極私的震災レポート  熊本2017~熊本市内編  伊藤千惠

阿蘇編より続く

熊本市内は、昨年ゴールデンウィークの火が消えたような状況から一転して、商店街はすっかり活気が戻り、応急危険度判定の赤紙の貼られていた建物は修復・改修されたり、解体されて更地になっていたり。

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熊本市中央区春荘寺(2106年5月撮影)   春荘寺は、明治以前の農業のかたわら皮革処理に携わった人たちが信仰の中心として建設した春竹説教所であった。

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ゆがんだサッシ窓は取り替えられ、壁面がきれいになり前面の柱を支えていたつっかい棒もなくなった春荘寺。(2017年6月撮影)

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市民からの寄付を募る      春荘寺はかなり復旧されていたが、すぐ近くの辛崎神社はつっかい棒のままだった。日吉神社の摂社である唐崎(辛崎)神社は、肥後国では被差別地域にのみ存在が確認できるという。

が、ブルーシートがかかったまま、壊れたまま人が住んでいたり、あるいは放置されている家屋が存在していた。解体や施工業者の不足で、最近やっと修復にかかる家が多いという兄の話。復旧の見通しがたたない寺社も多くあるようだ。(西日本新聞

熊本で見たローカルュースでは、仮設住宅に住む1万9千人に対しての意向調査で約3割が住宅再建のめどがたっていないと報じていた。(2017年5月末時点での仮設住宅入居者数は約4万5千人)
県は仮設入居期間の延長を国に要望しているようだ。相談窓口を設けているが、市内で見かけたような修理しないまま住んでいる家が気かがりである。

昨年のボランティアセンターが設置されていた辛島公園からほど近い熊本城のまわりを歩く。
石垣や櫓の崩れた箇所に安全対策工を施したあと、はじめて復旧工事がはじまる。城内は入れないが外から見物する人のために、工事フェンスに復旧の様子を撮影したパネルを貼りだしてある。隣接する熊本城公園には休憩所が設けられ、ビデオや説明パネルが展示してあり、説明員も何人か常駐している。

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倒壊した五間櫓付近(2016年5月撮影)

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崩れた石垣をていねいに仕分けして安全な場所に移し、崩壊箇所にモルタルでの安全対策工が終わったところ(2017年6月撮影)

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遺跡の発掘作業のように仕分けされた石垣(2017年6月撮影)

まずお城より市民の生活復旧が最優先であることは当然のこと。パンフレットにもそううたってある。けれども、熊本の人は熊本城をわが城のように思っている。移封されてきたにもかかわらず、熊本城を築城した加藤清正が大好きである。
象徴とはこういうことを言うのだろう。

震災一年後の熊本は、阿蘇でも熊本城でも県外、海外からの観光客がかなりみられた。南阿蘇村では、阿蘇大橋や断層や地割れ箇所などを震災遺構として保存するという。(熊本日日新聞

今回行けなかった益城町や西原村、南阿蘇村の被災した家屋は、まだこれから復旧というところも多く、支援も必要であろう。

原発事故5年は節目ではない。まだまだ続いている現在進行形の事故である。  酒井 政秋

また3月11日がやってくる。

あの日、たくさんの命が津波や地震によって犠牲になった。

そして、その後の原発事故によって、避難先で多くの命が犠牲になっている。

この場を借りて深く鎮魂の意をお祈りいたします。

さて、飯舘村が原発事故によって汚染されてから5年。放射性物質を低減させる為に行われている国の除染は、除染の低減率も低く、まだまだ住民が生活する上で安全には程遠いような数値である。それでも行政と政府の動きは「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の避難指示を一方的に2017年3月まで解除する方針を示した。この方針は村民に周知する前にメディア先行で地方版の新聞1面に掲載された。いつも住民に話が来る頃にはもう決定した事柄を粛々と説明するだけの「懇談会・説明会」が行われている。本来の「懇談会・説明会」という言葉の意味とはかけ離れている事が平気で行われている。なぜ、「までい」(飯舘村の方言で「丁寧に」「心を込めて」の意味)という村のスローガンを掲げ、自主自立の村民重視でやってきた飯舘村が、国の圧力に屈し、住民を置き去りにするような事態となってしまったのか。このままではいけないという村民も少なくはない。一昨年のADR申立ての動きも一つの意思表示であった。

