モリカケと安全神話に思う。 吉田邦吉

モリカケ問題は政治に嘘だらけだと言われている。もし嘘の政治がはびこるなら、汚染があっても無いような話になり、あたかも全てが風評だというような雰囲気になるだろう。それも、風評被害ですら賠償は切られていることは言われていない。こうして、嘘に嘘が続き、全てが嘘であるから、まるで福島までもが嘘をついているというような政治風評をもたらしているような気さえする。東電はどこへいったのか。いちど除染しても汚染が高いところは何度でも除染なり研究なり考えていかないと福島の、復興どころか復旧すらままならない。それなのに政治が福島を見ていないのは嘘を取り繕うために嘘を重ねることに追われているからではないのかという疑問が出てくる。嘘を隠すには新たな嘘が増え続ける。原発が安全だというのは、巨大で悪質な嘘だった。これを安全神話という。今は明確に巨大な証拠がある。まずここから何とかしていただかないと福島の復興はあり得ない。愛媛県知事が言った「正直」が一躍有名になり、響いた。「モラルが酷い」というのは、戦中から、または、70年以上前から国民全体で叫ばれ続けていることを最近知った。こんなところからいっこうに改善しないように見える日本はいったい何を誇り、次世代に繋いでいくのだろう。悪質タックル事件は事件の個別性を超えて日本そのものを感じさせたのは、何故だったのか。そんな気分である。悪質な嘘は敗戦と原発事故の始まりである。悪質な嘘は卑屈と媚びへつらいの表面である。嘘は戦争と原発である。嘘は独裁の始まりである。最近では選挙で政治家の公約とは一体何なのかと思うことがよくある。文部省著作教科書は、政府が国民を欺いたから大変なことになったと言っている。野党叩きばかりする人達がほとんど言わない、権力の重大フェイクこそ見抜こう。何度でも福島の現状を検討頂き、何度でも抜本的な再回復につとめるような正直を、みんなの「まつりごと」を楽しみにしつつ。

熊川が泣いている。吉田邦吉

20180522 東京電力福島第一原子力発電所 撮影:吉田邦吉 大熊町 Fukushima First Nuclear Power Plant

20180522 東京電力福島第一原子力発電所 撮影:吉田邦吉 大熊町 Fukushima First Nuclear Power Plant

 初夏の陽射しが強い5月22日。フクイチが目の前だった。小さな崖を降りれば目の前にフクイチが居る。あの野郎が居るということだ。まだ居座ってやがった。しかしここは潮風が吹きつけ、寄せては返す波間に、美しそうな海、東のほうには船が浮かぶ。中筋純さんと宮尾節子さんが東北旅行だそうた。私は一部の案内をした。大野駅は言っている、「観光名所 原子力発電所」。中筋さんにはいつもお世話になっている。新しくできた立派な大熊食堂を御馳走になった。高い。地元の人は誰も来てない様子だったが原発関係の人が多いのかもしれない。周囲は東電ヒルズのような住居群が建てられていた。食堂のサイズの割りに小さい客用駐車場は彼らでいっぱいだった。「客用」。宮尾さんの「明日戦争が始まる」に私は影響を受けた者の一人だ。宮尾さんはふるえながら「笑顔」という詩を読んでくれた。スクリーニング場ではF1レースのピットインのように大勢が声をあげて一気呵成に仕事を為す。ああ海……この海は太平洋!この向こうにはアメリカ!昔からそう思った。太平洋と草木たち、の向こうにはフクイチが!原子力は爆発した!ゲートだらけの「off limits area」には日本のために押し付けられた闇のピラミッドの群れが森をなしていて、その奥には、やつが潜んでいた。わずかのぞかせるやつの顔を私たちは肉眼で見た。大地震と大津波で家がボロボロのまま。あとは基礎だけ。まだ瓦礫がある。その付近の神社にはむかし巨木にカミナリが落ちたような記憶がある。その周りを黒い山が囲み始める。音もなく匂いもなく、色もなく味もなく、ただ、ぎらぎら、ギラギラ、ギラギラ、ギラギラ、みんな吹き飛ばした。・・・・・・振り返れば、そよそよ、さらさら、きらきらとかがやいて、細くなって流れていた、熊川の光が、ひんやりした海に、とろけるような黄金色で、よこたわっていた。たまたま計測した地点の砂浜は県内でもだいぶ低いほうだろう0.07mSV/hだった。だれかが山のような瓦礫を片づけた後だった。ひっくりかえった堤防に小石が積まれていた。線量が高いのは地面だった。電気柵に囲まれた牛たちが梨畑に居て草を食べていた。「やあやあ」集まってきた。「そうやって挨拶するの?」。少し話した後、ぶふぉん!ぶるうん!なぜか猛ダッシュでリーダー格の巨牛の号令か、どこかへみんな走っていったのは迫力があった。マイペースな数匹は行かなかった。草むらにはイノシシが居た。家々の跡に大津波がつくった潟があった。あやめが咲いていた。野ばらは美しく咲き誇っていた。大自然が飲み込もうとしていた。朽ちていく匂いがした。白い月があがっていた。「女の子が傷ついた理由を泣きながら話すとき、ひっく、ひっく、となりながら、言葉になっていないのに、伝わること」「はい、ニラの苗」「詩は人間の感情を文字という記号に転化させたもので、いわばレトリックを超越した呻きのような、人間の原始の言葉そのものだね」「ずっと思い続けてきた場所が今ここに!」。黄色い屋根の喫茶店がなくなっていた。酒屋さんかもしれない大谷石造りの蔵は今も在った。友人の家がなくなっていた。見慣れた風景がところどころ消えてなくなっていた。傷だらけ。しかしまだ100年も前に存在したかもしれない青春を思いながらクラシック音楽を聞くようなセピア色の風景のなかに居た。ここで遊んだんだ。すこしの貝殻に、さらさらの砂に、海の家があって、浮輪があって、沢山の人達が居た。きれいだな、本当にきれいだ。

