実害論を終わらせる。吉田邦吉

2015年ごろ。かつて私が風評被害論を嫌ったのは、多くの人々が風評被害も含めた実害で係争中なのにその損害を見えなくしようとする二項対立の動きに用いられていたのがそれだからであり、まだその科学的な情報も周知されていない頃だろうに恐れる人々を嘲笑し、なおかつ、当時は非常に巨大な復興ムードが強すぎて強制的に避難させられている私たちの存在があまりにも影だと判断したから公平性を考えたなどのことが理由である。

あの頃は今の野党が政権だった。多少は勝ち取れた面もあるのだが、最終的に私の闘争は恐らく2016年ぐらいで負けて終わっていた(私自身は気付いていなかった)。今は、大勢が泣き寝入りしていて、なおかつ、復興ムードが弱くなりすぎて、旧含めて避難区域の関係としては良いことがなくなったままであり、むろん私は無念に思っている。帰還困難区域の復旧復興は今からであるのにブームも終わってしまった。これからが長いのに風化である。

しかし危機ほど肩を落としてばかりいられない。勝負が終わったのだから潔くスポーツマンシップでいたい。一家をそして故郷を守りたい。ゆえ、風化は防止したくても、闘争というより大きな交渉時期がだいたい終わって、生活再建時期にやっと居始める私たちにとって、暴走的でスタンドプレーな実害論が必要とは思えない。福島にとって脅威にすらなるだろう超低線量被曝強調論がついて回っていることにも困惑している。福島に来ない関わらないのに暗黒しか取り上げないとか、来ても汚染アピールばかりして帰るでは嬉しくない。被災地を貶めて終わりにしないでほしい。被災地には続きがある。

元々この超・・・強調論に関し私は懐疑的である。そもそも被曝が深刻問題になるのは除染作業や原発作業ほどの被曝量であったと思われるからだ。むろん学究や意見などは自由だが、生業にも配慮ぐらいマナーだろうと思うのである。私たちは福島や地域が大事だからだ。外に居る人々は福島を言いたい放題に苦しめても、自己のテリトリーに帰れば普通に暮らしていられる。故郷に居たい人々はダメージ受けても故郷をやめたりできない。傷つけるは一瞬。回復は年月かかる。状況が不公平なのである。

日本全体でのブームは終わり、県民大体の表面での闘争も終わり、実害論ではもう直接的な当事者を守れない。それなのに福島に来て粗探しするかのようにガイガーカウンターを振り回し、しばしばネットで晒して政争のための批判をするばかりの強烈すぎる実害論をしたら、今度は直接的当事者たちを苦しめる。目的が転んでしまうのだ。もし、どうしても高い所のみ計測してネットに出し続けたいなら、自分でリスクをとり、自分の暮らす地元の線量計測でやり続けるべきだろう。すでに大変なことが分かっている福島でなくていい。自己の実際生活や除染申し込みのためもありえるのだし計測自体すべて駄目と思わないが、愛は必要だ。普遍的な人類や国家のためなればなおのこと福島には穏やかで良いと思うのだ。

今も読まれ続けていて何万閲覧だったか。福島農家のかたの引用によって私の提唱したそれは巨大な数値に、当時2015年は最も上った。読んでくれた人々に感謝している。けっきょく風評被害論者を含めた賠償の件もあって当事者たちに何でもが必要とされていた最後の時期だったからである。そのあとはある意味その数値で満足と思う他ない状況だと分かって、今度は旅に出た。合計二ヶ月間、沖縄へ集中的に滞在した。いろいろと学ぶことができ、豊かな収穫をえられた。沖縄そばうまかった。それから修行に入り、静かに暮らし始め気付けば2019年だ。

今度は、他所から投げられる福島実害論や福島脱被曝論が、もう福島で暮らす誰にも、ほとんど直接的な現時点での価値がないと私には思える。現実は厳しい。県民全体の郷土を守るその闘争は終わったのである。しかしそのころ同時期に、半減期と除染によって、かなり線量が低減したことがわかりはじめてもきた。時は経過する。負のイメージを固定し続けてはいけない。私はこんなに下がると思っていなかったので確かに理解したのは2019年初頭ごろと遅かったが、驚いた。のであれば、なおさらだ。そこで生きていく人々の風評被害を第一に回復すべき時期に入った。ちなみに、帰還困難の中で線量が非常に高いエリアについては明確に、実害論どころでもない。そこについては次に国がどういう政策をすれば人々が折り合いをつけられるかなどであると思われる。

