将来の福島を考える。吉田邦吉

だれもが知るとおり、福島と原発是非の関係性は複雑だ。

 1、両極性
 それで生きてきた面もありながら、それで被災したという面もある。だから、「ア、安全神話」に腹が立っていても、「イ、どこまでが安全の範囲内か」ということには被災の回復つまり復旧や復興のために必須なのである。

 ア、安全神話
 とくに原発運営についての安全神話について考えていくべきである。安全神話というものを原発推進のために使えばどういう組織的な失敗が待っているか。この考察こそが実は原発を推進しようと反対しようと重要なのである。すなわち民主主義、組織論、不確実性などの問題である。

 イ、低線量の安全性の周知法
 これが原子力災害を被っている地域の復興には何より肝心である。ただし周知は大事だが、その方法はもっと重要なのである。たとえば、いきなり100ミリという数字だけを最初に出しては大バッシングを食らうだろう。放射能について人は不安があって自然であり、原発の是非だって誰もが考えはある。

 イのA、不安感や怒りなどを否定しない
 低い線量でも浴びたくないという人の気持ちを否定するのは間違いである。考えや気持ちは自由なのであるから、心配すること自由なのである。もし2人以上なら、他者の話が終わったら次は自分の番、という順番で話を行えば良い。ひとが権力と闘うのも闘わないのも自由。

 イのB、非政治的にシンプルな提示
 そもそも、「低線量」関係における分析データのほうでは明確な増加が見当たらないという話があるだけなのであるから、それを提示し続ければ良いのである。それをもって、原発の賛成とか反対とかのために他者を論難しすぎないことが大切だ。あまりのものは禍根を残す。

 ウ、県外の脱原発
 福島県内での原発は第一はむろん、第二も廃炉になるので争いがない。県外においては賛成派と反対派が分かれている。そして特に、県外の脱原発派というのは福島の被災つまり低線量について何の理解もなく非情または感情的のみに政争利用なのかということを考える人も居るかもしれない。

 ウのA、理解ある人々
 理解ある人々は、そもそも原発の是非に関わらないで、低線量に関して政府が採用したデータや知識の意味を共に学ぼうと理解してくれるだろう。そうであれば、福島の被災は国内にくわえ世界へ向けて回復していくことが出来る。分断も融和していくだろう。脱原発派で理解ある人達は沢山いると思う。

 ウのB、理解ない人々
 理解ない人々は、そもそも原発の是非に関わらないで、低線量に関して政府がどうこうしてきたこと自体を理解「したくない」のであって、理解力のない冷酷無情な人々ではない。そういう人達は、国政関係のことを今は信頼したくないが、福島の人々が続けている努力については評価してくれるだろう。

 2、教訓性
 福島県民としては、「繰り返してはならない」という意識も実は強い。かつて県民は原発に関心が高いとは言えない状況だったと思うので、そこには有権者としての責任を他の国民と同様に感じているだろう。どうしたら教訓のようなことを後世につないで行けるのかは重要な仕事である。そしてそれは、原発政策の是非両方だけでなく、民主主義そのものや悲劇を繰り返さないという普遍的な意味内容もある。

 ア、記録
 記録を遺していくことは何より重要だ。その際も、新聞、映像、写真などにくわえ、むろん、当事者の声、周囲としての間接的な当事者の声、学術書、雑誌、フリーペーパー、事故由来の事実を伝える物の数々、イベントの記録といったあらゆる雑多なことを保管しておくアーカイブセンターのようなものの存在が必要である。

 イ、記録所の運営
 記録所においては様々な楽しいイベントが日常的に開かれていて、別段、「そのことだけでないゆるやかな運営」をもって心掛けるべきである。そうであってこそ多数の人達が集う場所になってくれることだろう。今はしばらく自己保存や図書館に自己献本というような状態かもしれない。

 3、分断性
 県内外において原発を順次でも廃炉していきたいと考えている「脱原発」の人達と、県内外において原発を推進していきたいと考えている「原発推進」の人達がいて、そこの勢力争いに福島の被災が巻き込まれて分断している。いわゆる「二次被災」の問題であるから考察することは若干必要だ。むかし「喧嘩と放射能は福島の華だ」と書いたことがあるが、最近は不毛な感じを受け、無関心を助長しているような気がする。マクロな意識の流れに展開が欲しい。

