~ 震災の日から5年 ~  鈴木清一 (鬼生田開発プロジェクト 下巻)

平成23年3月11日の午後、この日も相変わらずの多忙極まる業務に追われながらも何事も無く一日が過ぎる筈だったが、その時は突然やってきた。

午後2時46分ズンズンズン・ドンドンドンと地の奥底からの体を揺さぶる様な地鳴りが聞こえたかと思う間もなく、ガガン・ゴゴン・ギシギシと3階建ての建物は悲鳴をあげ大きく揺れ動いた。咄嗟に皆がそれぞれの机の下に潜り込むが、机ごと体が建物の中を前後左右に移動し、各所で女性達の悲鳴が聞こえた。

このままでは建物が倒壊し我々の命も危ないぞ!数分後に地震は収まったが、その後何度も余震が襲ってきた。建物の柱は傾斜し、壁は剥がれ落ちて書類は辺り一面に散乱していた。皆茫然と立ち尽すばかり、一体何が起きたんだ。緊急用のテレビを点けると東日本大震災の広大な範囲に及ぶ被害状況を放映している。自宅や家族の携帯に何度電話しても繋がらない、皆無事なのか不安が募る。

何時までもこうしては居られない。広範囲に及ぶ停電の復旧に電力社員や地域の電気工事店社員が一昼夜寝ずの対応に当たる。

そうこうしている内に東京電力福島第一原子力発電所の1号炉・2号炉・3号炉でメルトダウンが発生し、水素爆発によりそれぞれの建屋が崩壊し大量の放射性物質が大気に大量に飛散した。「これでもう福島は終わりだ!」と思わず口に出しそうになったが、必死にこらえた。

この時咄嗟に思ったのは、40代の単身赴任時代(浪江・小高原子力準備本部)に家族同様に7年間お世話になった浪江町の人々の安否だ。

大津波の被害に逢い更に追い打ちをかける様に放射能汚染に見舞われ一家離散となり、避難先で体調を崩して亡くなられた方も多いと聞く。原発事故被災者の方々の為に私に何か出来る事は無いのか・・・・。

その思いは、年を追うごとに強くなり平成26年3月23日の鬼生田1区定期総会に於いて「原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト構想」を臨時決議案として提案し、参加者全員の賛同を得た。その場で一緒に中心となって活動する仲間も9名となり、現在は11名となっている。

その後、7月24日には鬼生田小学校の体育館に於いて、鬼生田1区~4区までの全地区住民を対象とした「原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト」の説明会を開催した。それからは、このプロジェクトの趣旨に賛同する住民の承諾書を得るために仲間と共に鬼生田の地域を奔走し、1区は全世帯から承諾を得て、現在は2区・3区・4区へと大きく広がっている。

その承諾を受けて福島県内各地に避難している原発事故被災者の方々との交流を何度も行い、27年7月7日には郡山市長へ西田町区長会会長と共に「原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト」の趣旨を説明し、その理解と支援を依頼した。

その後も各地域の仮設住宅にて避難生活を送っている自治会長を始め被災者の方々との交流を深め、家族と一緒に住める安住の地を求める切実な訴えを聞いた。

ある時、会津若松の大熊町仮設住宅を訪れた際の自治会長の言葉が胸に深く突き刺さった。「息子夫婦は孫達を連れて仮設住宅を出て行って久しい・・・・爺ちゃん生活が整ったら迎えに来るからな!と言っていたが、このままでは、先にあの世からお迎えが来てしまうなハハハ・・・・」と寂しそうに笑った顔が今でも忘れられない。

「このままでは駄目だ!一日も早くこのプロジェクトを実現して、原発事故被災者の方々が失った古里と絆を回復し、家族と一緒に住める夢と希望を取り戻せる協働のまちづくりをするんだ。会社勤めをしながらの片手間の仕事では、このプロジェクトは達成しないぞ」との熱い思いがこみ上げてきた。一日も早く鬼生田開発プロジェクトを達成すべく27年11月20日付で再雇用先を依願退職し、このプロジェクトに全勢力を傾ける事となった。