たしかに実害一般は日本中にゼロではない。怒りも悲しみも時には思い出す。だが人生は短いので、未練たらたらで居られる暇もそんなにないのである。粗探しすれば汚染高い所あるだろう。山の食べ物には一部規制が残っているかもしれない。だが一般の食品検査は不検出が長く続いていることも分かってきて何とかやってきた苦労してる仲間がいて、しかも私は昔から、風評被害も実害に含まれると書いてきた。いま大事なのは概ね風評被害という実害から故郷福島を守ることである。その意味に関係して、ネットで過剰な実害論アピールによる実害は回復していないことを散見する。だからこの文を書かねばならないと公平性を考えて決めた。1度全て書き直したほどこの文章は難しかった。この件で闘争まではしたくないので無理に説得しないが、そっと手紙を置いておきたい。ありがとう。

よって私は、実害論を終わりにする。

ALPS処理水よりも漁業関係者の暮らし優先的な議論を。吉田邦吉

いつものことだが、今回も草稿をウェブマガジンに出して、いずれ紙にするたたき台メモにしておきたい。いくつか、ALPS処理水(アルプス処理水)に関する論考を読んだ。そのなかで以下の主張系統が見られた。

ア、たとえ放出したとしても再生プランと補償が必要など
イ、そもそも利害関係者たち(ステークホルダー)との長くてしっかりした協議を積み重ねていく
ウ、双葉郡内に36年ぐらい保存(トリチウムの半減期により1/8となる等)

ア・イ・ウの意見のすべては、いずれ流されてしまうのかもしれないという危機感がどの意見にも見て取れる。そのうえで、アとイはだいたい、もし流されてしまうのだとしてもフォローすべきという方向性を持っている。当然だろう。

ウの意見は流さないで36年間など保管するという方向性であった。環境影響のいろいろな仮説や理論を学ぶことも重要だ。ただし問題はそれが双葉郡内だということである。一定の土地に置きたいと思うなら、そこがステークホルダーになるのだから再生プラン補償などのフォローを双葉郡にも福島県にもその周辺にもしなければならない。双葉郡にも漁業関係者がいる

ふと思うのは、「36年で8分の1になる」ということである。言い換えればそれは、流したとしても36年で8分の1までに地球上で減っていってくれるということでもあるのかもしれない。フォローはどのぐらいということの参考のひとつになりえるかもしれないが、風評被害というものを甘く見てはいけない。ある人々は科学的な話を意地になって聞かないのでもないと思う。

一般的に言って糾弾する文章は拡散しやすいが考察する文章は拡散しにくい。しにくいということは広まりもしない。風評被害を相変わらず一気には防ぐことができないのである。争って広めたとしても、それは争いや攻撃的姿勢であることが明白だから、むしろ根強い反感を残し拡げさせることへ多大に押してしまうだろう。

風評被害を減らそうと無理に押し付けると風評被害を増やすという、ミイラ捕りがミイラになるようなことに気を付けていたい。例えばデマを無くそうと思ってそのデマの用いている過激なイメージ画像などを大拡散していくと、むしろデマのほうが先に拡がっていくことである。なにを拡散しているのかというシンプル・ストレートなことを考えたほうが良い。

私個人はその処理水をもし流されたらどう思うか。非常に腹立たしいと思うだろう。かといって双葉郡内に無断または不十分な再生プランやフォローなどでタンクを増設され続けるのも精神的な苦痛を感じるに違いない。ましてや、その場所でこその生業やアイデンティティなどがあるのだから、そこから移動できない一次産業の生産者たちはどうすれば良いのか。

