いごく「ふくしま/フクシマ」 吉田邦吉

また少しの間だけ出しておこう。

いわき市が「いごく(igoku)」というメディアを始めていて、小松さんが参加して編集している。地域包括ケアは旗振り役が必要なので良い取り組みだ。それなのに全く関心が増えず、「デマの件で争う」のほうがTwitterではぐんと上がる。

食のテーマについても安全論は伸びない。それには理由があると私は思う。ただ、私で言えば実害論しかアクセス数が伸びないのとそれは同じ構造である。SNSユーザーは争いや闘いに飢えている。議論と争いは異なるが。NPO法人や地域の活動などを無視している。

だが私は考えの違う人達を押しつぶしたいと思わない。放射能御用はそうでないから困る。悪い。だが、8年目の今それだからといって私がまた刀を抜いたら、無用に傷つく人を増やすだけだから鞘に入れた。

争いを好むことはリアルと乖離し過ぎていることにネットが気づいていない。リアルでは逆だ。争いが好まれず生産的が好まれる。ここらにネットとリアルの溝すなわち政治と社会の溝がある。

私と小松さんの放射能についての考えは合うかどうかわからない。
たぶん、どこかがあわない気がするし合う面もある。

しかしいずれにせよ、争いよりも福祉に取り組む人を私は立派だと思う。地域にこだわる。そこが良いと思う。少なくとも放射能の議論で盛り上がるのはTwitterだけだ。政治の争いだけだ。

政治に社会は関心がない。いっさい怒ってはならないとかそういうことを言っていない。人間の自然な感情を誰も否定しない。ただ単に、なるべくなら争いに人は参加したくないだろうと私は思う。

政党だの政治家だの。
大事なのは政策論とその結果と未来だ。

ある人は言った。「自分たちは籠のなかの鳥だ(≒鳴いている=泣いているしかない)」と。それは一理ある。だが別の側面から見て、被災者とか被害者とかそういう枠だけで捉えられたいと私は思わない。

あくまで被災は自分を形成する一つの部分的な経験に過ぎない。論理関係が逆なのである。地方や地域を下に観ないでもらいたい。私達は同じ人だ。争いに利用されるための被災ではない。事実は事実として見てもらいたい。

以前わたしは「不幸を政治利用するな」に反対した。それは今も変わってない。人の不幸を放置しすぎて酷いものになっているのに何もしない政治は批判されてしかるべきだからだ。

しかし「人の不幸を政権を倒すためのネタとしか考えない」のと「人の不幸に共感を寄せ、何もしない政府に、結果的に腹を立てる」のとは、だいぶ違う。普段の行動が違うから、わかる。

常に牧歌的であれとは言わない。無理だ。
常に争いであれというのも無理をしていないか。
どうしても闘いたかったら自分と闘おう。

よって争い、そんなことに焚き付けられるしか能がない福島だなんて私は絶対に思われたくない。私達はもっと優れている。私達の暮らしを見てもらいたい。私達は争わせられるだけの植民地などでは決してない。

個性ある人の暮らしがある。