 ア、思惑
 今の福島関係のことは、一定数の人々による思惑が見えてしまうかもしれず、本来それはむしろ目的達成のためには邪魔になる。たとえば脱原発したいから福島が嫌がることをし過ぎるということだとその問題提起は広がりにくいのである。一見して広がっているように見える激しい投稿のライクやシェアというのはどんな傾向の人々がしているのかまで可視化されている時代だ。広がっているように見えて実は熱狂依存の回覧板状態を人は見抜く。

 イ、未来への可能性
 広がるような投稿を心がけようと思ったら内輪受けを狙うような表現の仕方ばかりではまったく広がらないと言って良いだろう。逆でなければならないのである。一見したらこれは閲覧数低くなるだろうという地道で地味なことであればこそ、別次元に居る人達が見てくれる確率が高まるだろう。ゆえ、広がるというよりは、未来への可能性を広げると言ったほうが正確かもしれない。

 ウ、理性と感情
 成熟した人達であればその投稿にどれだけのライクやシェアがついてるかなどほとんどどうでもいいことだ。なぜなら99人が正しいと言っていることを理由として何が正しいかを決めることが大きな間違いのもとであり、自分で複数の情報にあたってゆっくり考えていくことが道のりだということなどを知っているからである。

 そういう人達に自然と伝わっていくような、理性と感情のバランスのとれた大人のアプローチが最も好ましい。SNSや言葉だけでなく、場づくり、映像、写真、物語、テレビ、物作り、食べ物づくり、なんでも福島は、やる気と才能を待っている。県民も日本に居る人々も積極的に評価していくと良いのだろう。きっとそれは、この日本という国に注ぐ日差しを暖かいものにしてくれるからだ。

 そうだから、関わってくれて、ありがとう。







8000Bq以下などの作業は、【年間】1ミリSV未満だ。読み解き環境省。吉田邦吉

わずかフレコンバッグが台風で流れた報道があって騒ぎになった。しかしそのことについて怒りや騒ぎはあっても、学びのムードは無かったように思う。こういうときこそ、ちょっと学んでみたいとわたしは思った。

分類時の「8000」という数字は、見た目が高そうだ。わたしもずっと高そうだと思ってきた。しかし実態は、当の基準「8000ベクレル以下ですらその作業をする人たちからして年間1ミリに満たない」のだった。以下の引用文と画像2つに、それが書いてある。

『8,000Bq/kg以下の廃棄物は、通常の処理方法でも処理等に伴い作業員及び周辺住民が追加的に受ける線量が、安全の基準である「年間で1mSv(ミリシーベルト)」を下回るため、安全に処分することができます。』(「放射性物質汚染廃棄物処理情報サイト よくある質問」環境省 http://shiteihaiki.env.go.jp/faq/

指定廃棄物について 環境省
福島県における取組み 環境省

ただし思うに除染作業をするということの場合には、たいていが低いものばかりであっても中には比較的には高い線量のものもあるだろう。だからこそ彼らは積算線量を管理しているのだと思われる。

今ここでわたしが言及したいのは一般の人達が、桁の大きそうな8000ベクレルという数字に驚きすぎて過剰な不安症などを発したら大変だから書いている。放射能と聞いて不安になることは自然なことだと思うが、生活に支障をきたさないように適切な理解をしていくのは総合的な生活の質向上のためには重要である。

つまり、8000ベクレルという数字はその件で作業している人達にとっても低いものであるため、「以下」のものは市町村・民間で通常の汚染されていない廃棄物と同様の方法で処理できることになっている。

それよりも問題なのはそれらをまとめて黒いフレコンバッグ(トンバッグ)に入れているのだから容量が非常に大きなものになる。それらは一挙には管理しきれずに今もまだ民間の人達のところに置いたままになっていることが課題になっている。そういうこともあって、焼却や乾燥などで容量を小さくする工程を経るために「減容化の施設」が稼働している。

参考 なお、原子力施設と比較するとこうなる。あまりにも数字の桁に幅がありすぎなのである。一般の人達の通常の感覚で1000という数字を考えると違うような気がする。

『原子力施設で発生する廃棄物は、10兆Bq/kg超えるものなど様々なものがあります。 一方、指定廃棄物のほとんどのものは10万Bq/kg以下であり、比較すると約1億分の1とはるかに小さいものになります。』(以下に出典表示)

文と図(引用 指定廃棄物について コラム 環境省)

