乱読日記*その八  「フィクションの表土をさらって:玉城入野」    伊藤千惠

玉城さんフィクションの表土をさらって  玉城入野著 洪水企画2018.11.25発行

「うた新聞」という短歌月刊誌を発行されている玉城入野さんのはじめての著作。
2010年から2017年までのあいだに発表された文章から14遍を選んである。
映画作品論の第Ⅰ部、島尾敏雄と島尾の故郷、福島県小高についての第Ⅱ部、そして玉城さんの父上である歌人、玉城徹についての第Ⅲ部という構成からなる。

北野武作品や深作欣二への鋭い評論もさることながら、「トラック野郎」という超娯楽映画への考察が、島尾敏雄のふるさと小高に対しての想いと“故郷論”としてリンクしていくことにいたく興味をそそられる。
あまりここではつまびらかにできないけれど、ハイマートロス=故郷喪失ということばをこの本ではじめて知った。ただちに原発避難者のことが思いうかぶ。
もちろん、そのことも著者自身に関わることとしてとらえられている。

それから私がはっとしたのは、
「夢想とは、意識的に見えないものを見ようとする意志なのです。その意思こそが現実という物語の奥に隠された、真の事実を見抜くのです。」
という一節。(「ドン・キホーテをきどったパスカル・オジェは「現実なんて恐怖政治と同じ」と断言するのです。」より)
夢想ということばは虚構、フィクション、幻想といいかえてもいいかもしれない。
――見えないものを見ようとする意志――
これはとても重要なことなんじゃないか?と私はおもう。
原発事故以後、「とりあえず最新の情報を収集して、その中から一片の真実を掘り当てようと多くの日本人が躍起になっている状況」に、なんとなく薄ら寒くまずしい感じを覚える。私もそんな状況ではあるのだが。
もちろん、見えないものの裏側に必ず絶対的な真実があるわけではない。
けれども、フィクションを絵空事としてただの幻のようなものとして扱う態度は、ものごとの核心に近づくこともできないと思うのである。
巷のメディアが提供する感動、あるいは悲憤慷慨実話にからめとられないためにも。

私的な感想ばかりになってしまったが、どの章も玉城さんの豊かな文学性と誠実さが感じられ読みごたえがある。ぜひ一読を。

書の海を漂う~乱読日記*その二  うた新聞 九月号   伊藤千惠

IMG_2481「うた新聞」九月号  いりの舎 2015.9.10発行

うた新聞は短歌総合誌である。毎月、タブロイド判の新聞が送られてくる。
時節にあった特集を組み、私のような素人にも短歌に親しめる内容になっている。

はっとしたのは、巻頭評論の『小野茂樹の時代「幼形成熟」としての口語』 山田航(かばん)
(注:カッコ内のかばんは短歌結社の名前) のなかの一文。

― 戦後の日本は、高度経済成長期までは「若い国」だった。実際に国民の大半が三十代未満だったのだ。「未熟な言葉」をロールモデルとする実験は、成熟に価値を見出さない価値観の誕生を反映していた。 ―

これは小野茂樹という33歳(1936-1970)で夭折した歌人について、戦後の文語から口語短歌へと推移していく運動の経緯を論じたものである。彼のもつ口語精神を「幼形成熟」というワードで語られていることを興味深く感じた。
短歌というひとつの文芸スタイルにとどまらず、『「幼さ」をはらんだ言葉が戦後日本の「リアルな言葉」として受け入れられた』ときから、さらに高度成長期を経て、「成熟に価値を見出さない価値観」は、ひらたく日本人全般の身についてしまったかのように思える。
むろん、山田航氏いうところの「成熟」は内的なものを指しているのではなく、私が勝手に社会現象として敷衍しているのではあるが。
成熟とは逆ベクトルの、客観的合理的批判精神をどこかに置き忘れたきたかのような昨今の大人たちは、幼形成熟という芸術的昇華地点には無縁なまま、ただ生産性をあげるマシーンたることに血道をあげているように私には見える。
短歌の様式の話とはずいぶん逸脱した。