2018年5月22日 大熊町熊川海水浴場の熊川 撮影 吉田邦吉 Kumagawa river(しかし標識にはkumakawaとあり、あれは間違いではないのか)

2018年5月22日 大熊町熊川海水浴場の熊川 撮影 吉田邦吉 Kumagawa river(しかし標識にはKumakawaとあり、あれは間違いではないのか、正確には「くまか゜わ(kumag̃awa/ kumangawa)」だ)

※後日、お二人が作品を創造してくれた。
吉田果樹園の除染前後 中筋純 201806 
スピカ 宮尾節子 20180615

「逆・差別ふくしま」の問題を考える。吉田邦吉

たとえば避難者が声を挙げると、Twitterでは大抵「一部の目立つ人達ばかりに声が聞かれ、われわれ平凡な福島県民には何ら光が当たらない!」というように迷惑噴飯ものぐらいの話をされるのを私は何度も一部の人達の言説で目にした。彼らは同時に「デマ撲滅」「放射能少しなら安全」「福島差別」の主張をする。

これはアメリカでは古い話に似ていることに最近、思いを致した。つまり「逆差別」の問題なのである。ごく簡単に言えば、「アフリカ人がアメリカで差別されていることを理由として、なにかしらの白人の枠を減らすことなどにつき、白人への差別だと主張すること」だと私は理解している。むろん厳密にどうなのか学んでないが、メモとして。

まず、ことを整理する。私の考えは、こうだ。

1、Aさんたちの不幸がある。
2、Aさんたちの不幸を解決する必要がある。
3、Aさんたちの声を聞く。

これが通常「復旧」と言われるものである。
追加して「復興」もあり得る。

これが、逆差別の主張だとこうなる。

1、Aさんたちの不幸がある。
2、Aさんたちの不幸だけを解決するのではなく、
3、自分たちというBの日常を聞け。

とても理解に苦しむのだが、この式ではAの不幸は相対化されてしまい解決は遠のくだろう。Bがものを食ったり遊んでいる話ばかりを「無理に」聞かされることになって、それが被災地なのか、被災を回復する必要はないのかとすら思う。

するとこういう反論が返って来る。

1、福島の不幸を搾取するな。
2、福島は不幸だけじゃない。
3、福島の幸福を聞け。

いつの間にか、被災の話は、どこか遠くへ行ってしまうような気がしてならない。むろん私は福島の楽しみを最も知る者のひとりだと自負するし、明るい話おおいに結構。そういう話はテレビで毎日毎日ずうっと観ている。

