原発事故後の誤ったデマ論をスマートにしよう。 吉田邦吉


いつもよりもスマートしっかりに話しますからしっかりに聞いていただけますか。タレントのくわばたりえさんが2017年3月8日のNHKアサイチにて「(福島県産につき)みんな買ってないから、私も」という報道があったようです。

これについて、人の消費基準が「安全なのに安心までいかない」という分析はネットで一定の決まった人達により毎晩のように流布している話であり、建前としては一見もっとものように思えますが、本質的とは言えず、決して論理的でないと考えます。

なぜなら、まず放射能の議論が開かれていないのであれば、都合の悪いことを隠しているのではないかという疑念が生じて当たり前なので、「安全なのに不安」という「消費者のせい問題」にすり替えようとしている、または、すり替えてしまって満足している、というように見えるのです。原発事故は安全神話から生まれたのですからね。

ある場合に大勢が買ってないからつい手が遠のいたことがあるというようにくわばたさんは言っています。ということは、おそらく「絶対に食べない」とは言っていません。福島産は実際どこにでも流通していますから、選ばないというのは、他に自分が気に入っているものがあり、そこで「福島産」のことを考えると気が重いという話ではないでしょうか。私は県内その他でそういう話を耳にします。

なぜ福島産は気が重くなるか考えたことがありますか。

そこに対して、わざわざ重ねて「安全だ」「こうでこうで、こういうデマが悪で、反原発が悪で、生産者はデマに苦しんでいる」ということを押し付けたらどうなりますでしょう。正直言って、いかにも「被害を利用した御用」的な、厄介な感じのする福島だろうと思います。そういうことがネットで差別だ云々と連呼されるから心理的に圧力がかかるのであり、イデオロギーみたいで厄介だと人々は感じているのです。

福島と聞けば何だか怪しい御用話を押し付けられるだけの、何か言えば風評被害だと叫ばれて正しい知見とやらで安全神話のお説教が始まるとしたら、こんなに関わりたくない疎ましいことはありません。原発に無関心であったことを県民は反省してないと誤解されかねません。選ばないということを言って良いんです。自由に言って良いんです。言えない空気を作ったら終わりです。選ばれません。

ですから、「食べない」という選択を保証しないと「食べる」という選択はあり得ません。今の開かれていない議論につき、都合の悪い話に蓋をして本当に安心できますでしょうか。無駄に敵を作ってはダメなのです。もっと検査方法について、オープンな議論を集約でき、議会や行政に提出・蓄積していき、ことを改善成長していく、透明で、建設的なシステムが必要でしょう。厳しい視点をもった人達がそう感じられるようできていますか。

「デマ≒反原発」は物事を混同している。

ふくしまの場合、
1、デマ……誤った情報と原発事故による営業損害
2、反原発……国家政策として廃炉や再生エネへの転換

この二つは論理的に本質的な因果関係が、ありません(むしろこんなに回復が困難な実害があれば原発はもうやめようとなるほうが自然な関係だと思いますが、とりあえずさておき)。

例えば、人を殴ってイジメた人が、殴った行為を罰せられるだけでなく、人に優しくしようという宗教をも罰せられるとしたら論理的誤りではありませんか。むろん、目の前で桃を吐き捨てられたりしたらそれは憤怒して人間自然ですし、私も悲しみの気持ちでいっぱいです。なので、いま無理にこれを認めたくなければ認めなくても良いんです。あなたの自由です。でも、その無礼な行いとこのことは、絶対イコールにはできないことなのです。

さらに例えば、福島産の食べ物を売り子の前で吐き捨てる人が原発推進だったらあなたはちゃんと「デマは原発推進が悪いんだ」と大声で連呼していけますか。していないとしたら、あなたのその主張は、論理的に誤りです。どのみち原発推進と生産物の選択は関係のないことでありますが、とにかく、因果関係を考える場合はいろんなことを考えねばならないのです。

