将来の福島を考える。吉田邦吉

だれもが知るとおり、福島と原発是非の関係性は複雑だ。

 1、両極性
 それで生きてきた面もありながら、それで被災したという面もある。だから、「ア、安全神話」に腹が立っていても、「イ、どこまでが安全の範囲内か」ということには被災の回復つまり復旧や復興のために必須なのである。

 ア、安全神話
 とくに原発運営についての安全神話について考えていくべきである。安全神話というものを原発推進のために使えばどういう組織的な失敗が待っているか。この考察こそが実は原発を推進しようと反対しようと重要なのである。すなわち民主主義、組織論、不確実性などの問題である。

 イ、低線量の安全性の周知法
 これが原子力災害を被っている地域の復興には何より肝心である。ただし周知は大事だが、その方法はもっと重要なのである。たとえば、いきなり100ミリという数字だけを最初に出しては大バッシングを食らうだろう。放射能について人は不安があって自然であり、原発の是非だって誰もが考えはある。

 イのA、不安感や怒りなどを否定しない
 低い線量でも浴びたくないという人の気持ちを否定するのは間違いである。考えや気持ちは自由なのであるから、心配すること自由なのである。もし2人以上なら、他者の話が終わったら次は自分の番、という順番で話を行えば良い。ひとが権力と闘うのも闘わないのも自由。

 イのB、非政治的にシンプルな提示
 そもそも、「低線量」関係における分析データのほうでは明確な増加が見当たらないという話があるだけなのであるから、それを提示し続ければ良いのである。それをもって、原発の賛成とか反対とかのために他者を論難しすぎないことが大切だ。あまりのものは禍根を残す。

 ウ、県外の脱原発
 福島県内での原発は第一はむろん、第二も廃炉になるので争いがない。県外においては賛成派と反対派が分かれている。そして特に、県外の脱原発派というのは福島の被災つまり低線量について何の理解もなく非情または感情的のみに政争利用なのかということを考える人も居るかもしれない。

 ウのA、理解ある人々
 理解ある人々は、そもそも原発の是非に関わらないで、低線量に関して政府が採用したデータや知識の意味を共に学ぼうと理解してくれるだろう。そうであれば、福島の被災は国内にくわえ世界へ向けて回復していくことが出来る。分断も融和していくだろう。脱原発派で理解ある人達は沢山いると思う。

 ウのB、理解ない人々
 理解ない人々は、そもそも原発の是非に関わらないで、低線量に関して政府がどうこうしてきたこと自体を理解「したくない」のであって、理解力のない冷酷無情な人々ではない。そういう人達は、国政関係のことを今は信頼したくないが、福島の人々が続けている努力については評価してくれるだろう。

 2、教訓性
 福島県民としては、「繰り返してはならない」という意識も実は強い。かつて県民は原発に関心が高いとは言えない状況だったと思うので、そこには有権者としての責任を他の国民と同様に感じているだろう。どうしたら教訓のようなことを後世につないで行けるのかは重要な仕事である。そしてそれは、原発政策の是非両方だけでなく、民主主義そのものや悲劇を繰り返さないという普遍的な意味内容もある。

 ア、記録
 記録を遺していくことは何より重要だ。その際も、新聞、映像、写真などにくわえ、むろん、当事者の声、周囲としての間接的な当事者の声、学術書、雑誌、フリーペーパー、事故由来の事実を伝える物の数々、イベントの記録といったあらゆる雑多なことを保管しておくアーカイブセンターのようなものの存在が必要である。

 イ、記録所の運営
 記録所においては様々な楽しいイベントが日常的に開かれていて、別段、「そのことだけでないゆるやかな運営」をもって心掛けるべきである。そうであってこそ多数の人達が集う場所になってくれることだろう。今はしばらく自己保存や図書館に自己献本というような状態かもしれない。

 3、分断性
 県内外において原発を順次でも廃炉していきたいと考えている「脱原発」の人達と、県内外において原発を推進していきたいと考えている「原発推進」の人達がいて、そこの勢力争いに福島の被災が巻き込まれて分断している。いわゆる「二次被災」の問題であるから考察することは若干必要だ。むかし「喧嘩と放射能は福島の華だ」と書いたことがあるが、最近は不毛な感じを受け、無関心を助長しているような気がする。マクロな意識の流れに展開が欲しい。

 ア、思惑
 今の福島関係のことは、一定数の人々による思惑が見えてしまうかもしれず、本来それはむしろ目的達成のためには邪魔になる。たとえば脱原発したいから福島が嫌がることをし過ぎるということだとその問題提起は広がりにくいのである。一見して広がっているように見える激しい投稿のライクやシェアというのはどんな傾向の人々がしているのかまで可視化されている時代だ。広がっているように見えて実は熱狂依存の回覧板状態を人は見抜く。

 イ、未来への可能性
 広がるような投稿を心がけようと思ったら内輪受けを狙うような表現の仕方ばかりではまったく広がらないと言って良いだろう。逆でなければならないのである。一見したらこれは閲覧数低くなるだろうという地道で地味なことであればこそ、別次元に居る人達が見てくれる確率が高まるだろう。ゆえ、広がるというよりは、未来への可能性を広げると言ったほうが正確かもしれない。

 ウ、理性と感情
 成熟した人達であればその投稿にどれだけのライクやシェアがついてるかなどほとんどどうでもいいことだ。なぜなら99人が正しいと言っていることを理由として何が正しいかを決めることが大きな間違いのもとであり、自分で複数の情報にあたってゆっくり考えていくことが道のりだということなどを知っているからである。

