南相馬のしんさいニートは東京で漫画を カトーコーキ(上)

エッセイ漫画「しんさいニート」をウェブで発表しているカトーコーキさんにお話をうかがった。
カトーさんは、1980年福島県南相馬市原町区で生まれ、東京の大学を卒業後、2005年に帰郷。
自ら改装した古民家で陶器製造販売業をはじめるが、2011年の震災・原発事故により、家族で函館に移住。
函館での事業再建はかなわず、美容専門学校に入学し美容師免許を取得。
2013年に東京の美容室に就職したがうつになり、退職したのち3ヶ月寝たきりとなる。
カウンセリングに通いはじめ、別の美容室に就職するも精神状態がすぐれず退職。
回復していく中で、原発事故被害の当事者だからこそできることを模索、
エッセイ漫画「しんさいニート」で自身の体験を描き、ウェブでの発表を始めた。
同時にPRムービーのBGM作成のため、バンド、エレクションズを結成。

震災・原発事故、うつ、ニート、父親による精神的虐待、自己否定などの体験を赤裸々に描いた「しんさいニート」はアメーバ・ブログでエッセイ部門一位を獲得している。

2015年4月11日
話し手:カトーコーキ
聞き手:高田緑、伊藤千惠  文起こし:伊藤千惠

カトーコーキさん

カトーコーキさん (撮影:伊藤千惠)

カトーコーキさん

カトーコーキさん (撮影:伊藤千惠)

 

 

 

 

 

 

 

伊藤「漫画、読みましたけど面白いですね。」

カトー「そういっていただけて嬉しいです。最初は内容がとても赤裸々なのでウェブで出すことに抵抗がありました。知り合いが見ますから。だけど出版を目指すのであればいずれ通る道なので、腹をくくりました。

漫画で僕が言いたいのは、震災や原発事故の被災者が辛いとかかわいそうとか言う結論ではないんです。一番感じたのは、原発や国がどうだというよりも、自然対人間のあり方みたいなものをあの時、問われたんじゃないかと。結局人間は科学の上で操られていて、手を出してはいけないものに手を出し、人間の命が自然の 力で簡単に失われてしまったということに考えをめぐらすべきじゃないかとすごく思いました。

でも、今残っている議論は被災地や原発をどうするかとか、それによって極端な意見も出てきて、それは身の置き場としては楽かもしれないけど、本当は僕は原発や国に対して文句をいえる人は誰もいないと思っています。国イコール国民ということで、今まで容認してきたんじゃないか、自分も含めて。心情的にはわかるけど極端な意見に参加するのは好きではない。容認してきた歴史があるのを無視してはいけないと思います。

今回、たまたまあの場所で事故が起こっただけで、どこに起こってもおかしくない。本当は国のあり方や生き方が問われたんだけど、東京に来て感じたのは、もう終わっているということです。東京オリンピックが決まったとき、震災や原発事故の話はもうこれ以上できなくなるんだ、終わったなあと思いました。

最初、漫画を描きはじめたとき、どこか南相馬代表みたいな気持ちがあったんですが、南相馬市原町区は人が住める区域で、役場の友人と電話で話していて、地元の人たちは事故のことを半分忘れて普通に暮らしている。そうじゃないと日々をこなせないから、と聞いたとき、ああ僕は南相馬代表ではなかったんだなと感じました。

南相馬市原町区は、僕のように完全に家を切って移住した人はそんなにいません。個人的にはあそこには住めないと思っているし、当時、兄の子供たちが小さくて健康被害のおそれがあったので、兄嫁の実家がある函館に移住したのですが。
大丈夫だと言われているけれど、何をもって大丈夫なのか明確でないのが大きいですよね。

チェルノブイリでは200km圏内に影響があったというのを参考にして、200km圏外に出ようと思いました。僕自身はあのときの判断は間違っていなかったと思っていますが、残った人たちには残った人たちの正義があって否定はできない。あちらを立てればこちらが立たずで非常に難しく苦しいんです。

残れる場所なのに残らなかった、移住した、地元や人を裏切ったという罪悪感がものすごく残りました。原町には荷物の整理に帰ったきりでずっと帰れなかった。会いたい人はたくさんいるけど会えないんです。住めるギリギリのラインで自分達で選択しなければいけない、一番きついエリアだと思います。自分の選択を誰のせいにもできないし、自分で責任を取らなければいけないわけですから。

福島ってすごく広くて、原発事故の被害の地区はほぼ浜通りに限られていて、原発事故被害にあっていないエリアで農業や観光業、その他産業に携わる人たちは、福島元気だよ、がんばっているよ!と言いますよね。それが攻撃されている気持ちになるんですよ。それが今、福島の総意みたいにこっちには伝わってくる。福島人だけど、がんばれていないし、元気でもない僕はなんなんだ?と。