そうして、今まで任意団体として行ってきた活動を更に県内全域に広げて行くために地元郡山市はもとより、他地域の行政や関連団体との連携を深めて、社会的にも認められた公的な組織にして行くことが最良の策であると考え、特定非営利活動法人格を取得するべく郡山市NPO活動推進課と協議を重ね平成28年2月19日付でNPO法人として認証を受け、更に2月25日に法人格としての登記を完了し、NPO法人として成立した。

これから、鬼生田開発プロジェクトの達成までは数多くの困難な課題を乗り越えなくてはならないが、原発事故被災者の方々が家族と一緒に楽しく暮らす笑顔を夢見て、鬼生田の地域の仲間達そして原発事故被災者の方々と力を合わせて、行政からの押し付けではない、自分達が本当に住みたい復興の街づくりを目指したいと考えている。

鈴木清一代理吉田邦吉投稿
(これは上巻の続きである)

※吉田注……鈴木さんと吉田が出会えたのは第一回ヴェルト秘密会が秘密会であるとの連絡がいきわたっておらず米田博さんを通じて津田枝里子さんが唯一お客として訪れた偶然からである。

郡上踊りとローカル線と   伊藤千惠

ことしの盆休みの最後、どうしても岐阜県郡上八幡の郡上踊りに行きたくなって青春18切符で在来線を乗り継ぎ、片道400キロ、約9時間半かけて行ってきた。

日本三大盆踊りのひとつに数えられる郡上踊りは、江戸時代より400年、城下町郡上八幡で歌い踊り継がれてきた。
盆踊りは、中世におこった鎌倉仏教系の踊り念仏が起源と言われている。宮廷ではなく民草のあいだで流行ったのがかっこいい。
藝能のはじまりである「祭り」は、外からまれびと(客人)がやってきて、訪問された家の人がまれびとを歓待するために踊りや歌を供したことからくるのではないか、と民俗学者、折口信夫はいう。思うに、まれびとは神や霊や森羅万象の具現化したものなんだろう。
むろん生きた人間、村人が神や霊に扮して村の家を訪れるのであるが、歌や踊りを供してまれびとの魂を鎮めることに意味がある。
盆踊りもこの時期、この世に戻ってくる死者の魂を鎮めて、ちゃんとあの世に帰ってねという意味あいでなされる。
一遍上人のような諸国を遍歴した遊行僧がはじめた念仏踊りが盆踊りや風流踊りに、そして宗教性が薄まり田楽や猿楽といった藝能へ発展していく。

ずっと気になっていることがある。
この全国を漂泊した僧たちや藝能者は後世、と賤民して差別されるのだ。
動物の解体や皮はぎ、死者の埋葬などを職業とした人たちはもとより、山の民、海の民、巫、巫覡、神人とよばれる神社に属する下級職も含まれる。
死者の埋葬や動物の解体に携わる人が死や血のけがれにさわるという理由で差別されたという解釈は理解できる。
では藝能者や遊行僧のような人たちは定住しないから差別されたのだろうか?
藝能、祭りの淵源は神事につながる。古代天皇は祭祀王であったのか?
聖と俗。ハレとケ。けがれときよめ。聖なるものが賤視される。
諸国遍歴した遊行僧は聖(ひじり)と呼ばれた。
すべての研究書を読むほどのことはできていないが、定説はない。
決して歴史の表舞台で多くの人が熱狂する人物が登場することもないフィールドではあるけれど、私たちのこころのあり方や考え方を意識下で形成してきたものがそこにあるのではないか、と私は思っている。これからもずっと考え続けていくだろう。

それはさておき、私の踊りたい歌いたいという欲求が、「自分の内部に良き魂を招じ入れることが鎮魂ということ」という折口説に自然にフィットしてしまったので、誰が参加しても良いという郡上の盆踊りに行くしかないではないか。

