超・低線量で原因は探れるか。脱被曝論の分類。吉田邦吉

東日本ということでなく、たいていの日本列島全体や世界各国でそうだろうと思われるが、0コンマのマイクロシーベルト毎時といった超・低線量の世界にいるとき、それが明確な疾病原因だと見つけられるかを考える。

疫学(読み)えきがく(英語表記)epidemiologyとは、何か。
『ある集団について疾病や健康に関係する状況や事象の分布を調べたり,必要な定量をしたりして健康の障害の原因を探り,健康保持に貢献しようとする医学の領域.』(栄養・生化学辞典 朝倉書店 コトバンク)

ここで定量というのは、朝日新聞社のネット辞書コトバンクに、定量定量的というのと二つの言葉があるが、ひとまず「数値に表していくこと」と考えておく。数値とはすなわち多い少ないといった量のことであろう。

そして、健康の障害の原因を探る行為である。ということは、非常に多く明確に疾病発生の分布が認められるときには原因がそれではないかという推測をするということであろう。逆に言えば、非常に少ないときは推測しづらいということでもあると思われる。

疫学は大辞林コトバンクではこう定義されている。
『地域や集団内で、疾患や健康に関する事象の発生の原因や変動するさまを明らかにする学問。伝染病の研究から始まり、現在では公害や災害などの問題も対象とする。』

もとは伝染病の研究に使っていた体系だったが、公害や災害などの問題も対象とするようになっている。つまり数的に多ければそれが原因らしいのではないかと考え始めるということなのだろう。数的に少ない因果関係は見つけ出しにくいのかもしれないが、そもそも数的に少ない発生であるのに強固な因果関係が認められる場合を見つけるというのは、ほかにも多くの自然環境や日常生活で発生していてリスクが混ざっていく活性酸素の場合には、原因の予想からして難しいことなのかもしれないこの件で因果関係が不明になりやすい理由だろう

そこで、こういう考え方が一部で強固になり得る。「わずかであっても、わからないのだから、できるだけ被曝は減らしていきましょう」という、いわゆる超・低線量であっても被曝を避ようという考え方であり、巷では通常、「脱被曝系」などと呼ばれている。そしてこれは、もし「超は問題ない」と言われると「他人から人工的に受ける加害事実」としての被曝を避けようという方向性に進んでいく。なぜなら自然由来は日常生活でだれもが浴びているのが自然だから、そもそも微量は浴びているから微量に微量を加えても大差がないという推定からだ。

すなわち、加害事実を避けようという方向性になるということは、加害事実ではあってもそれが量的に受忍限度かどうかは関係がないという強い拒否を表している。家のとなりで排気ガスが出ているものが走っていたら引っ越す人がいるかもしれないというのと近いレベルであろうと思われる。だが自動車のことが問題視されないのは、自分も大勢の日本人もそれを選んで利用して薄い加害事実に加担しつつ、そこで暮らしているという自分の選択もあるからであろうと思われる。それを考えると、東日本で暮らし続けているという事実そして結果的に明確な病気になっていないと自ら思われることがまた超低線量を受忍限度に入れて行く他なしと妥協する人々の多さをも意味しているだろう。

つまり「脱被曝系といっても数種類ある」ことになる。
1、物理的回避型……たとえ受忍限度の無視できる量であっても加害者の出した人工危険物は受け入れないという、物理的な物質有無の被災を回避しようとする型の脱被曝。
2、科学的回避型……科学的に危険物だから、それは危険であり、微量であっても合計蓄積しないほうが良いからできるだけ回避すべき又は回避を選ぶ権利があるなどといった法改正なども視野に入れた型の脱被曝。
3、社会的回避型……福島という汚れた土地から発生するものを内心では下に見ていて、福島の安全論など全て無視し、危険論のショッキング型で平然と被災地を貶めていき、むしろそれでストレスを解消し、脱被曝に関する商売などもしていたりして、被曝回避しようと広めていく型の脱被曝。
4、政争的回避型……政権打倒という言葉が最初に来て、そのために理由を組み立てていくため、票を得られそうなことならなんでも危険論者の言うことをすべて信じてその方向への行動しかほとんど見受けられない型の脱被曝。

これらが全て混在していて、一人の人のなかでも雑多になって意見構築の要素としてあれこれその時々に応じて、考えるときに混ざったり、主張するときに突出したり、反論するときに移行したりして発されていってひとつの「当事者の声」ということになり得る。だから原発事故の当事者性というのは非常に複雑化していくということになる。