それに「8000の話」をすると今度は「100Bq基準の話」が気になる人達が出てくると思うが、それは100を即座に害毒と考える前に、カリウムもガンマ線を出しているという話に戻って考えてみることが先かもしれない。それに、基準値近くまでの食品が日常的にどこかで売ってる話などわたし個人は聞いたことがない。

あまりにも不安になりすぎるということはネットやSNSを見すぎている。そして疲れている。だからまず忘れることをおすすめする。それからゆっくりして、再び気になりだして学びたいときなどに心身調子よければ少し学んでみて、様子を見ながら進むぐらいが楽かもしれない。

自分のなかで楽であることが大切ではないか。
ゆっくり、あるこう。

※追記 このエッセイに質問があった。フレコンバッグの中身が数十袋という量で台風により流出したというような話が新聞報道などであったことにつき、フレコンバッグ数トン分などは川や畑に流れても人々の健康に被害がゼロなのか、というような趣旨であった。

2012年5月のNHKの記事によれば、2011年3月の原発事故によって90京ベクレルが放出されている。それで今の状況だから、たとえ流れ出たフレコンバッグの中身が、すべて基準値満タンの8000ベクレルやそれを超えるものであっても、もし薄まってしまったら影響が明確なほどの変化は見つからないのではないかということをわたし個人は思う。

それに、呼吸をしても、おにぎり一個を食べても、「がんにはなり得る」のであって、なにをしても「健康に影響がゼロではない」こともある。そのようなところで、これについてだけ「データでは明確に出ないかもしれないが、ほんの見えない程度に影響があるかもしれない、つまりゼロとは言えない」と言うことにどのような意味があり得るのか、わたしには難しい。

このような考えはわたし個人の感想であって、正確なことは環境省なり政府なりに問い合わせて見て欲しいが、すくなくとも環境省では小泉進次郎大臣が現時点では環境への影響はないという認識だとNHKで発表された(「2019年10月15日 注目の発言集 福島 除染廃棄物の袋流出 「環境影響なし」小泉環境相」https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/24391.html)。

そして、わたしがこういう考えだからといってせっかく除染してきたフレコンバッグの中身が流出したりしてしまうのを嫌でないとか悲しくないとかそういうことではない。それとこれとは別問題なのである。

列島全体にフォールアウト。吉田邦吉

世界でおこなわれた核実験の影響による空気についてざっと学ぶことにした。なぜなら「日本全体の大気はどうなのか」と思ったからである。環境省のサイトでフォールアウトの件を検索してみると、北海道でセシウムが核実験の影響で見つかったということが分かった。それから東京都や日本全体でのことがグラフ化されていた。

そもそも核実験の世界初は1945年7月のアメリカである。そして左上のグラフは東京都の空からセシウム137が日々どれだけ降っていたかを示している。1950年代後半ぐらいから表示されており、1990年ぐらいまで相当にあるようである。しかも2010年代でも高い数値が記録されているようだ。朝日新聞によれば2019年2月にも核実験はアメリカで行われている。

右上のグラフは大気圏内核実験時代の国内の日常食中のセシウム137の量であるそうだ。そんなに昔からこの話はあったのか。わたしは何も知らなかったのである。大気圏内核実験というのは、地下とか水中とか大気圏外などでなく、地上、海上、空中のようである。

「大気圏内核実験は、1950年代から1960年代初頭にかけて米国、旧ソ連を中心に多数回実施された。実験は主として北半球の成層圏内で行われたため、核分裂生成物の微粒子は地球の大気循環流に乗って北半球全域に拡散、降水とともに地上にも降下し、地表面や農作物に放射性汚染をもたらした。降下核種の中ではセシウム137が最も多く、日本人成年男子を対象とした測定結果ではセシウム137平均体内量は1964年にピーク値(約530Bq)に達したが、米ソの大気圏内核実験の停止とともに急速に低下した。」ATOMICA (※平成31年3月14日より、ATOMICAは国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構(JAEA)が運営)https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_510.html

ひょっとしたら日本中の日常食に微量でも入っているのかもしれない。同じ微量を福島という名前だけで避けようにもすでに日本中に人工由来の放射能があるということが現状のようだ。「低線量」という言葉の概念から比較したときにはやはり非常に微量な世界なのであろう。すなわち「微量の範囲の中に、日本全体がすっぽり入るので、日本全体が微量に汚染されている」と言える。むろん、わたし個人は福島に居るときと同じように微量の範囲内を心配しない。