現在、原発事故があることを「原因」とし、営業や汚染や多様なことについての「実害」がありますからそれを「結果」とし、この「因果関係」によって、東電は生産者に賠償を支払っています。非常に大勢の福島の生産者もこの因果関係を認めています。拙編「フクシマ発(現代書館)」にも書きましたが、ネットの誰も見てないことが「主たる原因」でしょうか?こちらを見てください。ことの因果関係の実際はこちらです。

責任をとるのは政府東電です。
むろん
(不足が問題ですが)
責任をとってきたのも政府東電です。
デマじゃないんです。

安易な巷のデマ論に正義感で乗らず、冷静に議論しましょう。わたしは議論に負けること、説得されることを、人格的に劣ったこととは考えないタイプです。自分を説得するほどの話をわたしは尊重し、その優秀さを自らの知識にしていきますし、どんな言論も「もし本当に開かれている議論の場」では、「それがあることを尊重する」こともできます。敵味方の二項対立は大人なら卒業せねばなりません。たとえば反原発のジャーナリストが被災者とともに苦心惨憺で互いの合意で頑張っていることも被災を悪用でしょうか。

それなのに「反原発派が悪いんだ。被害を搾取している。反原発派の正義がゆがんでいる」などとやっていけば、放射能汚染という大問題の本質から目をそらさせ、誰かを敵にすれば解決するような犠牲(スケープゴート)を作りだした単なる点数稼ぎの御用運動と言われても防げません。そういう風に考えたいことも否定しませんが、立場的な居場所的な、たとえばライターの人がいるようなこともありえるかもしれません。よくよく見てみると、そういう人達の実際は脱原発と言っていてもそんなことを自分で行動する気はさらさらなく、原発推進にも等しいような雰囲気も認められるのはまた不思議な話です。

そもそも福島県は積極的にデマ狩あら探しなどしていません。福島はそんな全体主義に染まって非国民探しをするようなことをしていません。「現在、こういう現状です。自分たちは安全基準の範囲内だと国からお墨付きを得ている範囲の農産物だけを出荷し、また、出荷できていないものもこれこれです」というのが現状です。ここには様々な議論があって当然であり、改善されていくべきものと考えます。

それを、国家の政策として原発に反対することと、放射能の議論と、どう論理的に関係しているか、きちんと説明できないような方向で混同しては、「彼らは御用的に点数稼ぎたいからああいうこと(一部のことを全部のように言う論理的デマの宣伝)をやっているんだ、被害を利用して目立ちたいからこそ、逆に反原発にそれをレッテル貼りしている」と思われても不思議ではないと思います。

むろん一部には誤った理解をしている人達もいるでしょう。でも、それを言ったら終わりがなく、一部を全部に適用させる論理的過誤をおかしやすく、いつまでもズレていく水掛け論なのではないでしょうか。「一部の何々が悪い」というのはどこにでもあることで、放射能の件で見ていると主に人としてのエチケット、その人の議論の前提としてのマナーの問題であり、反原発とソレは論理的な関係が見受けられないのです。それどころか私の周囲にいる反原発の運動をしている人達は福島の生産物をいろいろ思うことがあってもこころよく食べ、福島を愛し、心配してくれてもいます(無理に食べてるわけでもありません)。これは、敵ですか?どうして「デマ=反原発が悪」という偏った言い方ばかりするのか説得的に説明できますか?

大事なことは責任の所在です。もし「安全だ」ということにされている生産物について、なんらかの事故が生じたら、それは誰が責任をとってくれるかが、いまいち不明確なのです。たとえば原発事故後に言われている健康被害の件を思い出してください。多くの人達が困っているように思われますが、その直接的因果関係は不明、立証不能、という統計の話しか出ていないのです。つまり、安全だと言いながら何かあっても誰も責任とりませんなのです。そんな話ありますか。正直言って、安心できますか。因果関係が証明できない現状ならば、超法規的な保護救済策も必要でしょう。