僕や他の原発事故の被害者のことは切り捨てた感じになってしまっている。
地元の南相馬市原町区の人とも相容れないし、福島全体の被災地域以外の意見とも一緒になることができない。自分の所属先がなくなった感じがするんです。
でも僕が他の立場だったらそうするだろうし、誰も悪いわけではない。
しかし、そういうところに目がいってないということは事実としてあるよね、ということは言いたい。風評被害以前の問題で、全然終わっていないんです。」

高田「事故以前から、福島は地域によって全然違うんですよね。」

カトー「実は震災後3年半くらい、震災関係のテレビは思い出すと辛くなるのでずっと見れなかったんですが、カウンセリングを受けて、徐々に回復してきて漫画を描き始めたあたりから楽になって見られるようになったんです。

このあいだの「ふくしまをずっと見ているTV」で、番組MCの箭内道彦さんが、『福島の人たちの感情をひとくくりにするのが一番危険だと感じている。それぞれの立場、それぞれの住んでいる場所によってまったく違う』と仰っていて、同じことを強く思っていたので驚きました。それが今まで無視されてきたので、そのことばが欲しかった。

震災系のイベントも人々の関心がなくなり、もう終わっている感じなんですね。もっと根源的な問題を考えないといけない。大事な部分を考えないまま震災は終わってしまったという気がするんです。本当は当事者たちが、復興します、がんばりますよということだけではなくて、大事なことは何なのかを考えさせなければいけないと思う。それが僕の漫画でできればいいと思っています。
震災の漫画というだけではなく、もっと大きい、ある意味、自然学とか哲学とかの方向に終結させていきたいんです。」

中巻へ続く)

「風にたじろがず日々を生きる ~ 5回目の3・11によせて ~」 酒井政秋

2011年3月のあの日からもうすぐ4年。

未だ置かれている状況は『避難』という中の非日常のような日常を送っている。

いつ日常という平穏な暮らしに辿り着けるのだろうか。

4年という月日で自立再建の決断をそれぞれ迫られている。

その中でいつも心は揺れ動き定まらない状況だ。

「安住の住まい」とは、プライバシーが守られ、日々の中で最も落ち着く空間でなくてはならない大切な場所。そこが未だないというのは落ち着かない。

日々、仮設住宅では救急車のサイレンや隣の足音や物音の中で生きるというのは、心を乱される。

飯舘村で育ち暮らしてきたものにとって『音』の変化でもあったと思う。

飯舘村にいるときは鳥の鳴き声、カエルの鳴き声・川のせせらぎ、風の音それが生活の中での『音』だった。

そして、その『音』は四季を感じるとても心休まる当たり前の音だった。

 

原発事故というのはひとり一人の人生や生活を一変させ、住み慣れた環境だった故郷を汚染された。

確かにそこにあっても、自由に入ることが出来ても『生活』ができぬ土地になってしまった。

原発事故前の暮らしは二度と元には戻らない。

あの日あの時の厳しくとも心は豊だった暮らしは、思い出でしか味わえない。

未来へとゆく者として原発事故は日本のどの地域においても、世界のどの地域においても起きてはならない事だと思う。もう歴史は繰り返されてはならない。

 

風が運んできた放射性物質。

いつもわたしたちはこの4年、

ある意味で風に心を乱され続けた日々であった気がする。

風潮であったり風化であったり、良いも悪いも常に取り巻く風がある。

追い風にも向かい風にも成り得る風。

その風にたじろがぬように。

 

歴史の中で人は誰かが最先端として作ったもので、時を経てまた別の関係のない誰かが苦しめられるという現実がある。

そんな歴史の繰り返しで良いのだろうか。

いつもこの時期はやけに大きなプレッシャーがのしかかる。

そして

結びに2011年3月11日から現在まで多くの尊い命が旅立たれた。

人・ペット・家畜・自然

静かに深く祈りたい。

 

 

2015年3月5日 飯舘村の風景

2015年3月5日 飯舘村の風景

 

 

ご挨拶

皆さん、初めまして。

私は栃木県に住んでいます。
私についての最近とその少し前のことを中心にお話しします。私は普段、絵を描いたり、畑で野菜を収穫するための支度をしたり、木や紙粘土などを使って工作をしています。一つの家に住んでいる同居人がいます。その人と一緒に食べる夕飯を作ります。アルバイトもします。

これを書いている今は冬ですが、去年の夏はたくさん海に行きました。私は海が好きです。砂浜を歩いて海の風を浴びるととても心地良いですよ。しかも、夏なら海に潜ることができます。私は、奄美群島の海と日本海でシュノーケリングをしました。奄美群島の海では、黄色や紫や緑色などの美しい魚と出会えます。浅瀬には海鼠(なまこ)も沢山います。日本海では雲丹(うに)を採って、一匹ぺろりとその場で食べてしまったんです。私は食いしん坊です。海に潜って自分で採った雲丹はとても美味しかったです(地元の許可のある漁場です)。