下の2つのグラフは、日本人の成人男子の排泄尿中にセシウムが入っていて体内にもセシウムが入っていて、というグラフである。チェルノブイリ原発事故でも日本人の体内のセシウム量は増加したそうだ。なんと、こどものころのわたしたちのあの恐れは、恐れだけではなかった。すでに内部に取りこんでいた。ただし時間とともに排出されたようではある。

こういった数多くの核実験による放射性降下物をフォールアウトと呼ぶ。ちょっとした衝撃であった。ここで、フォールアウトなどという災害があると聞けば、人には人の精神的に受けるその苦痛というようなことが重い人がいる可能性を思う

たとえば現在のところデリーでは大気汚染が深刻であり計測できない状態にまでなって危機だそうだ(インド・デリー大気汚染、「耐えられないレベル」 外出自粛求める BBC 2019年11月4日 https://www.bbc.com/japanese/50285251)。世界の都市部は大丈夫だろうか。

もし微量の粒子系の有害な物質を避けようと思ったら、この世界ではかなり困難だと思われるが、この文章では逃げるなと言っているのではない。どこで暮らそうと人の自由だと思う。単に、正確に知っておくことで、もし将来の日本において、落ち着いて妥当な受忍限度の範囲を自分で決められれば、無用な移動リスクを避けることも選べるのかもしれない。

最近では気候変動の影響がニュースになることが非常に増えた。もしかしたら人々のなかで一部は以下のニュースに出てくる人々のように「環境不安」というメンタルヘルス上の不安感を覚えているかもしれない。欧米で増加している。

「悲しくて、悲しくて、立ち上がれない。これほどまでに悲しくなるなんてー」ジュディ・クレイマーさんは、「環境不安」と呼ばれるメンタルヘルス上の問題を抱えている。(略)「私は希望を感じない。地球の気候に不安と悲しみを感じる」精神分析医のエリザベス・アルレッド氏は「これは大きな問題だ。個人で回避しようと思って、回避できる恐怖ではないからだ。またその怒りをどこにぶつけていいのかもわからない。原因となる問題がいまだに正しく対処されていないのだ」と話す。他に、問題の共通認識を得られないことで孤独を感じるなどの当事者からの意見があるようだ。専門家によると、行動に出ることが不安に対処する1つの方法だという。(気候変動がメンタルヘルスに影響、欧米で広がる「環境不安」ロイター 2019年10月24日 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191024-00010008-reutv-int

自分だけのちからではどうにも解決にまで進めない問題に対処しようと精神的に負担しすぎたり怖く成り過ぎたりして、環境不安に陥り、悲しくなり、日々を過ごし、理解されているともあまり感じられず、孤独を感じる。けっこうな数で同様のことを感じているひとをSNSで見つけられそうな予感が働く。「SNSでの煽(あお)り過ぎ」も問題に数えられるだろう。

あの頃のことについて特に一般の人達の選択はどれについても後で勝手に裁くなど無いほうが良いと思う。いっぽう、あのころネットでの一部世論を強く煽っていた方向性は、2つあった。それは「福島から人や物を出すな」と「福島から出ろ」であった。それらが真逆の方向性をもって人々の辛い悩みを無理に引っ張り合い、分断したこともあったかもしれないと想像する。

なんでもひとは自由に言論していて良いのだろうけれど、発信したり表現したりするほうは、あまり過激で無配慮に続けないほうがやさしい。その画面一枚の向こうで人々は治療が必要なほどに泣いているかもしれない。あおりすぎるのをやめて、みずから着実に行動を起こし、その成果をSNSにアップロードして、希望を煽るようにしてみてはどうだろう

「希望を煽る」
まるでメーヴェ乗りのように飛べそうだぞ。

『東京の水』吉田邦吉

むろん、東京の水、すなわち「東京水」は売っているぐらいきれいであることは先に書いておく。ところが一部で「東京の水は汚い」と言われて久しい。今でもGoogle検索窓で「東京の水」と入れると予測で出てくる言葉群のなかに「汚い」が含まれている。人々がそれなりの数で検索したからだろう。

「東京水・pure tokyo water」東京都庁HPより

わたしはごく若いころ、ほんの一時だけだが、浮浪していたことがある。そのころ都内で公園の水を飲むのを非常にためらっていたので、ついにお金がなくなったときでも飲めずにいて喉からからで苦しかったのを覚えている。