しかも当事者の道は、物語の関係性におけるオリジナル性が高いから、もしそこに干渉して大激怒などされようものなら大変だということが頭をよぎる人ほど何も言えなくなるだろう。それが特に福島県民である場合には社会的に効果が高いと考えられているからSNSでもシェアなどで多く閲覧されやすいということになる。

ひとまず、3と4の脱被曝系については、そもそも思惑あってのことであり、また、他人の内心をどうこうということの困難性にかんがみ、いずれ検討することにして、今回は、1と2について考えることにしよう。

1については実は、もし加害事実を避けるという考えを無くしたとしたら、有無だけのことなら、もしそれが超・低線量であれば、「原爆」由来のことや「自然」由来のこともあるのだから、事故の有無だけを今の状況ではさして問題にならないかもしれない。前述の一定年月に100ミリ未満で低線量という話からすると、である。だからこそここに、(その年月の推定を無視して)心情的に無理だという考え方が出てくるのでもあり、3や4に関連していく。1~4というのは有機的に混ざり合って引き合って相互に脱被曝という思想を高め合っていく効果が見受けられるのである。

2については、論争がある。それは、蓄積云々のことなのだから、量の関係が言われている。「量の概念」について、2つの論すなわち、「超・低線量被曝は差し支えない論」と「わずかでも脱被曝論」がある。それらは、「含めて大丈夫」「含めては大丈夫でない」と互いに考えていて、考え方が真っ二つに割れているのである。その態様つまり論争はネットで観る限り深刻であり、被曝は少ないほうが絶対に良いという考えを強く持っている意見傾向をそれなりに散見するが、同時に、少しであればむしろ活性化するという意見(放射線ホルミシス効果)も見る。

作 Y

合計してもどのみち微量だから気にしなくて良いと考えるほうが安全論であり、逆に、たとえ微量であっても合計していくと危険または安心しないとか加害行為を受け入れたくない物理的実害の拒否など考えるのが危険論だと思われる。

(むろん、汚れたものは嫌だという3の意味合いや4の政争的な思惑もあり得るだろう。危険であってもらわなくちゃ原発を止められないとか危険であってもらわなくちゃ政権打倒できないということである。だがこの系統のことを混ぜると話がイデオロギーの話になりがちで、憎悪すら呼んでしまいそうなのでいつか場所を別にして論じるかもしれないぐらいに考えておく)

すなわち、「総合しても超・低線量である論」と、「総合していくのは危険だから拒否する論」という考え方なのであり、「安全論や危険論などと巷で言われている対立の真相は超・低線量被曝についての論争である」ということが、まず判明する。だから食品の放射性物質検査が問題とされるようになり、だから空間線量が問題とされるようになっていくのだ。ただし、微量危険論ではなく、放射性物質は危険物だから危険だという有無の考え方のみでこの「超低線量被曝の棄権論」に賛成している混ざった傾向も相応に多そうだ。

くりかえすが、「より少ない被曝を求めるべき」という考え方と「少しなら問題ない」という考え方なのである。前者は買い物にも傾向として出てくるのであろう。後者は買い物には傾向としても出てこないで何も考えないようになる。おそらく後者が支配的な日本の人々の考え方なのであろう(ただし福島産となると流通などの前述の件があり話は別になっていくかもしれない難しさがある)。

そうでなければ関東にも人はかなり住んでいない結果または非常に大きな論争を導くはずなのである。現実には大多数が無関心でいられるということは、一時的に心配したが、政治家なり学者なりの安心策が大多数には功を奏したのかもしれないしそもそも暮らしている今の事実的に何の変化も自分の感覚として見受けられないからという結果論的妥協の心理傾向もあり得るだろう。

3・11当時のことに戻るが、自主的に避難することとそこでの生活などといった多大な苦労のことを考えると、それ自体が活性酸素を相当に発生させるであろう。(その量や質が満足かは別論として)だから行政的な福祉が少しあったのだろう。避難生活は大変である。大変であるから精神的苦痛である。

しかしたほう、避難生活をしなければ、そこに居るのだから、居ることでの悩みが増えるという精神的苦痛があるのである。居続けることでも活性酸素を相当に発生させただろう。今ここでわたしは、昔からの自分の認識である「精神的ストレスは活性酸素を発生させる」ということを前提として述べている。ネットで再確認できたは出来たが行政機関や辞書類でないものは煩雑すぎる参照になるので出さないことにしておく。いずれにせよ、(原発避難者一般や)「自主避難者だけでないのに」という県民からの反感がときに見受けられるのはこういったことも遠因であろう。