デマって、流言飛語のことだと思います。

私は日本を歩いていてまずそんなデマに遭遇しません。ごくまれにいろいろな考えがありますが、それらは「都合の悪い考えや説を議論の場に入れない、という開かれてない議論のなかで起きていること」です。議論が開かれていなければ、「これが通説、あれが大勢の仮説」という「押し付け的なお説教」はいくらでもできますから、それこそ閉鎖的な安全神話の流言飛語が「デマと大差ない」という雰囲気になりませんか。

1、押し付け安全 (安全神話)
2、押し付け危険 (デマ)
これら二極化は無理の程度が等しいのです。

私が遭遇するのはデマではなく、くわばたりえさんのような消費選択であります。現代日本の消費行動は、自然栽培や有機農法やなるべくナチュラルなものが好まれ、かなり厳しい目をもった消費者が増えています。「不安な議論の場」で「安心」が、自然に生まれますか。人の気持ちを誰が無理に止められるのでしょうか。「無理しないほうが良いよ、それで良いんだよ」と言ってあげることから、まずやさしさ、人として安心の第一歩です。

最後になりますが、問題の本質はデマではありません。デマは傍論にすぎません。やりすぎれば「デマ=重い福島」という感じになってしまうでしょう。私にとってそれは不本意です。重大なことは、原発事故による実害なのです。復興とは、実害=被災を回復してこそ、復興への基礎ができるというものです。福島の生産物が選ばれない現状を回復する有効な対策は、開かれた議論の場を作り、責任の所在を明確にし、安全安心を改良していくよう建設的なことをし、敵を作らず、福島の味方を増やしていくことに、なります。

が、現在の緊急的な実害状況をまず何とかしなければなりません。
その場合には以下のことが必要です。

福島の生産者が他県と同じようにビジネスできていない不公平な状況があります。原発事故が起きて汚染がひどい状況です。たとえば、ある生産者は2ベクレル未満、ある生産者は30ベクレル、ある生産者はノーコメントと言ったような階層格差の被害のもとに置かせられ、みな同じような苦労を美談にして売れ売れとけしかけられても、大変難しいと思います。

NDの生産者だけ応援では足りないのです。
抜本的な保護も求めませんか。

福島ではまばらな汚染のほかに精神的な損害と計測の苦労が上澄みされている状況であり、共感してくれる人には良いですが何も知らない他人のために「前向きな売れる理由」にはなりません。逆なのです。売れない理由にしかなれないのです。ましてや他県の人達も生産には同じような苦労をします。比べられたら負けやすいのです。すごく不利です。一つの都道府県の生産物を選べば四十六の選ばれない生産物があります。その四十六に福島は入りやすいのではないでしょうか。

これら不公平な階層を、穴埋めするような、まず被災者が安心できる下駄を履かせるような保護救済策が福島のあらゆる生産者、生活者、双方に保障されることであり、ひいては福島県内外の自主避難者にもこころよく過ごしてもらえるよう同様にあることが、大変必要であります。こういったこと、つまり本物の復興のことですが、時間が経てば経つほど被災は隠れ、風化してボランティアも減り、いろんな関心や感覚として潜伏していきますので更に深刻であり、必要性が増していくのです。

特権ではないのです。回復的保護です。
みなと同じように普通に笑って過ごしたいのです。

そうした手厚い安心が包括的な安心を醸成するでしょう。


カテゴリー: エッセイ, メモ   作成者: 吉田 邦吉 パーマリンク
吉田 邦吉

吉田 邦吉 について

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / 1981年1月大熊町生まれの原発避難者。中大法卒、2000年より塾長。2013年4月、赤坂憲雄の活動のもと文の道へ、2014年9月22日に卒業同日、「WELTGEIST FUKUSHIMA」で独立し出版事業を開始。エッセイで致知出版大坪社長特別賞。会津民俗学研究会員、書籍編集長、雑誌共同執筆、講演、対談、私設図書館「ふくしま本の森」での読書普及などを行っている。facebook / website / Amazon▼ Essayist. Nuclear evacuee. Independent publisher. Majored in law. Private school. Essay prize. Speeches and Talks at prefectual Museums etc. Like learning languages.