 そういう人達に自然と伝わっていくような、理性と感情のバランスのとれた大人のアプローチが最も好ましい。SNSや言葉だけでなく、場づくり、映像、写真、物語、テレビ、物作り、食べ物づくり、なんでも福島は、やる気と才能を待っている。県民も日本に居る人々も積極的に評価していくと良いのだろう。きっとそれは、この日本という国に注ぐ日差しを暖かいものにしてくれるからだ。

 そうだから、関わってくれて、ありがとう。







8000Bq以下などの作業は、【年間】1ミリSV未満だ。読み解き環境省。吉田邦吉

わずかフレコンバッグが台風で流れた報道があって騒ぎになった。しかしそのことについて怒りや騒ぎはあっても、学びのムードは無かったように思う。こういうときこそ、ちょっと学んでみたいとわたしは思った。

分類時の「8000」という数字は、見た目が高そうだ。わたしもずっと高そうだと思ってきた。しかし実態は、当の基準「8000ベクレル以下ですらその作業をする人たちからして年間1ミリに満たない」のだった。以下の引用文と画像2つに、それが書いてある。

『8,000Bq/kg以下の廃棄物は、通常の処理方法でも処理等に伴い作業員及び周辺住民が追加的に受ける線量が、安全の基準である「年間で1mSv(ミリシーベルト)」を下回るため、安全に処分することができます。』(「放射性物質汚染廃棄物処理情報サイト よくある質問」環境省 http://shiteihaiki.env.go.jp/faq/

指定廃棄物について 環境省
福島県における取組み 環境省

ただし思うに除染作業をするということの場合には、たいていが低いものばかりであっても中には比較的には高い線量のものもあるだろう。だからこそ彼らは積算線量を管理しているのだと思われる。

今ここでわたしが言及したいのは一般の人達が、桁の大きそうな8000ベクレルという数字に驚きすぎて過剰な不安症などを発したら大変だから書いている。放射能と聞いて不安になることは自然なことだと思うが、生活に支障をきたさないように適切な理解をしていくのは総合的な生活の質向上のためには重要である。

つまり、8000ベクレルという数字はその件で作業している人達にとっても低いものであるため、「以下」のものは市町村・民間で通常の汚染されていない廃棄物と同様の方法で処理できることになっている。

それよりも問題なのはそれらをまとめて黒いフレコンバッグ(トンバッグ)に入れているのだから容量が非常に大きなものになる。それらは一挙には管理しきれずに今もまだ民間の人達のところに置いたままになっていることが課題になっている。そういうこともあって、焼却や乾燥などで容量を小さくする工程を経るために「減容化の施設」が稼働している。

参考 なお、原子力施設と比較するとこうなる。あまりにも数字の桁に幅がありすぎなのである。一般の人達の通常の感覚で1000という数字を考えると違うような気がする。

『原子力施設で発生する廃棄物は、10兆Bq/kg超えるものなど様々なものがあります。 一方、指定廃棄物のほとんどのものは10万Bq/kg以下であり、比較すると約1億分の1とはるかに小さいものになります。』(以下に出典表示)

文と図(引用 指定廃棄物について コラム 環境省)

それに「8000の話」をすると今度は「100Bq基準の話」が気になる人達が出てくると思うが、それは100を即座に害毒と考える前に、カリウムもガンマ線を出しているという話に戻って考えてみることが先かもしれない。それに、基準値近くまでの食品が日常的にどこかで売ってる話などわたし個人は聞いたことがない。

あまりにも不安になりすぎるということはネットやSNSを見すぎている。そして疲れている。だからまず忘れることをおすすめする。それからゆっくりして、再び気になりだして学びたいときなどに心身調子よければ少し学んでみて、様子を見ながら進むぐらいが楽かもしれない。

自分のなかで楽であることが大切ではないか。
ゆっくり、あるこう。

※追記 このエッセイに質問があった。フレコンバッグの中身が数十袋という量で台風により流出したというような話が新聞報道などであったことにつき、フレコンバッグ数トン分などは川や畑に流れても人々の健康に被害がゼロなのか、というような趣旨であった。

2012年5月のNHKの記事によれば、2011年3月の原発事故によって90京ベクレルが放出されている。それで今の状況だから、たとえ流れ出たフレコンバッグの中身が、すべて基準値満タンの8000ベクレルやそれを超えるものであっても、もし薄まってしまったら影響が明確なほどの変化は見つからないのではないかということをわたし個人は思う。

それに、呼吸をしても、おにぎり一個を食べても、「がんにはなり得る」のであって、なにをしても「健康に影響がゼロではない」こともある。そのようなところで、これについてだけ「データでは明確に出ないかもしれないが、ほんの見えない程度に影響があるかもしれない、つまりゼロとは言えない」と言うことにどのような意味があり得るのか、わたしには難しい。

このような考えはわたし個人の感想であって、正確なことは環境省なり政府なりに問い合わせて見て欲しいが、すくなくとも環境省では小泉進次郎大臣が現時点では環境への影響はないという認識だとNHKで発表された(「2019年10月15日 注目の発言集 福島 除染廃棄物の袋流出 「環境影響なし」小泉環境相」https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/24391.html)。

そして、わたしがこういう考えだからといってせっかく除染してきたフレコンバッグの中身が流出したりしてしまうのを嫌でないとか悲しくないとかそういうことではない。それとこれとは別問題なのである。