原発避難者についての反感が非常に減ったことの原因として初期に相応に叩きまくってきてもう忘れてしまったということもあり得るかもしれない。目立ったとき、出る杭は打つ社会的禊(みそぎ)のようなことが済んだとも言えるのだろう。それが自主避難者の場合には県民の妥協した複雑な感情とは逆行するような超・低線量の脱被曝論だから喧しく聞こえるという可能性もあり得る。そしてこういったことも全て周囲からは「分断」だと捉えられていると思う。なぜならお互いに思いやった言葉がまだ表に出てくるには少ないように見えるからだろう。

こういった「精神的苦痛」が「数種類の脱被曝論」を強くしていく。そして、数種類の脱被曝論はそれぞれが互いに脱被曝論そのもの全体を強くしていく。こうして、ごく一部の人口のあいだで脱被曝論というのが強固な考え方になっていくのではないだろうか。また、放射線防護という考え方にも発展していくことになる。たとえそれが「超・低線量」であっても、すべてが相乗効果に強固な考え方になっているとき、その「量」は問題でなくなるのだろう。むしろ強固なほうが運動として正しい、という方向性に傾いていくのかもしれない。

そもそも仲間がいて、脱被曝ということを掲げて運動などを強くしていって、辛いことも嬉しいこともいろいろあっているところなのに、その根幹でもあったはずの「超・低線量でも脱被曝すべきという主義を改める方向へ考えてみること自体が今度は心配になる」のかもしれない。なぜなら加害者であると考えている政府側の言うことを認めることに近寄ることになることは、裏切り行為にも見えるからだ。

そのような辛くて大変な心理状態に人々がいるというのを権力者は想像してみたことがあるだろうか。そうして運動が終わった時、それまで主張していた人々は個人的に主張することがほとんど無くなっていくのかもしれない。それは最初妥協であろう。段々と妥協ではなくなっていくこともあり得るだろう。そして、もし仮に心理状態が学びを許せば、自分とは違う考え方を学ぶこともあり得るかもしれない。

新しい世界を知るということはそれぐらいのことである。人には人の「それについての考え方」があって、内心がどうであろうと人の自由である。それが思想の自由である。ただし、超・低線量がどういうふうに人間の疾病にどのぐらいの程度で関わっているのかは、おそらく不明に近いことだとわたしには思える。

有ることを証明するのは存在1つで足りるが、無いことを証明するのは全時代の全世界を調査せねばならず困難なのだ(悪魔の証明)。すなわち、無いという原因を探ることが疫学の現状では困難なのではなかろうか。しかも、疫学が無理なら純粋な科学的因果関係ということになるだろうが、活性酸素ではそういう牽引の関係をどれか1つに明確に存在を提示にするには、なんらかの科学的立証か、「相応の大量にある」が提示されねば分からないだろう。

つまり、「有るとも無いとも見当たらない」のかもしれない。ただし、「膨大な事例に、そういう原因は直接的には無さそう」なことは完全ではないにしても、見当たっているかもしれない。こういうことだから「笑顔で居ればまず適切だ」と精神的ストレスに関してまず言われるのも納得し得るのだが、被災していて怒ったり悲しんだりしているところに頭ごなしにそう言われたら反感を買うのも必然であろう。

いずれにせよ、超・低線量での因果関係を探れるかということと関連して、それに付随している主義である脱被曝論の分類は自分なりに客観化できたかもしれないと思うので終わりにする。本来ならばもっと、分類名の定義から事前に定めてから進めるべきだったかもしれないが分類学の専門家でもないためこのエッセイでひとまず十分としよう。この構造分析によって何をどう考えていくかは読み手に任せたい。人様の幸せな世の中が来ることを祈る。

わたしがしたいのは、自分のなかでけじめをつけていくことである。だから多数の文献を用意してこの問題に取り組むなどのことをしていない。この8年間で自分が生きていくうえで自然と触れ合ってきた経験と環境省サイトやウェブ情報をもとに、思考を組み立てている。そしてそれは現実を哲学するというわたしの目的の1つであった。

この3・11東日本大震災と原発事故によって目覚めたと言っても良い自分の思考を、その場所から、ここからしっかりと構築し始めて発生としたかったのである。よって、WELTGEIST FUKUSHIMA9号における自由詩人的な原発避難発生的認識論の続編は、危機から発生したその後の哲学だと言って良いのかもしれない。危機直後は2号であった。今この文は、闘争その後だから、「ポスト闘争の思考」であろう。その意味では、自由が、始まるのかもしれない。