たまたま泊まったビル型マンションで飲もうとした水道の水が茶色かったことも原因であろう。単に使われてなかっただけだと思うが、わたしの東京の水へのイメージは非常に苦々しいものになっていた。だから今でも、「東京の水は安全だきれいだ」という取り組みや宣伝などをテレビで見たりすると、頷きながら、そのころの自分を思い出すのである。

ただし今は、わたし自身が、東京の水の立場になって考えてみることができる。あの甘酸っぱい思い出とともに東京都行政の「水への取り組み」も学んでみたいと思うようになっているのだ。やはりそこ東京では人々が楽し気に暮らしている。歩けば喫茶店も楽しい。それなのに、何も知らずにイメージだけで悪い悪いと言っていても良くないと思った。

もし大勢の日本中の人々が東京の水は汚い飲めない酷いというような罵詈雑言の羅列や酷すぎる表現をどかどかと毎日毎晩約10年間もネットで続けて、なおかつ、政争のためにその東京の水が汚いというイメージを使いまくっていたら、東京で暮らしている子どもたちや女性たちはどう感じるであろう。そういうことであるから、穏健派が多いことは重要なのである。

(※ここでその酷い状態というのを1分間だけでも良いから「関東」とか「東京」という言葉と「福島」と置き換えて、あれこれの酷い言葉の数々を想像しなおしてみてほしい。多分「なんで貶めてばかりいて何ら理解しようとしてくれないのか」というように、悲しいか怒るか呆れるなどの度合いだ。)

話を戻して、もしそんなことをされたら、東京の人達は「いや、ちゃんと検査して安全が確認されたから安心だ」ということを表現するであろう。むろん、まだまだと思って各施設の水道設備について考えたり慎重論や表現行為なども出てくるかもしれないが、そういう慎重論や表現論があることと今ここで述べたような酷い状態と、同じではないのである。

ネット情報によれば、昔は東京の水はいろいろ課題を抱えていた地区があり得たのかもしれないが、今では、「高度浄水処理」という装置によって安全がさらに高度な段階で確保されているようなのだ。「利根川水系の全浄水場で高度浄水処理100%を達成」しているとのこと。

「高度浄水とは通常の浄水処理に加え、オゾンの強力な酸化力と生物活性炭による吸着機能を活用した浄水処理です。これまでどうしても取り除けなかった水の中に残るごく微量のトリハロメタンやイヤなニオイや有機物をほぼ除去することができるため、より安全でおいしい水をお届けできるようになりました。」(「高度浄水処理について」東京都水道局)https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/kodojosui.html

しかも、「四半世紀の歳月を経て、平成25年10月に高度浄水100%を達成し」たのである。この継続的な努力は目を見張るものがきっとある。検査もかなり充実しているようだ。そういった「テクノロジー」(科学技術)には、称賛を送りたい気分にすらなるかもしれない。

最終的に、1998年ごろのわたしの東京の水への印象がなぜそんなに悪かったのかを知る由は無いのだが、ネット情報によれば、利根川の流域は人口密度が高いから生活排水の流入なども一因と考えられているようだった。人口が多いところでは、あらゆるデマも伝播していったことだろう。それが東京と田舎を往復する人々によって広まったのかもしれない。ただし当時と今とで違うところは、流行しているSNSが無いから、話は話でデマも一緒に終わってくれることである。東京の水と福島の米がどこか似ていながら違う状況に居るのはこのためだ。

これからの時代は、SNSや検索エンジンでのアピール対策が重要になってくるだろう。サクラもあり得る。そして世界では近い将来「食料や水が不足する」と言われている。日本においてはインフラなどの民営化などがいろんな意味で注目されているが、世界のそうした事象が、どういう風に日本に対して影響が加わってくるのか、予測していかねばならないのだろう。既にしている著作はあるかもしれないが。少なくとも食べ物と水を作って守っていてくれる人達を大事にせねば、日本は国防的観点からも、相当に弱体化するであろう。

超・低線量で原因は探れるか。脱被曝論の分類。吉田邦吉

東日本ということでなく、たいていの日本列島全体や世界各国でそうだろうと思われるが、0コンマのマイクロシーベルト毎時といった超・低線量の世界にいるとき、それが明確な疾病原因だと見つけられるかを考える。

