【特集 熊本地震:1】私にできること。それは伝えること。  酒井政秋


熊本地震が起きてからずっと自分に何ができるのだろうと考えていた。
そして、今回、ニュースや新聞紙面で見るよりも、自分の目で視てこようと思った。
6月23日、熊本の友人の繋がりで、西原村へと向かった。
西原村ではボランティアセンターで活動している青年に村の状況を案内していただいた。

西原村は熊本市から東へ約20km、熊本都市圏と阿蘇カルデラ(南郷谷)の間にある。阿蘇外輪山の西麓に位置し、原野と森林が多い緑豊かな村で特産はカライモ(さつまいも)などである。
そこに2016年4月14日21時26分の前震(震源の深さ11km、マグニチュード6.5)と4月16日1時25分の本震(震源の深さ12km、マグニチュード7.3)と2度にわたる大きな地震に見舞われた。

まず、最初に案内していただいたところは、5月いっぱいまでテント生活をしていた避難場所だった。そこは元々芝生畑で、畑を避難所として使っていた。今はそれぞれの家の庭にテントを張って生活しているという。
青年は、その場所に応援メッセージボードと一輪の花を被災者やボランティアで来た人たちと植える「ガレキと一輪の花プロジェクトFlower for Nishihara」という活動をしている。この活動を始めるきっかけは、「何か残しておきたい。花は日々成長するので、この花を見て時間の経過や前に進んでいるっていう事を感じてもらいたい、そして、メディアからも注目されなくなってきているので、注目してもらえるようにという事もある。ボランティアの方々が、この地に花を植えたことで、その経過を見にまた、西原村を訪れて、今度は観光で来ていただけたらな。」と語ってくれた。

このプロジェクトのホームページにはこんなメッセージが書かれている。
「どうやったら西原村は復興したと言えるのだろうか。仮設住宅が必要なくなった時か、西原村の人口や経済が元の数値に戻ったときか。何度話会っても答えは出なかった。けれども、そのときはみんなが笑顔になっているはずだ。そのために僕らに何ができるのだろう。計り知れない課題に途方に暮れそうになった。壁の高さを量るのはやめた。逃げ出しそうな足で、小さくともいい、一歩を踏み出すことにした。その一歩として花を植えることにした。一輪の花を。それで、誰かひとりでも笑顔になればいい。きっとそれが復興だ。」
その思いを胸に毎日、花を植え続けている。

避難所跡地に花を植えてる

避難所跡地に花を植えてる

わたしもささやかながらメッセージとお花を植えてきた。

避難所だった芝生畑の前に植えた花とメッセージボードその後、西原村の倒壊した家の木材や使えなくなった生活物の一時仮置きになっている村民グラウンドへ案内していただいた。そこは元々、村民が毎年夏まつりをしていた場所だった。
山のように積まれたがれきで住民の思い出のグラウンドがいっぱいになっていた。地区の思い出の場所の変わり果てた姿は、村民にとってどれほど心が痛い事だろうと思う。一日でも早く、そのがれきが片づき、また、夏祭りをこの場所で開催できる日が来ればいいと心から思う。

村民グラウンドのがれきの山

村民グラウンドのがれきの山

そして、被害が大きい布田地区に向かった。そこの光景はまるで色のないモノクロの世界だった。わたしは思わず息をのんだ。道路は壊れ、その両脇には傷ついている家々が並んでいた。この地区の家はほぼ全壊扱いの家がほとんどで、避難指示が出ており、ここでの生活再建は厳しい状況で村は地区の集団移転を検討している。