こういうときは直接の当事者の暮らしを思うのが先決である。まず最初に、漁業関連の人達が安心して暮らせる政策だと漁業関連の人達自身が思うなら、私はそれを受け入れたい。そもそも私の親族には遠洋で漁業をしていた者がいる。それらは平々凡々と獲れるものではなく、命がけであった。大自然を相手にする生業というのは言語ゲームではない。後継者や担い手不足のなか国防的自給率にも必須産業として関わる。貿易や経済だけでなく気候変動や戦争などにより食料や水などは大いに不足するかもしれないことがある。

そうであるから、ある一個の生産物を食べるかどうかを選べる立場と、そこで長い間に向けて生産し続けていく立場とでは、意味が全く違うのである。お金の支払いが大事でないとは思わない。ただその2語の違いを考えずに並列に並べての議論は本質を外してしまうだろう。命がけで生産された海の命を毎日いただき、海ほどではなくとも土の上で命がけの生産を職業としている私は、その海に対してどうせよと軽々に言うことは慎みたいと思ってもいる。

一つ言えるとすれば、流す流さないの前に、この話題の負担を受ける中心である海の人達の暮らしを最優先せよということなのである。したがって、なによりも優先的に再生プランやフォロー計画などのほうを考えつくすことが先だ。そのうえで、流すか保管するかなどを考えるべきである。そもそも人は、一次産業のことを何だと思っているだろう。そもそも生産物の価格や生産者への対価が現在において他の労働と比較的に妥当だと思っているだろうか。

農業という、大地や大海などでの生産は、国防的に必須であり命がけでもあることを忘れないで欲しい。それがどういうことかを、しっかりと日々に想像したり学んだり、教育に活かしたりしよう。それに漁業関係その人たちに向けて自立という言葉がなぜか使われているようだが、不要だと思われる。なぜなら彼らは/私たちは、自立してきた/してきているからだ。そこにダメージがあるからフォロー補償プランなのであって生産者が自立していないのではない。

畏敬すべき大自然から命を頂くため、自らも命がけで生産者たちは立っている。このエッセイはひとになにかを強要するためのものではない。私の意見を読み手が受け取ろうと保留しようと反論しようと自由だ。この文は「生産活動とは何か」という一つの「問い」として、社会に投函していきたいつもりでいる。

ふくしま表現の自由はやさしい 吉田邦吉

あれこれと、これは適切だこれは好ましいと私が考えて書いていることを、もしも他人に押し付けたら、私の個性ではない気がする。福島を自由に表現する権利が人にはあると思うからだ。それが憲法上保障されている表現の自由である。

「ただし嫌がらせは拒絶するが」

民主主義というものは、政治や社会において、一般民衆が、それぞれ自由に議論し、世論の形成そして選挙などで、決めていくものである。最終的に判断するのは代表者たちである議会というのが原則である。

目的は、「個人の尊厳や幸福」など

そこで権力の態様や姿勢などを違う方向性へ進めたい、または修正したいがために、いきおい批判を通りこして悪口になることも多々あり得るし怒りを表現するときに人々はあらゆる言い方を考えるだろう。

感情的にあれこれ思うことを率直に口にする権利が人にはある。それらの思いには大義がある。家族を守りたい。人々を守りたい。社会を大事にしてほしい。人類平和であってほしい。そういうことが動機であろう。

そういう言葉や表現などを権力が取り締まって、つまり弾圧してしまい、問題が起きていったのが戦前や戦中の歴史である。ときには民衆のほうでも暴力事件を起こしたかもしれない。

だから、権力批判であっても平和的な手法による表現の自由というものを、しっかり国民の努力によって国家に守らせようとしているのが今の日本国憲法だ。そのほうが権力側に立つ人々にとっても平和だから安全で安心なのでもある。

一般民衆というのは、それぞれに自分の生業や専門を持っていたりして、そこには詳しい。だが、政治やその都度起きる問題の専門家ではないので、言葉や表現の形式がその時に完璧とは程遠いこともしばしばである。

そこで齟齬が起きる

「そういう表現はイヤなんだけどなあ」「見なきゃいいでしょ」という残念な問題がどこででも起きる。私自身、いったい何度「もう見たくない」「疲れてしまった」「へとへとだ」「ごめん」ということがあったか数えきれない。それに「どれがデマ」といったことに時間を割きすぎる必要はないとも思える。

