国民学校の少女の記憶(外伝) 高田 緑


(1)よりつづく)

少女には、明治33年生まれの伯母がいた。
父親とは6歳違いの、明治、大正、昭和を生き抜き、土佐の血を受け継いだ伯母だった。(中島家は、廃藩置県の後に土佐から郡山市喜久田町に移り住んだ歴史がある。)
井上家に嫁いだ伯母の井上 光(こう)は、昭和63年の88歳のお祝いに、長年に渡りしたためていた句や日記を自費出版した。

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『草の露』である。 この世には出なかった本であったが、折りにつけ、少女の娘である私は読んでいる。
先の戦争に息子を送り出した光さんの言葉は重く、力強さを感じる。
次男は昭和18年の“雨の神宮外苑“で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかったという。「行ってきます」とは言わずに、「行きます」と一言残し家を後にした。
長男は昭和19年5月に海軍少尉に任官し、海南島での任務を命ぜられ決死隊を組織したが、不本意ながらも生きて帰国した。「生き恥さらして帰ってきてしまいました。」、と玄関先で自決しようとしたという。 長男はその後、神風特攻隊についての随筆集を残しているが、「人間の出来る最後のもの、それは自ら撰ぶ死であるのだ。」、と最後に記してあるのを読む度に心が痛む。

戦争により、親より先に子に旅立たれ、離婚と再婚、そして夫の死。そしてまた娘に先立たれ、波瀾万丈 の人生を歩んだ少女の伯母は、100歳を過ぎるまで生き、少女にどんな世でも強く、プライドを持って生きる事を身を持って教えたという。

『草の露』の中の、戦後40年に当たり、光さんが85歳の時に書いた文が心に沁みる。

力強く生きるからこそ人間です

すっかり世の中が変わりました。
私は明治中期に生まれ、明治、大正、昭和と長い人生がいつの間にか過ぎたと思っております。
私どもが若い頃は、世の中の人はもっと親切で、誠実であり、国を大切に、神を敬い、親には孝行し子供には大切に、そして礼儀正しく厳しく育てたものです。
この寒い時期に、白鳥は一家眷属大勢で仲良くシベリアから日本の湖水に来ます。
晩秋には、北方から雁がきれいに列を組んで渡来します。
鳥でさえこんなに仲よく助け合って生きているのに、万物の霊長であるはずの人間が、どうして些細な事で殺し合いをしたり、子供を道連れに一家心中したり、子供が父母を殺したりするのでしょう。
人生、色々な一生があります。
悲しき事、苦しき事、耐え難い事、これを乗り切る事が人の道ではないか、と私はいつも心の中で思いながら生きて来ました。
生きる事は辛い事のみ多いものではありません。
楽しい事の方が、きっと多いのです。
明るく希望を持って生きる事です。
・・・・・・・・・
日本人と言う事に誇りを持つ事、どんな時でも自分に誇りを持つ事です。
苦しさも悲しさも乗り越えて、力強く生きるからこそ人間です。
悲しさに潰されそうになった時も、じっと我慢して、少しでもよい方に向かう事を考えて生きて行こうと思います。
(『草の露』井上 光著より抜粋 )


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高田緑

高田緑 について

Takada Midori /福島県郡山市出身。福島県立郡山女子高校卒業後、グラフィクデザイナーを夢見て美大を目指すが挫折。20歳から50歳前半まで、東京で広告制作会社と出版会社、マーケティング調査会社に勤務。現在は、都内のマルシェの広告宣伝と販売をしている。 好きな作家 : 遠藤周作、宮本 輝。尊敬する作家 : ヘルマン・ヘッセ。好きな画家 : エドゥアール・マネ。尊敬する画家 : パブロ・ピカソ。I was born at Koriyama shi in Fukushima, I gave up to enter an art university to be a graphic designer, and graduated from Koriyama Joshi high school. I had worked at an advertising agency and a publishing company for the time of life between 20 and 30. Now I help to sell products of organic cotton, which farmers grow in Nihonmatsu shi in Fukushima. I like novelists, "Endo Shusaku" and "Miyamoto Teru." I respect, Hermann Hesse, Édouard Manet, and Pablo Picasso.