熱狂・正義・依存のSNSはキナ臭い。吉田邦吉

自分の見えているフィードやタイムラインとは違うような、政治的なSNSポストを検索し、眺めてみたことがあるだろうか。けっこうな回数と年月でおこなってきたわたしは、考えさせられ、若干心配にすらなっている。

ある論点において、ライク数や支持者数などの多い少ないによって、意見の採用を決して行くとしたら、それは、動員数の多い意見勢力が勝つだろう。そういうのは人気取り主義だから、おおきく判断を誤ることがある。最近のSNSを見ていて心配だと思うのは、ライク数を多く受け取っている人ほど相手側の意見に共感や考察などを寄せることが少なくなっているように見受けられる場合だ。その意見や表現に反発を覚える相手側に何の思いやりもない。いわゆる「やっちまえ」的な動きの過剰な世界にはなんらかのきな臭いものを感じずにはおれない。

そういう「不寛容なこと」は多々起きていて、そのたびにSNSでは「リツイート合戦」とか「ライク合戦」が起きている。「ライク数の多さイコール正しいという誤解」も作りやすそうだ。とにかく、そういう風に数値を競争しがちな世界なので直接的な政治系は炎上しやすいのだろう。そういう対立構造のことは炎上とともに、あたかも人気取りで是非などの判断をするかのように見える。そんなことでは、いつかこの国が全体主義におちいってしまったとき、「多数ライクだから正しい」ということになる。本当にそれで良いのだろうか。閲覧数やライク数は正しさとは全く違う。

正しさとは、たとえば対立構造においては、双方に持っていることがある。そのような性質のものだから、それについて学んで学んで、考えに考えて、それでも間違っているかもしれない、自分は本当にいかに多くのことを知らないのか、ということを知るためにあるような、ある種の、考え方の方向性を指示してくれるかもしれないが、過ちも大きくするような、そういう、熱狂すると危ないような、魔法の軍配みたいな面がある。うまく使わないとケガをするものではなかろうか。いや、使うという考え自体を考え直すべきかもしれない。まずは、正義の多様な姿を知ることがきっと役に立つだろう。

一方通行で熱狂すると危ないのが正義なのに、なんらかの正義を考えるような話のことに関連して熱狂的なライクなどを指標の一つにしたら一体どうなるのだろう。ライクやリツイートは人に依存性を持たせるからSNSを人は続けるようになるという話をどこかで聞いたことがある。SNSというのは肯定感で出来ているため、否定されたり反論されたり考えたりということが、けっこう苦手になるような傾向の場所なのかもしれない。むろん、それはそれできっと長所が多々あるだろう。何らかのチャンスがある場所だとも言える。ただし物事は一長一短だ。いつか、権力を批判すること自体が排除され嫌悪される社会になるかもしれない。

そうしてSNSを見ていると、不寛容さがとにかく目立つような気がして心配になるのである。つまり分断だが、なんらの思考も思いやりもないというか、むろん感情的でもいいのだが、もはや激しく短気で直情的で被害者意識ばかりと言ったほうが的確かもしれないような表現の頻発と、そういう種類の表現が多数のライク的な支持を得て競争しているのを見ると、「どっちもどっちでやってるんだな」とか「洗脳ゲームだな」というように場合により見える。すると、その時ちょうど数の多い人達が勝って正しいかのような見た目になる。たった一人の個人を尊重することを、忘れたくない。

わたしたちのウェブマガジンではあるときからライクやシェアなどの「数の表示」を外した。それで意見を自分側に扇動するようになったら文としてよろしくないという思いからでもある。本は、1冊しか発行されていない本ですら素晴らしいものは素晴らしいのであって、1000冊でているからすばらしいという物では全くないと思う。むろんその際にはその際のそれについての別種の特徴や価値などの話はあり得るのだが。とにかく今ここで大切なことは、わたしが思うにだが、自分とは考えの違う人達をどう思いやれるかもあるのではないだろうか。