最初、「低線量」とは、どのぐらいのことだったのか。低線量の意義。吉田邦吉

低線量という言葉が言われるようになって久しいが、一見自明にも思えるこの言葉ほどヴェールに隠れているものもない。「低線量被ばくによる健康への影響は、どのようなものですか。」という質問に対して環境省がこう答えている。

引用はじめ

  • ①放射線による発がんのリスクは、被ばく線量が100ミリシーベルト(mSv)以下の場合は,他の要因による発がんの影響に隠れてしまうほど小さいことが分かっています。
  • ②積算した線量が同じであるときは、低線量率の環境で長期間にわたって被ばくした場合の健康影響は、短時間で被ばくした場合よりも小さいと推定されています。

ICRP publication 103より作成 
出典の公開日:平成19年3月 
本資料への収録日:平成29年3月31日

引用おわり
(基礎資料 第3章 放射線による健康影響 環境省 https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28qa-03-14.html

簡単に言えば、①で分かる。「低線量」というのは、被曝線量が100ミリシーベルト以下のことだろう。そしてそれは②において、長い間にわたって合計して被曝するほうが短時間で一気に同量を被ばくするよりもリスクが低いということだろう。

すなわち、「低線量の被曝だとして問題にしているのは、100ミリSV以下という大きな数字の世界」なのである。おそらくこの100ミリ未満という数字は、われわれ日本人の今の感覚からすれば、大きな数字であろう。日常的にガイガーカウンターで目にする数値が大体0.1マイクロ毎時とか0.5マイクロなどの数値だろうからだ。

ゆえ、ガイガーカウンターや事故後の空間線量の数値は「低線量」という言葉を違う感触のものにするには十分な効果があったのではないだろうか。少なくともSNSなどにおいて、計測した数値すなわち「超・低線量」について、かなり不安視している抽象的な意見傾向を見るに、このことを思う。実は「0コンマ」のマイクロSVなどのことは低線量ではなく「超・低線量」なのではないか

それでは次に、「低線量の被ばくによる発がんリスク」という項目があったので、それを出しておく(基礎資料 第3章 放射線による健康影響 3.7 リスク 低線量率被ばくによるがん死亡リスク 環境省https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28kiso-03-07-03.html)。

(なお、今わたしはどの順番でこの基礎資料を見ていくかということを考えていない。たまたま気の向くまま見ている。そうでないと、このような話に、直接的な被災当事者のわたしですら、そこまで興味は続かないからでもある。)

(わたしの文章は、一般人からのひとつの応答であり、いわば学術などに対して双方向的なことを目指していて、主体的に現実を考えていくケーススタディの一種として考えている。表現したときにそれは権力や学術すなわち社会の未来にとっても重要な参考として役立つことだと自分では思う。)

基礎資料より 環境省

前に覚えている反感としては「放射能という危険物質をタバコと一緒にされても困る」という反応だった。そういう反応が出てくるのは、第一に加害事実を無きものにさせないそして物質の有無こそが問題なのだという物理的実害の主張の件からの反論をしたい方向性なのだろうと思われる。だがここで言われているのは発病への総合的なリスクの蓄積のことである。だから「累積」という言葉があるのであって、事実が無いとは言っていない。すなわち科学的説明というのが受け入れられるには何らかの政治・社会・法的などの条件がそろっていないと難しいだろう。

念のため簡単に読み解いておくと、30%が個人の生活習慣などと書かれていて、100ミリで0.5%の増加が認められるかもしれないぐらいの話である。

環境省の説明を引用しておく。

国際放射線防護委員会(ICRP)では、大人も子供も含めた集団では、100ミリシーベルト当たり0.5%がん死亡の確率が増加するとして、防護を考えることとしています。これは原爆被爆者のデータを基に、低線量率被ばくによるリスクを推定した値です。
現在、日本人の死因の1位はがんで、大体30%の方ががんで亡くなっています。
つまり1,000人の集団がいれば、このうちの300人はがんで亡くなっています。これに放射線によるがんでの死亡確率を試しに計算して加算すると、全員が100ミリシーベルトを受けた1,000人の集団では、生涯で305人ががんで死亡すると推定できます。
しかし実際には、1,000人中300人という値も年や地域によって変動しますし※、今のところ病理診断のような方法でがんの原因が放射線だったかどうかを確認する方法は確立されていません。そのため、この100ミリシーベルト以下の増加分、つまり最大で1,000人中5人という増加分について実際に検出することは大変難しいと考えられています。