それでも彼らは言う、

1、被災者でなく、
2、脱原発の話でもなく、
3、俺たちの話を聞け。

いつも思うのだが、同じ被災地や同じ被災者の人達の話を私は聞きたいとき、こういう話ばかりがTwitterにあふれかえっているのを見ると、いつもがっかりする。彼らは酒を飲んで食べ物を食べてそれで良いなら、それで良いのではないか。なにかしらの「逆差別的な自説」を押し付けているようにしか見えない。

他人の足を引っ張っているようにしか見えないのが、「逆差別」なのかもしれない。いわゆる「平凡を強調する」ところにも、彼らの特徴はうかがえる。ただのオッサンというような自称をする人達のうち、その一部が、不幸な人達を、酒を飲みながら「逆恨みしている」ように見える。

もともとは「あまりにもひどい風評被害になるようなデマを、できるだけ信頼性ある話を中心に、それをたたき台にして、みんなで、それなりに妥当そうなものを探し、できるだけ明確な間違いを減らしていこう、事実をありのままに伝えよう」だったのが、いつの間にか、「風評加害は福島差別という問題」にすりかわり、そこに正義感と愛郷心を燃やし、Twitterで他人を排除する。

それを言う人達は、笑顔でこう言う、
「普通のオジサンです(^^)」

普通って、なんなんだろう。つぶやくほかない。

日本人という存在 吉田邦吉

 いろいろと解釈はあり得るでしょうけれど、日本人が初めて国際的に発生したのは、ある点によって今回は、明治時代からだと私は解します。それまでは「倭やアイヌなどのひと」でした。日本という国号は7cの飛鳥浄御原令からあっても、ほとんどが「それぞれの国に忠誠」であり、江戸時代などでも言わば「藩に忠誠」でありました。バラバラだったんですね。そのバラバラでは、日本人じゃないと思います。それは藩人であるか、または、国民の意味が違うのです。

 それぞれの「故郷=藩」=「お国のひと」ですね。
 憲法が出来て、日本国臣民が発生した。
 日本全体という「自覚」が発生した。

 しかしそれでも、「また自分さえよければよしの無責任な大敗北」をして、非常に多くの人達の命が、あまりにもむごたらしい、残酷で、酷い、死に方を、しました。生き残った少なからぬ人達も残酷すぎる人生を送りました。その大反省のもと日本国民が発生した。今は、また、大量の無責任な「日本国民」が、あらゆる「無責任な売国」をしまくっていますね。そうして日本人は、消えるんだと思います。土台から無責任だったのですから、終わりも無責任でなんとなく終わるのでしょう。悲しいことですけれども。

 じっさい、SNSのひとしかこの話題についていけないと思います。もちろん、SNSやってなくても、毎日新聞だとか朝日や東京新聞などリベラルな読者なら違うと思います。われわれは、そういう「リベラル以外の日本人たちによって終わりを迎える可能性が高い」とも言えるのかもしれません。割合で言えばリベラル有権者は(私の想像で)4割います、たぶん。わたしはこれを以前から「反知性主義によって日本は滅ぼされるだろう」と言う言葉で代表させて言っています。言い換えれば「バカにやられる」と言ってもいいです(良いバカも居るでしょうけど今とりあえず)。

 政治を見てくださいよ。あれ、責任感ありますか。
 有権者を見てくださいよ。責任感ありますか。

 不正を憎み、自主独立の国家を持ち、個人が主体的に言論を行使していますか。ほとんどが「奴隷」ですよ。これのどこに自覚と責任感がありますかね。ないんですね。終わっているとはこのことです。自衛隊の人達は、「こんな売国バカどもを命がけで守ってる」と思ったら悲しくなりますよね。戦争が始まったら、日本国民は我先に逃げて、あと全て無責任だったのが太平洋戦争ですから、今度もまた同じようになるでしょう。「自分さえよければ良い」では「多くの人々がダメになる」のです。この辺りについて気になるかたにオススメは「文部省著作教科書 民主主義 径書房」などかもしれません。

 原発事故を思い出してください。
 日本国家は、誕生していたのでしょうか。