いつか幽霊に成るとき with Right to be forgotten 吉田邦吉


いつか自分が死んだ場合に備えて、SNSのアカウントをどう扱っておけばよいのか。

ネットで自分が出してきたSNSの情報というものは、自分で消すか非公開にするか、誰かが代わりにそれをおこなってくれるか等しない限り、消えることなく、何年も残ってしまう可能性がある。

(※コンピュータという機械の仕組み上、おそらく絶対に消えないのは間違いないと思うが、自己の支配下に置けるプライバシーなどの情報として、一般的にアクセス可能な状況の如何、という意味あいである)

とにかく、死後ということを考えさせられる。

いつか自分も、終わりを迎えるにあたり、自分という人間の生それ自身の全体性と連続性という現実は、途絶える。別の方向で地球内部に存続するとも言えるが。

それでも、自分が世の中に出してきた「言葉」とか「ネット上におけるイメージ」などと言った仮想空間における情報は、基本的には消えることがない。

つまり、現実が終わっても、仮想現実で自分のイメージが生き続けていくということになる。喜ばしいと思う人も居るだろうが、逆に言い換えれば、安らかに眠れないと考える人もあり得る。

かつて記録者や表現者でない人たちの無数の死は、その日常的な情報もほとんど消えていくことを意味していただろう。しかしSNS普及に伴い、かなり多くの人達が自覚なく、表現者などに近い段階でこの問題に接近してきたのである。メリットも多いが、今この話題にテーマを絞る。

死は2元化された。現実の死と仮想現実の死である。現実の死を迎えても、仮想現実の死を迎えるかどうかは、選べるのである。死なないこともできるようになった。物質としての死と、情報としての半永続性だ。

もしSNSというものが終焉を迎えて居なければ、そのうち、10代前のご先祖様のSNS情報が30年分あり、なおかつ公開されたままであるなどといったことも起きえるのかもしれない。後の世代の家族はその公開非公開を選ぶ権利などは、どう相続されるのだろうか。

いずれにせよ自分で選んでおかねば、死に際し、おそらく家族などの誰かが内容から判断して一定期間などを経て、判断するのだろう。家族が目をそむけたくなるような内容は消されるかもしれない。いわゆる生前におけるネット終活という行為の、死後版である。

前に知人が亡くなったとき、fbフレンドたちがお悔やみの言葉を書き連ねていて、SNS葬儀が行われたといった様相だった。SNSで出会い、SNSのイメージのまま、SNSで終わりも迎える。

また別の知人の知人のアカウントは、亡くなって数年が経っても命日として思い出されていた。そのアカウントがあるのかないのかは、確認していない。いずれにせよ命日的な考えや「追悼アカウント(memorialized accounts)」という考え方もあるにはある。

リスクについてはいろいろと考えられると思うが「人工知能(AI)の登場で、サイトを放置するリスクが利用者にとっても運営側にとっても高まっている」「たとえば、亡くなった親のブログの内容から、そこで今も暮らしている娘の住所を瞬時に割り出したりとか。」(引用 参考3より)

さも「仮想生前葬」というものを新たにこしらえでもするかのように、SNSやネットにおける自分に関する情報を、ネット終活つまり整理整頓するのを、一体いつにするのか、という課題も挙げられる。むろん「死」という深刻な状況でなくとも、仮想現実における引退という意味で「仮想引退」も可能だろう。仮想世界からの引退宣言もあり得る。

ネットという場所にてブラウジングしている日々に思うのは、ネットという場所を人々はどう考え、思い、用いているのか、また、ネットという場所における他者をどう考え、そして、ネットユーザーからすればもうひとつの他者である「ネットの死者(または情報のみ永続=幽霊の如く)に自分が成る又は成ることを拒否して旅立とうとするとき」、という最後の段階をどう越えていくのか、それぞれに問われているということだ。

最後になるが、「容易に自分にはどうにもできない状況で傷口に塩を塗られるようなことが多い」と言えば、福島のことだろう。福島を落とすだけのジャーナリズムまたは評論家気取りは嫌いだ。怒りも悲しみも含め、なるべく暖かい話の仕方や表現を期待したい。現場に居ないのに何でも知った気にならないでほしい。何もかもダメだなどとこちらは思ってない。

自分事として考えるというのは、福島だけの問題でないと言いながら同時に当事者性の暴力をばらまくことではない。良かれと思って間違いつつも試みとして、今回の話題のようなレベルで福島を考えようとしてくれる、ということである。半減期で下がってきた線量を全く認めたくない気持ちもあろうが、他者に残酷を強いては成らない。福島にもあなたの家族と同じ命が、生きているのだから。

To be or not to be.
After the end, that is the question.
生きるべきか、死ぬべきか。
終わりの後も、問題だ。

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会津城の彼岸花 20170923 撮影:吉田邦吉

参考

1、『死んだら、私のFacebookってどうなるの?「追悼アカウント」があるらしい』ハフィントンポスト(南麻理江氏)20170821

2、08/21/2017 困難な問題(Hard Questions):オンライン上のアイデンティティは人の死後どうあるべきか Facebook  (English)

3、あなたが死んだらブログやSNSはどうなる? 「故人サイト」の専門家に聞いてみた。 古田雄介さんは語る「ネットは生者のためのシステム」 ハフィントンポスト(安藤健二氏)201803133

4、「忘れられる権利」コトバンク


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吉田 邦吉

吉田 邦吉 について

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / 1981年1月大熊町生まれの原発避難者。中大法卒、2000年より塾長。2013年4月、赤坂憲雄の活動のもと文の道へ、2014年9月22日に卒業同日、「WELTGEIST FUKUSHIMA」で独立し出版事業を開始。エッセイで致知出版大坪社長特別賞。2017年度にアメリカ横断距離5000kmを歩き、1500kmの時点で20kg痩せ、2017年にアルコール、2018年にパイプを止める。会津民俗学研究会員。書籍編集長。雑誌共同執筆。文化庁支援事業や福島県立博物館や横浜美術館ヨコハマトリエンナーレ(オラファー・エリアソン作品)などで講師やトーク等々。私設図書館「ふくしま本の森」にて活動等。新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、多数回のメディア出演を経験する。NHK BS1 スペシャルNHK world premium「福島タイムラプス」(出演)は全日本テレビ番組製作社連盟ATP賞テレビグランプリ優秀賞、ニューヨークでも受賞。2019年から日々20kmのジョギング開始。哲学、民俗学、憲法学、宗教学など、そして20言語の学習も続けている。facebook / website / Amazon▼ Essayist. Private school. Nuclear evacuee 2011-. Independent publisher. Majored in law, Chuo Uni. A special essay prize on a first-class magazine 2015. Lectures and Talks at Fukushima prefectural Museum, Yokohama Municipalcity Museum of Art as Yokohama Toriennale 2017 with works by Olafur Eliasson etc. Like learning languages, Folklore, etc. So many Appearances of Newspapers, Radio, TV, Internet, and NHK BS1 SPECIAL and NHK world premium (Fukushima TImelapse, ATP award TV grand prix, outstanding performance award 2018 in Japan. Also, in New York it received an award). Jog 20 km and study 20 languages everyday since 2019.