つまりこの図を見て思うのは、(超でないどころか)「低線量被曝のリスクからして非常に微細な世界」であり、今のところ立証できないぐらいのことなのだろうということである。そもそも「がん」というものは総合的なリスクから発生してくるものでもあるから因果関係を明確に何か1つに出来ないことが原因に思われる。だからこそ気にしないという人も居れば、どれがそれと分からないから全て人工的な、しかも自ら選んでないものを特にそこから避けたいと思う人々の気持ちも分かる。受忍限度論がその人々にとっては今も超えているということに他ならない。そもそも自分の思考を自ら否定したり変えていくことは相当に容易でもない。

むろん、人間がカリウムを含む食事をしないことや太陽光や公害0%の世界で暮らすことは不可能なのである。それでも、人間はたとえ超・低線量被曝であっても被曝したら回復など間に合わないと考えている人々には恐ろしい話なのかもしれないしダメージは受けたくないというのも人間の本能であるだろう。3・11当時は当然として、さらに、本能から来る感覚的なことを否定することは困難がある。だから「個人的に怖れたい人にはそうさせよ」と言うのが最も自由なのであるし現実にもそういう人がこういう文章を読むことなどまず無いとわたしは自らの見聞をもとに想像する。

つぎに、環境省はこう述べる。
「放射線による影響も、その約85%は放射線により生じる活性酸素等の影響であり、約15%が放射線による直接の損傷によるもの」(基礎資料 第3章 放射線による健康影響  3.2 人体影響の発生機構 DNA→細胞→人体 環境省https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h29kisoshiryo/h29kiso-03-02-03.html

微細ダメージのほとんどが活性酸素だった
百科事典マイペディア(コトバンク)によれば「活性酸素の働きは,免疫,発癌,老化などに関連しており,盛んに研究されている。」とのことである。線量などの「数字」をそのまま放射線そのものとしてすら適用できず、よく聞く活性酸素がほとんどなのである。脳や栄養などの本で読んで、活性酸素は老化するものの原因物質であるという認識がわたしにも昔からある。

厚労省のe-ヘルスネットの情報提供によれば、活性酸素とは「私たちが生命活動を営む上で酸素の利用は必須となります。呼吸によって体内に取り込まれた酸素の一部は、通常の状態よりも活性化された活性酸素となります。ヒトを含めた哺乳類では、取り込んだ酸素の数%が活性酸素に変化すると考えられています。活性酸素は、体内の代謝過程において様々な成分と反応し、過剰になると細胞傷害をもたらします。」(最終更新日:2019年3月4日)(高橋 将記)(https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/food/e-04-003.html

酸素は人間に必要であり、呼吸からして活性酸素になっていくという。呼吸して、食べ物を食べて、あらゆることが活性酸素になっていく。そしてそれは回復するが、極端な過剰が宜しくないということである。なんでも過ぎたるはそうだろうと思うのだが。どのように回復しているのかは、いまのわたしたち自身がそれを証明していると言えるのだろう。抗酸化作用という言葉も日常的だ。休んで、動いて、眠って、適度な暮らし。

この話は、「超・低線量(一時的に0コンマの世界)」と「低線量(一定期間での100ミリ未満の累積)」の両方に当てはまる話であろう。だからタイトルが「低線量」となっていると思われるが、もしかしたら「超」のほうは含まれない可能性すらある。つまり、ほとんど気にするレベルというほどには何も判明していない。放射線が原因だということが数的には判明していないということだ。※「気にするな」とわたしは言ってない。なんでも意識に上ること人の自由。

一定期間での100ミリ未満の累積した被曝というのがどのぐらいの期間か」はおそらく曖昧すぎて簡単に断定できるものでないだろう。むろん一定のその期間中に回復しきって今や存在し無い過去のダメージまで積算してしまったら、どのようなものでも相応の量になると思う。やはり短期間であればあるほど危険だということになるだろうが、まず、数時間で100ミリとか数日で100ミリといったことは一般の日常生活ではまず考えられないだろう。

巷では0.1~0.5マイクロSV毎時などと言っている話だが、100ミリSVというのは、「1ミリ=1000マイクロ」なのであり、この場合にミリをマイクロに直すと、100×1000であるから、100ミリSVとは10万マイクロSVという巨大な数字ということになる。たとえ自ら浴びようと思っても、「低線量」を短期間で浴びることは日常生活では不可能だと思われる。

ゆえ、浴びることができるのは、超・低線量の被ばくなのである。こうして、「超」のほうが日常生活にありふれているからこそ、その超・低線量のことが問題視されていくようになるのだが、その実、「問題視していたのは、超微量の低線量ではなく、日常生活には無さそうな巨大な数字である低線量が原則的な問題視だったのではないか」ということをわたしは思っている。