5年という月日は問題解決されず、誰も責任を追及されることなく、日々問題が山積していく。そして、人々は疲弊していく。本来ならば、「人々の復興」を重視するはずが、大手ゼネコンによる除染事業とハコモノばかりを建てることに重視し、当事者の思いとはかけ離れていく。仮設住宅や借り上げ住宅に住む年配者の体力はどんどん奪われ、日増しにストレスが積み重なり病気になっていく。住めば都というが、あの広大な自然の環境の下で暮らしてきた飯舘村の住民にとって仮設住宅の気狭さは何年たっても慣れるものではない。そんな避難者に対し、差別や偏見が県内でも多く目立つようになってきた。心ない声に幾度も悔しい思いをしている当事者も少なくない。なぜ、いつも弱者に冷たい言葉をぶつけるのだろうか。避難者だって好きでその土地に来たわけではない。悪いのは東電や国なのに、いつも「一部」が「すべて」になり、言われなき差別や偏見を受ける。それぞれに不満があるのは重々承知している、しかし、ただ避難者を言葉の暴力で責めることは「社会のいじめ」だと思う。正々堂々と自分の不満は国や行政に陳情、要望書を提出するとか、法的に自分の不満を解決することをして欲しい。言われた人はどんなに傷ついている事だろう。毎日楽しみにしていた散歩を奪われたり、また、誰かに何か言われるんじゃないかとビクビクしてしまったりと精神的にどんどん追い詰められていく。そうした相手を思いやる心を忘れてはいけないと思う。こうしたことを書くこともまた勇気がいる。これが「全て」になってしまわないか迷ったが、現実問題としてその差別や偏見に苦しんでいる人がいることもまた現実だ。

仮設住宅

この5年、「国は国民を守ろうとはしない。」ということを実感する。国民同士を争わせる情報や政策をどんどんとしていく。これが先進国のやり方なのだろうか。私は、疑問に思う。自分の身は自分で守るという言葉がある。自分を守れるくらいのエネルギーがある人は自分を守れるが、そうでない人たち、たくさんの不安や精神的に追い込まれている人たちは誰が守るのか。年配者同士寄り添って懸命に生きているが、これには限界があると正直思う。これから先、仮設住宅の退去命令がきたとき、それぞれが選択した移住場所や飯舘村に帰ったとき、仮設住宅のようにすぐ隣で手助けしてくれる人はもういない。そのとき、家族に負担がのしかかってこないだろうか。そして誰が孤立した年配者や生活弱者を救ってくれるのだろう。寄り添いや見守り活動の対策をきっちり考えておかなければ、問題はまたひとつ、ふたつと重なっていくだけだ。

フレコンバック

あの日、自然豊かな飯舘村での生活も、近くの山でとれた新鮮な山菜、キノコを当たり前のように食卓に彩っていた日々も、村民一丸となって行われてきた行事も全て、お金には換算できない無形な大切にしてきたものをたった1度の原発事故によって一瞬にして全て奪われた。その喪失感は一生消えないのかもしれない。それでも前を向きながら歩いていかなければいけないが、それぞれが選択した決断のなかで少しでもその失ったものを穴埋めできるような日々が続いてくれることを心から願う。

5年経過したからといってわたしたちの原発事故と避難は終わらない。これから先、何十年もかかる大きな問題にもかかわらず、情報はコントロールされ真実は届かず、政府は当事者と対話する意向も示さない。それどころか放射性物質の危険性は軽視されている。福島の問題が解決されていない中で川内原発、高浜原発が再稼働され、福島の原発事故はいったい何だったのだろうか。国は一つも福島から学んでいないのではないだろうか。ただただ踏みにじられる思いに憤るばかりだ。「原子力」というエネルギーに決して安全も安心もない。事故がひとたび起きれば一瞬で人々の人生も暮らしも環境も全て奪われていく。

もう2度と同じ悲劇を起こしてはならない。

 

震災後・原発事故後の私の原点~陽だまりのベンチにて~ 酒井 政秋

最近、以前お話をさせて頂いた村民の声を思い出す。

ひとつひとつが大切な声であった。

その中で、私自身の心の分岐点になった方の声を今回、自分が感じたこととその方のご様子から体感したことを原点に立ち返り書いてみた。

あれは2012年の4月か5月だっただろうか。

恐る恐る私はある仮設住宅を訪ねた。なぜ、恐る恐るかというと、まだまだ村民同士が本音で言い合える状況ではなかったのと、何より自分の心がようやく生命力を取り戻したときでもあったからだ。

私の目の前に、一人の老婆が陽だまりのベンチにぽつんと、どこか寂しげに腰かけていた。

わたしはその老婆の隣に座った。

その老婆の手は、ごつごつとしたしわくちゃな手だった。何十年も苦楽を刻んできた勲章のようなその手は、飯舘の大地をも想像させられる。
その手を手もみしながらもじもじと不安げに遠くを見つめる瞳に、何が見えているのだろうか。
絶望なのか。土地を失ったことによる喪失なのか。自分自身の生きがいを奪われた憎しみなのか。
想像をも超える哀しさだろう。哀しさだけでは表現すら軽く、悲憤慷慨する感情だろう。
隣近所も引き裂かれ、老婆は見知らぬこの土地に避難させられた。
八十過ぎの老婆が見知らぬ土地へと移り住み、ましてや応急仮設住宅でのわずか4.5畳ほどのあまりに狭い部屋へ押し込まれるというのはどんな心境なのだろうか。
飯舘村にいた時は、息子夫婦、孫と暮らしていたにぎやかな家族だったという。
茶の間も十二畳でそれぞれの部屋があり、畑や田んぼもあり、広大な敷地で飯舘村の風を感じながら穏やかに暮らしていた。
今はこの陽だまりのベンチにどこか遠くを見つめながら腰かけている。