奄美群島にて。旅人のような暮らしに憧れて、アルバイト代を溜めて旅行。

奄美群島にて。旅人のような暮らしに憧れて、アルバイト代を溜めて旅行。

栃木県は、周りに海がありません。時々海が恋しくなります。私が生まれたのは、福島県の海の近くの町です。1983年に生まれました。生物学的に女性。絵を描くのが好きな子でした。スポーツは大の苦手でした。福島県の海の近くの町で、18歳ぐらいになるまで過ごしました。その後、山梨や東京に住むこともありましたが、20代になってから、再び福島県の生まれ育った土地に戻ってきました。

皆さんは2011年、3月11日に福島県の海辺で起こったことを知っていますか。福島県の海辺だけではありません。日本のあちこちで、地面が大きく揺れました。大変大きな地震や津波がありました。日本の陸地で一番震源に近いのが宮城県の金華山と言われています。猿や鹿たちが住んでいる島です。その傍が地震の源です。震源は福島県の海辺からも、とても近いです。これを書いている最近も余震があったので、この文が発表されてからすぐにこれを読んだ人の中には、余震のたび、不安な思いをされている方もいるかもしれません。

この文を作っている期間中、紙粘土を触っていたら、生き物の姿が現れてきました。福島県の地層で骨が見つかったフタバスズキリュウの姿にもどこか似ています。

この文を作っている時、紙粘土を触っていたら、生き物の姿が現れてきました。福島の海辺の地層で骨が見つかったフタバスズキリュウの姿にもどこか似ています。

その大きな地震があってから、私は福島県の海辺の町には住めなくなりました。家や道路が壊れてしまったせいもあります。津波で亡くなってしまった人もいます。さらに、福島第一原子力発電所の原子炉で爆発が起きました。私は、人間は原発から飛び散ったものが混ざった空気とは生きていくことができないと判断しました。だから暮らしていた地を離れました。

その後、私はいくらか場所を転々としていました。色々な人や土地にお世話になりながら。2011年3月11日から今日までの間に、今、こうして文をパソコンで打っている部屋があるこの家と、それを貸してくれる人に出会い、いくらかは安心な場所で暮らすことができるようになりました。

これが最近、そして少し前の私についてです。どうぞよろしく。

11月14日2837名ADR1次申立書提出を終えて

11月14日早朝朝焼けが伊達の仮設を明るく照らした。阿武隈山脈の山々が赤く燃え立つように見えた。キンと冷えた空気に気が引き締まりながらも、東京へはいけない残りの声に出せない想いをADRと言う方法で東電に出しに行くそんな覚悟を感じた瞬間でもあった。

自分事ですが飯舘村は震災前まで生まれ育ったほんとにのどかすぎるほど、平凡すぎるほど穏やかな村だった。わずか6000人の小さなコミュニティーの中で育ちました。

小さな集落で大人がよその子供でも本気で叱ってくれるところでした。

生活の中で色んな知恵も昔の話も教えてもらい、そんな当たり前だと思っていた平凡さや大自然の中での不便さが嫌で東京に憧れを持ち始め高校を卒業すると同時に村を離れました。

紆余曲折あり、南相馬市を経て飯舘村に戻ってきたとき、心が疲れてしまっているなと感じた。これから自然の中でどう生きるかみたいなものと自分を少しずつ変えて行かなければならないなと漠然と思っていた時に東日本大震災が起こり、そして続く原発事故。一瞬にして緑豊かなその風景は私の目にはどんよりとグレーな世界へと変わってしまった。飯舘村で生きていく覚悟や飯舘村で叶えたかった夢・未来・終焉。そのすべてがこの事故で奪われてしまった。私の飯舘村での人生はあの日から止まったまま3年8か月過ぎてしまっている。私一人とってみてもまだまだ語りつくせない想いや負の感情、過去をあがいても戻らないと分かりながらも過去を想ってしまう心があります。一人一人の思いや考えや夢や人生は違えど、強制的に奪われた狂わされた人生の責任はこの原発事故にあると思っています。

これまで、弁護士面談で暗い表情を浮かべてきた村民が弁護士面談を終えてどことなく血色がよくなって帰っていく表情や「すっきりした~」って言っていく村民を何度も目にしてきて、みんなこの3年8か月、誰にも言えない心の奥底に閉まっていたことを改めて実感しました。そんな思いが11月14日申し立てと言う形になった東京ADRセンターの場所にいたことは自分でも何度も泣きそうになりながらも我慢をし、この想いが東電のトップに届きますようにと祈る気持ちで見届けた。

これから1次返答が来るまで時間はかかりますが、2次、3次と精神的な事項から不動産の個別事項、その他個々人における問題などをどんどん申し立てをしていく予定をしている。わたしは申立団の事務局(庶務)と下っ端ですが、今回ちゃんと裏方業を務められたかな。まずはホッとして熱出しました(笑)

でも、
まだこれがスタートラインの場所にようやく立ったという感じだと思う。

これからあまり長くなってほしくはなけれど、もしかすると長い闘いになってしまうだろうから、途中で給水しながらエネルギーを補給しながら完走したいそんな気持ちだ。

11月14日2837名ADR1次申立書提出(飯舘村)

11月14日、飯舘村ADR