そこで、こう思うことにした。

人の表現は自由だが、私も自分で、ただ好ましいものや適切だということを表現する自由があるだろうということだ。なぜなら、避難者、農家、福島県民などと数種類において直接多層の当事者だから偏見や誤解による損害を受ける立場。だから減らしていきたいのである。

悲しみや怒りを表現するのは一般の人々や当事者の自由だ。しかし、当事者は当事者の傲慢を喚き散らすような存在で居続けないほうが好ましい。当事者だという主張をもって他人に何も言わせないような存在であってはならないのである。つまり、周囲の人もそれは同じことだろう。

国のためでなく、福島のために協力してくれたら嬉しい。

たとえば「汚染水」の中でもその処理がされたものを「ALPS処理水」などと配慮してくれたら有難い。汚染水は何も処理していないものであり、やはり処理水のほうとは物質含有量が違う。違うものを同じにしたら議論が不正確だ。

たとえば「汚染土」の中でその処理がなされたものを「除去土壌」とか「処理土」または「基準値以下の土」またもはや「ただの土」などと言ってくれても有難い。なぜなら減容化処理の機械的工程や計測などの分別処理行為を終えたものと未処理のものと同じではなく、処理済み同等のものは巷に溢れている

取り上げて袋に入れたほうの土や木々など、つまり、中間貯蔵施設へ運ばれるものは、トンバッグやフレコンバッグまたは放射性廃棄物などと呼ばれるであろう。それだって分別処理や半減期を次々と過ぎたら可能性をもつので本来は未確定なのだが、あまり微細には考えない。自分でも忘れるから。

ここで「表現を変えさせて国や東電の責任を免責するつもりか」という批判を、今まで権力批判してきた私にしてくる人々はそう居ないだろうが、敢えてそれにも返答しておくと、土や水の種類分けのための名称の違いによって彼らの責任が軽くなったり重くなったりしないと答えたい。

つまり「言葉遊びでもない」し「加害者免責でもない」。ただただ「福島に暮らす人々のため誤解や偏見を減らす取り組みへの協力」だと考えてもらえたら幸い。私だって一般人だ。間違えることもある。べつに強制しない。もしもいつか、この文に目を通し重要だと思った場合にその方向を考えてくれたら嬉しい。

もしだれかに無理強いされたり悪口バッシングを集団的にされたりした後で、この文章を読んでも賛同したい気分ではないだろうと思う。だから、そう思わないのに無理をする必要はない。自由で居てくれて良い。自粛ではなく自発性が大事だ。私は優しさの話をしたいだけなのだ。

作 Y

ただ「自分のそれと同じように自分のそれで傷つく人も居る」ということだ。ある言い方をしているがために他人から無理強いされたり嫌悪されたりして傷つくその自分の気持ちと、ある言い方を自分がしているがために誰か他人が傷つくその他人の気持ちと、同じなのである。

これは、言葉ひとつふたつ単語のことでしかないのだが、言葉ひとつに考察を巡らし、われわれ日本語話者の使う言葉をあれこれ形成していって、それで可能な限り適切な議論を展開し、より人々が納得できるような話をしていきたい。

あれこれ争いを見るのに疲れて居ませんか。
ほっとしたいものですね。

福島的関心の分析その5ラスト 吉田邦吉

互いの「基本的人権は衝突することがある」から、その場合にはバランスの考えにより法的に制限されることがあると4で書いたことを、別の件について哲学するために応用してみる。

作 Y

相手の生活に邪魔なほど自我ばかり塗りたくった贈り物は相手にとって要らないものである。言い換えれば、ちょっとしたつまらないもののほうが相手にとって喜ばしいことがあると言える。

そう、ささやかな話、リラックスした空気。

なぜ、私がこれを書いているか。それは相変わらず人のこころを離反させてしまい分断させやすい表現を展開し続けて懲りない人々に知ってほしいからであり、そうでなくても、多くの人々にこの状況を知って欲しいからである。

