えて、諦めの境地だったのだろう。

少女が質問すると、教育熱心だった少女の父親は「今は言えない」とだけしか答えてくれなかったという。

そして、昭和20年4月12日の郡山空襲

その前年の19年の終わり頃から、幾度となく上空を艦載機がトンボのように飛び、薬莢が屋根瓦に雨のように降ったという。

低空飛行だったため、金色の髪と高い鼻のパイロットの顔を今でも少女は忘れない。
“巷の噂”では、赤木国民学校に中島飛行機の一員が住んでいたのをアメリカ軍は狙っていたという。
現に、中島飛行機郡山工場が当時存在していた。

郡山空襲のその時、少女は国民学校のみんなと、近所の山の松林で松の根っこの油を採取していた。その油が何かの燃料になると、大人に言われて、ただそうしていた。

その時、空を見上げたら、北の方角から編隊を組んで飛んでくるB29の姿がはっきりと見えた。郡山駅周辺からの爆撃の音は凄まじかったという。警戒警報、空襲警報もなく、いきなりの敵襲であった。
それは、3月10日の東京大空襲のわずか1ヶ月後のことである。

郡山市如法寺には、空襲で犠牲になったかたの慰霊碑がある。犠牲者の中には、優秀な学生もいた。

その年の8月15日の玉音放送を、少女は疎開先である東白河郡古殿町にある祖母の実家で、正座をして聞いた。

「終わった」。

少女の思いはただそれだけだったという。

だがしかし、その後、敗戦国の日本に与えられた「自由」を生きる戸惑い。すべてが180度変わったのだ。

戦いは終わってはいなかった….。

あの戦争を伝えるためにこの歳まで生きつづけたのだ、と母は細い身体で言うのだ。

(外伝)につづく)

受け継がれた戦争の記憶【序章】(下) 米田ひろし

上巻から続く)

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70年前の沖縄で戦死した父の叔父である 國 清秀

清秀が沖縄に配属になった昭和19年に、母親宛に出したハガキに 「球第12517部隊」と書いてあった。

球第12517部隊は、 独立高射砲第27大隊・第一中隊、(通称)中村隊、小禄飛行場の防衛に当たり、高射砲でアメリカの飛行機と戦闘した。

2015-05-12-12-36-59_deco 昭和20年4月1日の米軍上陸後は、対空ばかりでなく高射砲で対地攻撃も行ったという…
一発撃てば、発泡炎で居場所が判明しすぐに反撃の的にされてしまう高射砲部隊…
ガマと呼ばれる避難壕は、死体と負傷兵であふれかえったという….
6月22日当時の550余名のうち、戦傷者を含んで僅か150余名…. 死亡報告書が正しければ、 その150名に清秀さんは入っている。

2015-05-12-12-33-45_deco部隊は残存兵力を結集して、 6月22日から 3日の払暁にかけて優勢なる敵に肉薄戦闘を敢行し、遂に壮烈なる最後を飾ったという….
清秀が亡くなった真栄平では、日本兵による住民虐殺もあった場所… (下記サイトより引用) http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasentoheiwakyouiku/ptakatudoutoheiwagakusyuminikouza.htm 米軍との戦闘が始まると、ガマを使った抵抗戦が計画され、日本軍の命により地元住民をガマから追い出し、住民を米軍の猛爆に晒した。

(第一次ガマ追い出し)
・首里戦線を突破された日本軍は組織的な戦闘はできず、小集団がそれぞれにガマの避難民を追い出し、ガマを根城に散発的な抵抗戦に入る。その結果、住民および避難民を米軍の猛爆に晒した。

(第二次ガマ追い出し)
・米軍の掃討戦の状況の中で、日本兵は敗残兵として住民をガマから追い出し、或いは雑居し住民を巻き込んでの玉砕戦の様相を呈する。

(第三次ガマ追い出し)
・日本兵は、住民の食糧や飲料水を奪った。
・米軍の攻撃に対して住民を楯にした。
・住民の投降に対して阻止、妨害した。
・住民をスパイ容疑等で殺した。
・泣く子どもを殺したり、殺害強要をした。
・ごく一部、日本兵の虐待から住民を助けたり、米軍への投降を勧める日本兵もいた。

父は「清兄は、すごく優しい人だった」と言う。 祖母は終戦後、死亡報告書が届くまでの2年間、毎日深夜に来る密航船が着く港に迎えに行き、夕暮れ時には沖縄の方向を見ながら泣いていたという…
2015-05-12-12-39-09_deco 清秀の書いたハガキに父の名前…「一夫君も元気に…」というのが書いてあった。それを手にしていた読んでいた父の姿が忘れられない。 これが、ハガキと死亡報告書が私に教えてくれたこと 、「これで受け継がれた記憶」と史実の「点と点」がつながり「線」になった。

清秀さんは、住民と話したんだろうか…

自決用の手榴弾を渡したんだろうか…

米軍へ投降を促したんだろうか…

「日本人は…忠誠心が他の国より強い …もう…清秀さんが生きた時代はくり返しちゃいけない。 」

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受け継がれた戦争の記憶【序章】(上) 米田ひろし


平成27年5月9日、私と父にとって大事な人の遺品を家中ひっくり返し探して、写真に撮ってみた…
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幼い頃よく戦争の夢を見ていた。
今でも残るその恐ろしい夢の記憶
もの凄い艦砲射撃、空襲、自決…
幼い頃、カミナリが鳴ると艦砲射撃だと思った…恐くてたまらなかった。
台風の時の濃い夕焼け…「空襲だ」って思って泣いて帰った。
あまりにも恐怖で今でも覚えてる2,3歳頃の記憶
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幼い頃、絵本は興味なかった
沖縄戦の写真集が家にあった
女の子が幼子を背負って白旗を持って歩いてい写真集…死体がいっぱい載ってた。
怖いながらも何度も何度も見ていた…
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4歳の頃、沖縄へ引越し…
そこら辺には、防空壕、沖縄特有のお墓、サトウキビ畑、水牛の牛車、青空、透き通る海、初めて行く場所なのにすべてが懐かしく感じた。
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それから21年後の25歳のころ…
事故や不運が多過ぎて、それを心配した当時付き合っていた嫁さん。
私を霊媒師の所へ…なぜ、幼少期の私が沖縄を知っていたのか言い聞かされた。沖縄で戦死した祖母の弟「 國 清秀 」の思いが私に25年の間、宿っていたのだという…

受け継がれた戦争の記憶…
2015-05-12-15-53-31_deco下巻へ続く