西原村布田地区の被害の様子

西原村布田地区の被害の様子

西原村では、中学校の体育館や福祉施設にまだ多くの避難者が生活をしている。外には仮設の簡易風呂もあった。避難所にはエアコンも設置してあり、間仕切りもしてある。震災当初は水が使えなかったので、プールの水を使っていたこともあったそうだ。そして、体育館をまだ避難所として使っているため、バレー部の生徒が外で練習をしていた。そこには笑顔があった。その笑顔をみて少しホッとした。
そして車は山間部に向かった。
今季の梅雨前線の影響で、地震で地盤が緩んでいるところに大量の大雨が村を襲った。山が崩れ落ち、田植えしたばかりの田んぼに、土砂が入り込んでいた。地震での被害で相当心身ともに疲弊している状況でのこの土砂災害は相当堪えたはずだ。

倒壊した家並みと遠く山崩れ

倒壊した家並みと遠くの山崩れ

今、西原村はプレハブ型仮設住宅と長期避難用の木造住宅の建設が急ピッチで進んでいる。
本格的な台風シーズンを迎える前までに、仮設住宅の入居が急がれるところだ。

最後に、案内してくれた青年はこう言った。
「今回の地震は甚大だったので、元の状態にはもう戻らないと思う。時間はかかると思うが、これからは新しく魅力のある西原村を作りたい。震災前までは「村」という事もあってあまり外向きではなかったような気がしている。実際外部との摩擦もあったりしたので、来たい、行ってみたいと思う西原村を作り、もっともっと地元民と外から来る人との交流を増やしながら、開かれた西原村にしなければならないと思っている、それが本当の意味で西原村の復興になるのではないかと思う。」と。

西原村の豊かな自然の風景

西原村の豊かな自然の風景

地震による被害と、集中豪雨による被害での心労は、被災された方も支援されている方も計り知れないと思う。
今、私にできることは現地を見て、それを“伝えること”だと思った。

しかし、これが西原村の全てではなく、私が見聞きしてきたものに過ぎないが、メディアでは伝えられることが少なくなってきた今、なおさら、熊本に目を向ける必要があるのではないだろうか。熊本とひとくくりに言っても、被害がさほどひどくないところと壊滅的なところとで様々な問題が浮かび上がってきている。震災前までの見ないようにして来た地域の問題や地震の被害のグラデーションによる問題など、現地の人に聞けば聞くほど、問題は地震の被害だけではないことにも気づかされた。

西原村は熊本地震で初めて認識した場所だったが、またいつか訪れてこの目でどんな魅力のある西原村に変わっていったのか遊びに行きたい。

そして今回ご多忙中の中、ご案内していただいたボランティアセンターの青年と友人に感謝の意を表したい。

これ以上被害が拡大しないことを祈りたい。被災された皆様も心が疲れたら休息しつつ、自分の歩幅で確かな1歩を歩いていって欲しいと切に願う。


カテゴリー: メモ, レポート   タグ: , , , , , , , , ,   作成者: 酒井政秋   この投稿のパーマリンク
酒井政秋

酒井政秋 について

Sakai Masaaki / 1978/02/07生まれ、飯舘村で高校までを育ち東京に上京するも肌に合わず南相馬で婦人服製造業の主任を経験し、長男と言う事もあり飯舘村に戻り友人が経営する婦人服製造工場に勤めました。これから村とどう会社として個人としていくかを模索している最中、2011/3/11、東日本大震災が起こりました。夢は破れ、飯舘村での人生は砕かれました。現在、通信制大学在学中。原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団事務局庶務 / Facebook / Website / Twitter / I was born at Iitate-mura in Soma-gun in Fukushima prefecture. I had lived there for 18 years and lived in Tokyo, but I didn't have the feeling for Tokyo's life in my body and then coming back to hometown, I had manufactured women’s clothing at Minamisoma-shi, however, I'm first son, so did it at Iitate-mura as a chief. Thinking about how to activate my village or company, it happened the Great East Japan Earthquake to us on the 11th of March, 2011. I act for the rebuilding of our lives as a general clerk of a group, which is called, "Iitatesonminkyuusaimoushitatedan (a group to save people of Iitate village and denounce TEPCO for nuclear accident's damage.) and as a chairman of a group, which is called, "Kasukadarinokai (A group, 'Let's talk sincerely' )."