老婆はポツリポツリと私の呼びかけに答えるだけだった。

「体調お変わりありませんか?」と尋ねると老婆はこう答えた。

「こわい。」

【こわい】とは福島の方言で『疲れる』という意味だ。

わたしは「何がこわい?」と尋ねた。

「全部だ・・・。」

この全部という言葉に私は想像をした。

言葉にするだけでも疲れる感情は、心を閉ざしているほうが楽だったりもする。
簡単に言葉にしてしまうと相手を傷つけてしまうのではないか。いつもどこかビクビクしているのだろう。
そうして仮設住宅での友達作りにさえも疲れ果て、避難での環境変化の疲れ・曖昧な喪失感、望郷の想い、複雑にもつれてしまったその心とからだは、絶望や怒りを超えた感情しかないのだなと思った。
その身体の端々にそう感じたのだった。

そこで、わたしは「大変だったね。みんなこんな状況になるなんて誰一人として思わなかったと思うよ。無理しないで生きようね。」
それが精いっぱいの老婆に対しての言葉だった。
わたしは、老婆の気持ちに寄り添うように隣に座った。

すると老婆はしばらくして、心に溜まってあるものを自ら話し始めた。

「(仮設住宅の)家の中はなぁ~隣のテレビの音も会話も丸聴こえなんだ~。
んだがら、段々と爺様との会話も段々と減ってきて、ただ、ボーっと1日を過ごすことが多くなってきてて・・・。
んだがら、ほんでは駄目だど思って外さ、出てくんだげんちょも、(飯舘村に)帰りっちぇーって言うとなんだがわがんねんだげんちょも怒られんだ。
だがら、こうしてここで日向ぼっこしているしかねぇ~んだ。
こんな…わげのわがんないどころさ来て、狭いどころに押し込まれで、帰りたいって言うだけで怒られる。なんなんだべな。
原発事故さえなかったらこんな思いはしなくたっていがったのに。ごせやげっとなー。(頭にくるよな。)
まったくこんな年になってこんな思いすっとは思わねがった。早く(飯舘村に)帰りっちぇ~。
あんたはわがい(若い)から帰んねほうがいいど~放射能って言うのは危険なものなんだがら。おらみだいな年の人はいいんだ。すぐには影響ないがら~。
はぁ~あ、久々に話出来てすっきりした~。ありがどない。」

その老婆は、よっこいしょと掛け声をかけて押し車に手を当てながらお辞儀をして、自分の部屋へと戻っていった。
老婆の後姿は少しさびしげに映った。

プライバシーも守られないプレハブ型仮設住宅

プライバシーも守られないプレハブ型仮設住宅

その老婆との出会いはわたしにとって貴重な出会いとなった。

その後の私の原動力となった人物であった。
その後、この老婆は体調を崩し救急車で運ばれ、しばらく経ってから入院先の病院で亡くなったと管理人から聞いた。
原発事故がなければ心穏やかに飯舘村の土地で命を全うできたはずだった。
最期の時が住みなれない土地で、ましてや仮設住宅で知り合いも少なく、孤独な息のつまるような生活など想像だにしなかっただろう。
飯舘村の地で家族に見守られながら、最期の時を安らかな気持ちで過ごしていたと思うと、せつなさがこみ上げる。

陽だまりは、老婆にとってはひと時の癒しを求めた心の温もりだったのかもしれない。

飯舘村の景色や家のこと、孫との暮らしなどを想いを馳せながらそこに腰かけていたのだろう。これはたった一人の村民の事かもしれない。
だけど、約6200人いる村民のひとりひとりが、それぞれの不安や葛藤や思いの中、今暮らしていたり、帰ること、または日常生活が取り戻すことが出来ないままに亡くなっていった人々がいるということ。

長期化する避難によって様々な現状だが、国や政府には、ただ長期化という時間軸の中で避難解除を考えるのではなく、どんなに小さな声でも大きな声でも普通の声でも無関心な声でも、じっくりと行政側がひざを突き合わせて共に考え、これからどうするのか6200人いる村民ひとりひとりと丁寧に話をし、慎重にこれからを同じ目線で考えなければ、「未来」という形はどんな形にでも変わってしまう。

これも綺麗ごととして潰されていく声なのかもしれないけれど、今までのようなことをしていても原発災害の問題は解決しない。
新しく、そして丁寧なやり方をしないとダメだと私は考える。

陽だまりのベンチ

陽だまりのベンチ