若者に申し上げる 吉田邦吉

私はそろそろアラフォー。
10代20代に申し上げる。

「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく 「批判」や「対立」への強い不快感 野口 雅弘 2180713 現代ビジネス 講談社

野党への支持率が絶望的に低い。特に若者世代ではその傾向が顕著だ。そうした「野党ぎらい」の背景には、若者世代が「コミュ力」を重視している事実があるのではないか。コミュ力を大切にし、波風の立たない関係を優先していれば、当然、野党の行う批判や対立を作り出す姿勢は、嫌悪の対象となる。摩擦のない優しい関係が社会に広がるなか、野党の置かれた立場は難しいものになっている。引用

たくさんの調査が示しているように、年代別の自民党支持率では、「若者」の支持率の方が断然高い。近年、「政治に関心があります」と言って、講義の後に私に話しかけてきてくれる学生はだいたい「保守」だと名乗る。ジェンダー、歴史認識、憲法改正など、いずれの論点でも変わらない。かつてのように「問題意識がある学生は左」ではまったくない。引用

話題は新聞を読むか否かよりも、コミュニケーションのほうへ移されていく。

そこでは、疑義を呈したり、コミュニケーション上の衝突といったようなことは、避けられるから、野党のような方法論は、かなりの割合で忌避されるものだ、ということである。確かに、非常に説得的で、まっすぐな分析の仕方のように思われる。一般の生活で、野党のような言い方を会話の相手にしていたら、それは若干あり得ないことだと思う。抵抗の思想家を忌避するについても、日常生活で日常会話にそんなことをしていたら、生活できない。

しかし、野党の方法も、抵抗の思想家も、どちらも日常での方法ではないのに、日常の物事へ適用しようなどというあやまった考え方や理解から生まれていると思う。国会や文壇といった場所で、いちいち、空気を読んだような討論の仕方や書き方をする必要はない。しても良いが。時間が限られているところでは、基本的に最小限度で要領よく伝えることが求められる。それを空気を読んで調整して良い感じにやってくれとは無理がある。

たとえば、低収入の人達にとって悪い法案と思われるものは何としても「反対の姿勢」を「国民に国会で伝えること」で「国民が次の選挙で投票先を変えることによって、変わる」のであるから、一定程度の言論パフォーマンスは討論上、必須不可避のものだ。それを「感じ悪いからああいうのやめとこう~」などという扇動に乗せられる庶民の子らの嘆かわしいこと。自らの首を絞めている。

この記事の筆者は、与党と野党の緊張関係がうまく国民はつくれず、それどころか、どんどん野党叩きや野党バッシングが高まっているととらえている。しかしそれは「一人が匿名アカウントをいくつもっても許されるTwitterでのこと」であって、現実社会での選挙の得票数では、野党のほうが得票率が多いことのほうを忘れている。少なくとも半々だ。そのことの重みを簡単には「野党叩きのほうが強まっていき、バランスが完全に崩れた」とまでは言えない。

与党側のTwitterユーザーの一部のライターや言論人らは、徹底的に相手を「嘲笑・冷笑」のために「わかってない系」に陥れるような物言いだけに終始するようなことが多い。ほとんど中身がないのである。福島で言えば、常に「反原発が悪い」「デモが悪い」「風評加害だ」という調子であり続けるこの7年間。ななねんかんである。この重みをとくと味わって考えていただきたい。それはTwitterである。国会の中もそうかもしれない。

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思うに、若者が社会のなかで一定程度の「一人前」になろうとしたら、社会の仕組みに入っていこうとしているのであるから、社会のなかで、そんなにやたら波風を立てるような物言いをしないよう、つまり避けようとか、批判的検討といった考えを抱いている場合ではないと考えるのも、無理はない事情もある。就職氷河期などはその典型だろう。

社会の体制に入っていく以上、「入る前に体制批判をしたくない」と考えるのは自然だ。「自分たちを批判してくれる若者を採用します」と公言している会社がどれだけあるのだろう。むろん、私人間の就職の話と、公的な議論の話は、違うものだから、あまり一緒くたにはできない。

ただし実のところ、最新の本物の、国際社会で過酷な競争にいる企業は、波風たてないだけの凡人を心底必要としているか。現実、その替わりはいくらでもいるのではないか。といっても企業のほうではこう言うかもしれない、適材適所。それに、なにもそういう就職が全てではない。

若者にはそれぞれのターニングポイントがある。30歳になったら、一人前になったら、人生に一区切りついたら、収入がいくらになったら、人生に時間ができたら、といった、なんらかのモラトリアムが終わるとき、「社会という体制のなかで一定の立場を得たとき、ものが言えるものと思っている」のが、若者だと私は思う。

ただ、物事や社会への一切の疑問を持たずに、答案の点数が良くなるだけの勉強しかせず、特段、深い考察をし続けたり、抵抗して現実に勝ち取ってもきた、守っても来た、そういった先人の苦労に学ぶこともない若者が、次の社会で、どのような未来を作り上げることができるだろう。若者も想定してみてはどうだろう。

与党しか存在せず、翼賛しかせず、御用しか存在せず、賛成しか言わず、同調しかせず、すべては財産の過多と軍事力の過多によって決し、よわいものは泣き寝入りし、成績の順番から完全に就職は腑分けされ、批判をしようものなら刑罰ぐらいの社会になっていったら、おもしろいのだろうか。多分ほとんどの若者が、致命的な大損人生になるはずだ。つい最近まで日本はそういう国だった。

あまりに半人前で未熟すぎると自分で思う若者にすべてを考えてすべてを疑ってということを考えろというのは現実に難しいことだ。彼らが一定程度「翼賛っぽい良い子たち」なのも無理はない。与党的な大人たちに何をされるか分からないからだ。日本は投票用紙に自分の名を書かないから安心してもらいたい。

だれかと分かち合う幸せは倍増する。痛いものは痛い、辛いものは辛い、悲しいことは悲しい、貧しくて辛いなら辛い、そういった、ごく基本的なことを、素直に言える社会が、あってはどうなのだろう。それを誰かのためにも、みんなで少しでもなんとかしようとする社会はきっと。

闘っているように見えて、
やさしい社会だ。