当たり前のことだが、この図の意味は実に深くて、相互的共感への糸口になるだろう。と書き綴って、そろそろ目や手が疲れてきたと感じる。5時間でざっと書き上げたものである。読んでくれてありがとう。

「(草案)」をつけてないが、むろん私たちのウェブマガジンは草稿扱いである。私自身、あとで読み直すと、「説得しようとしすぎだな」とか「強い言葉を使っているな」とか反省する点も多々ある。精進したい。

それにウェブというものは、SNSの次の次ぐらいに強い影響力がある。また別の意味においてはSNSを軽く超えていくほどの影響力すら実は質的にも量的にも持っていることはライク数という見た目に隠れてあまり知られていない。

話を戻そう。

いやはや、 憲法は奥が深い。思えば福島は、自由民権運動の歴史的な場所でもあって、そのことの一端は、写真家の中筋純さんとともにフィールドワーク(会津)を重ね、ダークツーリズム・ジャパン2に書いたのであった。

そう、現場に出かけよう。この、ホープでもダークでもスタディでも何でも名前は任せるが、福島的関心というものについて思うのは、やはり、ネットだけでなく。できれば、福島というこの地を実際に知ってほしいということである。

来て、見て、感じて、福島の人達と話して、なんでもよいからほんとの福島を知ってほしい!そう思わずにはおれないような、もどかしい夜を、ぼくらは何度過ごしただろう。誰しも旅行など簡単ではないから、事情は分かる。

ゆえ、できるだけ想像力を持とうとしてほしい。文字面に惑わされてはいけない。リアルタイムのニュース地獄に惑わされてもいけない。目の前の人々についても同じだ。成長する優しさこそが世界を変える。

それが私の福島的関心である。

その1へ戻る

福島的関心の分析その4 吉田邦吉

それら反感はどこへ行くのか?すくなくとも反感を抱きまくっているのに強い野党支持者になる感情割合は減るだろう。むしろ強い反動リアクションすなわち憎しみさえも抱える者も出てくるのだが(参考「walk away運動」)。

基本は、無関心または中道傾向または保守化や与党支持だったりということになる。そうして福島的関心というのは、激しい手段のグループが動けば動くほど、一致団結して反動していく。福島で暮らすため自己防衛の感覚である。

作 Y

なお、激しい手段のグループが動かなくても無関心は増長するため、ほぼ同じような結論を導いていくことになる。この話に異論があればお待ちしているが、現状の現実政治的な空気を思うに私個人はそう感じる。

とはいえ数的に言って、この話は今そんなに大ごとではない。その証拠に選挙の数々の結果を見て見れば分かるように、議席の割に野党の得票数も多いのであり、この分析とは裏腹に真逆の結果つまり政権交代の機会すらなくはない。

しかしその「多数である浮動票の動き」(投票先が変わりえる人々の動き)こそが選挙の勝敗を決してきたのが長年のことであるかもしれないこともまた、丁寧に考えに入れておかねばならないだろう。

左派にも秩序ヒエラルキー、権力構造は、確かにある。長く権力を持てばそこは腐敗しやすくなれる。腐敗したら脱走する人々が増える。法的な権力ではないから、脱走して、なおかつ反感を持つ人々の割合が増える。

本当にそれで良いだろうか。本当は、人は、みんな同じ人であり、みんな互いにそれぞれを尊重しあって、それから話し合おうというのが目標であったはずである。憲法で個人の尊厳は味方にだけあるのではない。

憲法は敵味方の論理で動いていない。
そう、私は思う。

憲法は確かに権力者へ向けて第一義的に存在している最高法規であることは間違いない。なのだが、実は「個人自らの権利の矛先が一般個人という場合」には、自らの権利も憲法……というよりも相手の人権によって制限され得るのだ。

人のいない野原で昼間、おおきな音で音楽を楽しむという自由を人は持っている。だがその自由は、人の多いマンションにて夜中であれば、大音量の演奏をする自由が制限されていくのである。なぜなら他の住民たちが静かに夜を過ごせるという人権があるからだ。これを別の件に応用してみる。

5ラストへ続く