疫学(読み)えきがく(英語表記)epidemiologyとは、何か。
『ある集団について疾病や健康に関係する状況や事象の分布を調べたり,必要な定量をしたりして健康の障害の原因を探り,健康保持に貢献しようとする医学の領域.』(栄養・生化学辞典 朝倉書店 コトバンク)

ここで定量というのは、朝日新聞社のネット辞書コトバンクに、定量定量的というのと二つの言葉があるが、ひとまず「数値に表していくこと」と考えておく。数値とはすなわち多い少ないといった量のことであろう。

そして、健康の障害の原因を探る行為である。ということは、非常に多く明確に疾病発生の分布が認められるときには原因がそれではないかという推測をするということであろう。逆に言えば、非常に少ないときは推測しづらいということでもあると思われる。

疫学は大辞林コトバンクではこう定義されている。
『地域や集団内で、疾患や健康に関する事象の発生の原因や変動するさまを明らかにする学問。伝染病の研究から始まり、現在では公害や災害などの問題も対象とする。』

もとは伝染病の研究に使っていた体系だったが、公害や災害などの問題も対象とするようになっている。つまり数的に多ければそれが原因らしいのではないかと考え始めるということなのだろう。数的に少ない因果関係は見つけ出しにくいのかもしれないが、そもそも数的に少ない発生であるのに強固な因果関係が認められる場合を見つけるというのは、ほかにも多くの自然環境や日常生活で発生していてリスクが混ざっていく活性酸素の場合には、原因の予想からして難しいことなのかもしれないこの件で因果関係が不明になりやすい理由だろう

そこで、こういう考え方が一部で強固になり得る。「わずかであっても、わからないのだから、できるだけ被曝は減らしていきましょう」という、いわゆる超・低線量であっても被曝を避ようという考え方であり、巷では通常、「脱被曝系」などと呼ばれている。そしてこれは、もし「超は問題ない」と言われると「他人から人工的に受ける加害事実」としての被曝を避けようという方向性に進んでいく。なぜなら自然由来は日常生活でだれもが浴びているのが自然だから、そもそも微量は浴びているから微量に微量を加えても大差がないという推定からだ。

すなわち、加害事実を避けようという方向性になるということは、加害事実ではあってもそれが量的に受忍限度かどうかは関係がないという強い拒否を表している。家のとなりで排気ガスが出ているものが走っていたら引っ越す人がいるかもしれないというのと近いレベルであろうと思われる。だが自動車のことが問題視されないのは、自分も大勢の日本人もそれを選んで利用して薄い加害事実に加担しつつ、そこで暮らしているという自分の選択もあるからであろうと思われる。それを考えると、東日本で暮らし続けているという事実そして結果的に明確な病気になっていないと自ら思われることがまた超低線量を受忍限度に入れて行く他なしと妥協する人々の多さをも意味しているだろう。

つまり「脱被曝系といっても数種類ある」ことになる。
1、物理的回避型……たとえ受忍限度の無視できる量であっても加害者の出した人工危険物は受け入れないという、物理的な物質有無の被災を回避しようとする型の脱被曝。
2、科学的回避型……科学的に危険物だから、それは危険であり、微量であっても合計蓄積しないほうが良いからできるだけ回避すべき又は回避を選ぶ権利があるなどといった法改正なども視野に入れた型の脱被曝。
3、社会的回避型……福島という汚れた土地から発生するものを内心では下に見ていて、福島の安全論など全て無視し、危険論のショッキング型で平然と被災地を貶めていき、むしろそれでストレスを解消し、脱被曝に関する商売などもしていたりして、被曝回避しようと広めていく型の脱被曝。
4、政争的回避型……政権打倒という言葉が最初に来て、そのために理由を組み立てていくため、票を得られそうなことならなんでも危険論者の言うことをすべて信じてその方向への行動しかほとんど見受けられない型の脱被曝。

これらが全て混在していて、一人の人のなかでも雑多になって意見構築の要素としてあれこれその時々に応じて、考えるときに混ざったり、主張するときに突出したり、反論するときに移行したりして発されていってひとつの「当事者の声」ということになり得る。だから原発事故の当事者性というのは非常に複雑化していくということになる。

しかも当事者の道は、物語の関係性におけるオリジナル性が高いから、もしそこに干渉して大激怒などされようものなら大変だということが頭をよぎる人ほど何も言えなくなるだろう。それが特に福島県民である場合には社会的に効果が高いと考えられているからSNSでもシェアなどで多く閲覧されやすいということになる。

