震災後・原発事故後の私の原点~陽だまりのベンチにて~ 酒井 政秋

最近、以前お話をさせて頂いた村民の声を思い出す。

ひとつひとつが大切な声であった。

その中で、私自身の心の分岐点になった方の声を今回、自分が感じたこととその方のご様子から体感したことを原点に立ち返り書いてみた。

あれは2012年の4月か5月だっただろうか。

恐る恐る私はある仮設住宅を訪ねた。なぜ、恐る恐るかというと、まだまだ村民同士が本音で言い合える状況ではなかったのと、何より自分の心がようやく生命力を取り戻したときでもあったからだ。

私の目の前に、一人の老婆が陽だまりのベンチにぽつんと、どこか寂しげに腰かけていた。

わたしはその老婆の隣に座った。

その老婆の手は、ごつごつとしたしわくちゃな手だった。何十年も苦楽を刻んできた勲章のようなその手は、飯舘の大地をも想像させられる。
その手を手もみしながらもじもじと不安げに遠くを見つめる瞳に、何が見えているのだろうか。
絶望なのか。土地を失ったことによる喪失なのか。自分自身の生きがいを奪われた憎しみなのか。
想像をも超える哀しさだろう。哀しさだけでは表現すら軽く、悲憤慷慨する感情だろう。
隣近所も引き裂かれ、老婆は見知らぬこの土地に避難させられた。
八十過ぎの老婆が見知らぬ土地へと移り住み、ましてや応急仮設住宅でのわずか4.5畳ほどのあまりに狭い部屋へ押し込まれるというのはどんな心境なのだろうか。
飯舘村にいた時は、息子夫婦、孫と暮らしていたにぎやかな家族だったという。
茶の間も十二畳でそれぞれの部屋があり、畑や田んぼもあり、広大な敷地で飯舘村の風を感じながら穏やかに暮らしていた。
今はこの陽だまりのベンチにどこか遠くを見つめながら腰かけている。

老婆はポツリポツリと私の呼びかけに答えるだけだった。

「体調お変わりありませんか?」と尋ねると老婆はこう答えた。

「こわい。」

【こわい】とは福島の方言で『疲れる』という意味だ。

わたしは「何がこわい?」と尋ねた。

「全部だ・・・。」

この全部という言葉に私は想像をした。

言葉にするだけでも疲れる感情は、心を閉ざしているほうが楽だったりもする。
簡単に言葉にしてしまうと相手を傷つけてしまうのではないか。いつもどこかビクビクしているのだろう。
そうして仮設住宅での友達作りにさえも疲れ果て、避難での環境変化の疲れ・曖昧な喪失感、望郷の想い、複雑にもつれてしまったその心とからだは、絶望や怒りを超えた感情しかないのだなと思った。
その身体の端々にそう感じたのだった。

そこで、わたしは「大変だったね。みんなこんな状況になるなんて誰一人として思わなかったと思うよ。無理しないで生きようね。」
それが精いっぱいの老婆に対しての言葉だった。
わたしは、老婆の気持ちに寄り添うように隣に座った。

すると老婆はしばらくして、心に溜まってあるものを自ら話し始めた。

「(仮設住宅の)家の中はなぁ~隣のテレビの音も会話も丸聴こえなんだ~。
んだがら、段々と爺様との会話も段々と減ってきて、ただ、ボーっと1日を過ごすことが多くなってきてて・・・。
んだがら、ほんでは駄目だど思って外さ、出てくんだげんちょも、(飯舘村に)帰りっちぇーって言うとなんだがわがんねんだげんちょも怒られんだ。
だがら、こうしてここで日向ぼっこしているしかねぇ~んだ。
こんな…わげのわがんないどころさ来て、狭いどころに押し込まれで、帰りたいって言うだけで怒られる。なんなんだべな。
原発事故さえなかったらこんな思いはしなくたっていがったのに。ごせやげっとなー。(頭にくるよな。)
まったくこんな年になってこんな思いすっとは思わねがった。早く(飯舘村に)帰りっちぇ~。
あんたはわがい(若い)から帰んねほうがいいど~放射能って言うのは危険なものなんだがら。おらみだいな年の人はいいんだ。すぐには影響ないがら~。
はぁ~あ、久々に話出来てすっきりした~。ありがどない。」

その老婆は、よっこいしょと掛け声をかけて押し車に手を当てながらお辞儀をして、自分の部屋へと戻っていった。
老婆の後姿は少しさびしげに映った。

プライバシーも守られないプレハブ型仮設住宅

プライバシーも守られないプレハブ型仮設住宅

その老婆との出会いはわたしにとって貴重な出会いとなった。

その後の私の原動力となった人物であった。
その後、この老婆は体調を崩し救急車で運ばれ、しばらく経ってから入院先の病院で亡くなったと管理人から聞いた。
原発事故がなければ心穏やかに飯舘村の土地で命を全うできたはずだった。
最期の時が住みなれない土地で、ましてや仮設住宅で知り合いも少なく、孤独な息のつまるような生活など想像だにしなかっただろう。
飯舘村の地で家族に見守られながら、最期の時を安らかな気持ちで過ごしていたと思うと、せつなさがこみ上げる。

陽だまりは、老婆にとってはひと時の癒しを求めた心の温もりだったのかもしれない。

飯舘村の景色や家のこと、孫との暮らしなどを想いを馳せながらそこに腰かけていたのだろう。これはたった一人の村民の事かもしれない。
だけど、約6200人いる村民のひとりひとりが、それぞれの不安や葛藤や思いの中、今暮らしていたり、帰ること、または日常生活が取り戻すことが出来ないままに亡くなっていった人々がいるということ。