ひとまず、3と4の脱被曝系については、そもそも思惑あってのことであり、また、他人の内心をどうこうということの困難性にかんがみ、いずれ検討することにして、今回は、1と2について考えることにしよう。

1については実は、もし加害事実を避けるという考えを無くしたとしたら、有無だけのことなら、もしそれが超・低線量であれば、「原爆」由来のことや「自然」由来のこともあるのだから、事故の有無だけを今の状況ではさして問題にならないかもしれない。前述の一定年月に100ミリ未満で低線量という話からすると、である。だからこそここに、(その年月の推定を無視して)心情的に無理だという考え方が出てくるのでもあり、3や4に関連していく。1~4というのは有機的に混ざり合って引き合って相互に脱被曝という思想を高め合っていく効果が見受けられるのである。

2については、論争がある。それは、蓄積云々のことなのだから、量の関係が言われている。「量の概念」について、2つの論すなわち、「超・低線量被曝は差し支えない論」と「わずかでも脱被曝論」がある。それらは、「含めて大丈夫」「含めては大丈夫でない」と互いに考えていて、考え方が真っ二つに割れているのである。その態様つまり論争はネットで観る限り深刻であり、被曝は少ないほうが絶対に良いという考えを強く持っている意見傾向をそれなりに散見するが、同時に、少しであればむしろ活性化するという意見(放射線ホルミシス効果)も見る。

作 Y

合計してもどのみち微量だから気にしなくて良いと考えるほうが安全論であり、逆に、たとえ微量であっても合計していくと危険または安心しないとか加害行為を受け入れたくない物理的実害の拒否など考えるのが危険論だと思われる。

(むろん、汚れたものは嫌だという3の意味合いや4の政争的な思惑もあり得るだろう。危険であってもらわなくちゃ原発を止められないとか危険であってもらわなくちゃ政権打倒できないということである。だがこの系統のことを混ぜると話がイデオロギーの話になりがちで、憎悪すら呼んでしまいそうなのでいつか場所を別にして論じるかもしれないぐらいに考えておく)

すなわち、「総合しても超・低線量である論」と、「総合していくのは危険だから拒否する論」という考え方なのであり、「安全論や危険論などと巷で言われている対立の真相は超・低線量被曝についての論争である」ということが、まず判明する。だから食品の放射性物質検査が問題とされるようになり、だから空間線量が問題とされるようになっていくのだ。ただし、微量危険論ではなく、放射性物質は危険物だから危険だという有無の考え方のみでこの「超低線量被曝の棄権論」に賛成している混ざった傾向も相応に多そうだ。

くりかえすが、「より少ない被曝を求めるべき」という考え方と「少しなら問題ない」という考え方なのである。前者は買い物にも傾向として出てくるのであろう。後者は買い物には傾向としても出てこないで何も考えないようになる。おそらく後者が支配的な日本の人々の考え方なのであろう(ただし福島産となると流通などの前述の件があり話は別になっていくかもしれない難しさがある)。

そうでなければ関東にも人はかなり住んでいない結果または非常に大きな論争を導くはずなのである。現実には大多数が無関心でいられるということは、一時的に心配したが、政治家なり学者なりの安心策が大多数には功を奏したのかもしれないしそもそも暮らしている今の事実的に何の変化も自分の感覚として見受けられないからという結果論的妥協の心理傾向もあり得るだろう。

3・11当時のことに戻るが、自主的に避難することとそこでの生活などといった多大な苦労のことを考えると、それ自体が活性酸素を相当に発生させるであろう。(その量や質が満足かは別論として)だから行政的な福祉が少しあったのだろう。避難生活は大変である。大変であるから精神的苦痛である。

しかしたほう、避難生活をしなければ、そこに居るのだから、居ることでの悩みが増えるという精神的苦痛があるのである。居続けることでも活性酸素を相当に発生させただろう。今ここでわたしは、昔からの自分の認識である「精神的ストレスは活性酸素を発生させる」ということを前提として述べている。ネットで再確認できたは出来たが行政機関や辞書類でないものは煩雑すぎる参照になるので出さないことにしておく。いずれにせよ、(原発避難者一般や)「自主避難者だけでないのに」という県民からの反感がときに見受けられるのはこういったことも遠因であろう。

原発避難者についての反感が非常に減ったことの原因として初期に相応に叩きまくってきてもう忘れてしまったということもあり得るかもしれない。目立ったとき、出る杭は打つ社会的禊(みそぎ)のようなことが済んだとも言えるのだろう。それが自主避難者の場合には県民の妥協した複雑な感情とは逆行するような超・低線量の脱被曝論だから喧しく聞こえるという可能性もあり得る。そしてこういったことも全て周囲からは「分断」だと捉えられていると思う。なぜならお互いに思いやった言葉がまだ表に出てくるには少ないように見えるからだろう。

こういった「精神的苦痛」が「数種類の脱被曝論」を強くしていく。そして、数種類の脱被曝論はそれぞれが互いに脱被曝論そのもの全体を強くしていく。こうして、ごく一部の人口のあいだで脱被曝論というのが強固な考え方になっていくのではないだろうか。また、放射線防護という考え方にも発展していくことになる。たとえそれが「超・低線量」であっても、すべてが相乗効果に強固な考え方になっているとき、その「量」は問題でなくなるのだろう。むしろ強固なほうが運動として正しい、という方向性に傾いていくのかもしれない。

そもそも仲間がいて、脱被曝ということを掲げて運動などを強くしていって、辛いことも嬉しいこともいろいろあっているところなのに、その根幹でもあったはずの「超・低線量でも脱被曝すべきという主義を改める方向へ考えてみること自体が今度は心配になる」のかもしれない。なぜなら加害者であると考えている政府側の言うことを認めることに近寄ることになることは、裏切り行為にも見えるからだ。

そのような辛くて大変な心理状態に人々がいるというのを権力者は想像してみたことがあるだろうか。そうして運動が終わった時、それまで主張していた人々は個人的に主張することがほとんど無くなっていくのかもしれない。それは最初妥協であろう。段々と妥協ではなくなっていくこともあり得るだろう。そして、もし仮に心理状態が学びを許せば、自分とは違う考え方を学ぶこともあり得るかもしれない。

新しい世界を知るということはそれぐらいのことである。人には人の「それについての考え方」があって、内心がどうであろうと人の自由である。それが思想の自由である。ただし、超・低線量がどういうふうに人間の疾病にどのぐらいの程度で関わっているのかは、おそらく不明に近いことだとわたしには思える。

有ることを証明するのは存在1つで足りるが、無いことを証明するのは全時代の全世界を調査せねばならず困難なのだ(悪魔の証明)。すなわち、無いという原因を探ることが疫学の現状では困難なのではなかろうか。しかも、疫学が無理なら純粋な科学的因果関係ということになるだろうが、活性酸素ではそういう牽引の関係をどれか1つに明確に存在を提示にするには、なんらかの科学的立証か、「相応の大量にある」が提示されねば分からないだろう。

つまり、「有るとも無いとも見当たらない」のかもしれない。ただし、「膨大な事例に、そういう原因は直接的には無さそう」なことは完全ではないにしても、見当たっているかもしれない。こういうことだから「笑顔で居ればまず適切だ」と精神的ストレスに関してまず言われるのも納得し得るのだが、被災していて怒ったり悲しんだりしているところに頭ごなしにそう言われたら反感を買うのも必然であろう。

いずれにせよ、超・低線量での因果関係を探れるかということと関連して、それに付随している主義である脱被曝論の分類は自分なりに客観化できたかもしれないと思うので終わりにする。本来ならばもっと、分類名の定義から事前に定めてから進めるべきだったかもしれないが分類学の専門家でもないためこのエッセイでひとまず十分としよう。この構造分析によって何をどう考えていくかは読み手に任せたい。人様の幸せな世の中が来ることを祈る。

わたしがしたいのは、自分のなかでけじめをつけていくことである。だから多数の文献を用意してこの問題に取り組むなどのことをしていない。この8年間で自分が生きていくうえで自然と触れ合ってきた経験と環境省サイトやウェブ情報をもとに、思考を組み立てている。そしてそれは現実を哲学するというわたしの目的の1つであった。

この3・11東日本大震災と原発事故によって目覚めたと言っても良い自分の思考を、その場所から、ここからしっかりと構築し始めて発生としたかったのである。よって、WELTGEIST FUKUSHIMA9号における自由詩人的な原発避難発生的認識論の続編は、危機から発生したその後の哲学だと言って良いのかもしれない。危機直後は2号であった。今この文は、闘争その後だから、「ポスト闘争の思考」であろう。その意味では、自由が、始まるのかもしれない。