長期化する避難によって様々な現状だが、国や政府には、ただ長期化という時間軸の中で避難解除を考えるのではなく、どんなに小さな声でも大きな声でも普通の声でも無関心な声でも、じっくりと行政側がひざを突き合わせて共に考え、これからどうするのか6200人いる村民ひとりひとりと丁寧に話をし、慎重にこれからを同じ目線で考えなければ、「未来」という形はどんな形にでも変わってしまう。

これも綺麗ごととして潰されていく声なのかもしれないけれど、今までのようなことをしていても原発災害の問題は解決しない。
新しく、そして丁寧なやり方をしないとダメだと私は考える。

陽だまりのベンチ

陽だまりのベンチ

5回目の3.11によせて 想ってたこと

日々の奮闘や悩みやおふざけの断面も伝わってくるから

その日だけが特別じゃないのになぁと思ってもいて

特有の光や影の熱量みたいなものがなだれ込んで

自分たちのことなのに別の場所で盛り上がっているような

サビだけ良いように切り取られたヒットチャートのような

それに毛羽立っている自分が情けなくも思った

それぞれの想いがあって良いって自分が言ってたのにね

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僕は国際試合を観て「日本の誇り」と胸に手を当てるタイプではないし

ライブ会場で一律の身振り手振りに身を任せる方ではないし

1人でぶらぶらと出掛けては周囲の空気感や関係性の

うねりやゆらぎを感じて物思いにふけっているような人間だ

そこに溶け込んでいるような、溶け込まないような、溶け込めないような

自分の器の中で悲しめる分だけしか悲しめないし、喜べる分だけしか喜べないし

会話の中にある“つまらないもの”“くだらないもの”の寛容性にも支えられていた

 

そういえば昨年の今頃は

追い風も向かい風も一度置かせてもらおうと思っていた

どれも大切で重みのあるものだから

簡単に捉えたり表現するものでもないと思っていた

だからせめて寝ても覚めても状況を知ろうと躍起になっていた

 

数が集まることで発生していたそれらの風や

それぞれの中にさえ生まれてしまった光と影

広まり

それまで大して語れるものなどなかったのに

体の中に行き渡らせすぎてしまったその体験を

その主語や定型文で語りすぎている罪悪感や違和感

重く語りすぎのような 軽く語りすぎのような

どちらでもない薄っぺらい感じのような

なんらかのかたちで加担もしていた

 

“どのあたりの感覚”でとらえて言えば良いのか

体は在るけれど言葉にするだけの元気がないような

言葉は在るけれど口にするだけの体がないような

頭と心と体が別の次元にいるような変な感じがしていた

 

風が渦巻く合間に置き去りにしていた等身大の“もやもや”や

様々な出来事の“喪失後”を生きる人はどんなことを想っているのか

そこではどんなかたちで表現がされているものなのか

それが辿り着いた先はなんなのか

そのままを“なんらかのかたち”で表現するには

それらの立ち位置に触れることが必要に思えた

そしていくつかの場に出向き、考え、

小さな対話の場を設けたりした1年となった

対話の場

対話の場

そう過ごす中で

“好い加減”と“いいかげん”をなくしたんだなと思った

それは地域や人間関係や自分の中にもあるものだったし

それらに守られてもいたんだなと

でもそれが許せないものにもなったから

それらを打ち消すように過ごして苦しかったんだなと

ここへきて少しだけ落ち着いて見ることができたのかな

日々の安心

向き合わなくてはいけない部分が露出したことは変わりないけれど

それらを結び付けてる“ゆるし”や“あそび”を含んだ

これからの”イイカゲン”をつくるために過ごしてもいいと思った

あとは元気ならばいい

今はそんな気持ちでいる

日々のこと

5年目の3.11 ~空も海も大地もつながっている~ 伊藤千惠

4年前の3月11日のことを克明に覚えている。
仕事場から家まで歩いて帰った。
そのとき東北の地で何がおきているか知る由もなく、夜中に幹線道路をぞろぞろと歩く東京のわたしたちは、ちょっと非日常的なうきうきとした気分でさえあった。
帰宅し、テレビをつけ尋常ならざる風景に息をのみ声を失いうちのめされた。
生活のすべてを災厄にうばわれた人々。
そして、東京で消費するための電力を作っていた東京電力福島第一原子力発電所の事故。

責任の重大さを認めない政府と東電に憤りを感じた人たちの抗議のデモへ行った。
今まで知ろうとしなかった政府の、中央省庁の、産・学界の功罪。自分の無知。
この国の経済成長の陰画のように存在する環境汚染や地方の衰退。日米関係。
いろんなものを読み漁り雑多に理解し、書き散らし、叫んだ。

以前から知っていた福島在住の知人のブログには、東京人の活動は違和感を持つとあった。
それにまたうちのめされた。理解されていると勝手に思い込んでいた。
困窮している人のことを考えるのが先じゃないか?
ネットでは多様な声はひびいてこない。

町ごと避難、という考えられない事態を体験した人たちのところへ行った。
福島県内に戻ったり、県外へ自主避難したり、ずっと住み続けたり、
さまざまな状況にいる人のことを自分の目で知りたいと思った。
取材対象としてではなく、欠落した知識を埋める情報としてではなく、
お隣に住んでいる人として、友だちとして話を聞きたいと思った。
今は、何をするべきかではなくて、自分はどうしたいかと思って生きている。

先のことはわからない。
空も海も大地もどこまでもつながっているように
隔絶するのではなく、やわらかく受け止めたいと思っている。