期間は、なんと7月中旬から9月上旬にかけて33夜も行われ、8月の盂蘭盆会には徹夜踊りが4日間行われる。その徹夜おどり最後の16日、浴衣と下駄持参で行ってきた。
会場は毎日かわるが基本、ストリート。お囃子の山車を中心に細長く輪になって踊る。
踊り手が多いので2重3重の輪になって踊る。10種類の曲があり、緩急それぞれ組み合わせた配列で演奏されるので、飽きずにとても踊りやすい。
よく見る盆踊りの所作とはかなり違う。こぶしをあげたり、下駄で地面を蹴る所作が多い。
これは、歌舞伎や能、日本舞踊にみる足で地を踏む所作反閇(へんばい)からきていると言われているのと同じだろう。反閇は、陰陽道の足の運び方で邪気を鎮める呪法である。相撲のしこを踏むことも、歌舞伎で六法を踏むのもそこから来ている。
まさに「郡上甚句」という相撲甚句からきた曲もあり、ナンバ(右手と右足、左手と左足が同時に出る動き)でこぶしをあげる所作が相撲取りのようでおもしろいものであった。

特筆すべきは、踊る人の年齢層も男女比も極端な偏りがないこと。高齢の方も小中学生も男女同じくらいの数が楽しそうに踊っていた。中心になるのは30代のようだったが、それも珍しいのではないだろうか。端正な浴衣の着方をしている人が多く、郡上踊りにかける意気込みを感じた。
街並みの古さと水路がはりめぐされた水の町といった風情が、ちょっとした時空を超えた旅の趣きがあったことを申し添えておこう。

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蛇足ながら旅のルートとその感想
《往き》―下図の青いルート
JR東海道本線 東京⇒岐阜、
JR高山本線 岐阜⇒美濃太田
長良川鉄道 美濃太田⇒郡上八幡(すべて各駅停車)
《帰り》―下図の赤いルート
長良川鉄道 郡上八幡⇒美濃太田
JR太多線 美濃太田⇒多治見
JR中央西線 多治見⇒塩尻
JR中央本線 塩尻⇒東京

往きの東海道側は、人口密集地らしく在来線の本数、車両の数も多く、乗り継ぎ時間があきすぎることもなかった。が、乗り換えでホームに降りるも、殺人的な日差しにめまいが。
長良川鉄道は1車両だけのワンマン運転で本数も少ない。始発の美濃太田は人口密集地だが、美濃市をすぎたあたりから長良川に沿って自然がひろがる。終点まで乗ってみたい。
帰りの中央西線は山の中を4両編成でゆく。統計GISを見ていただく通り、駅前にも人家はまばらである。車窓から見える木曽川が上流であるからだろうか、水深が浅く岩が突出していることに驚く。木曽の山の中とて製材する前の木材が線路脇に積まれている。
過疎を思わずにはいられない。

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(出典:株式会社東京教育公論HPより)

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(出典:総務省統計局 地図で見る統計(統計GIS)

・郡上踊り公式HP(郡上八幡観光協会)
http://www.gujohachiman.com/kanko/odori.html

参考文献
「日本藝能史六講」:折口信夫
「折口信夫全集 第二巻」:中央公論社
「ケガレの民俗誌」:宮田登
「柳田国男を読む」:赤坂憲雄
「辺界の輝き」:五木寛之・沖浦和光
「日本の歴史を読みなおす(全)」:網野善彦
「東北学 vol.7」:東北芸術工科大学東北文化研究センター

NPO法人 原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト(上)吉田邦吉

※注……筆者の草稿に半分ほど鈴木さんの加筆がある。

鈴木清一さんは30代から郡山市西田町鬼生田に住んでいる。東北電力に勤めていた。発変電所勤務のため深夜勤務が多く体調を崩しやすく39歳で職種を技術系から事務系へ変更し、43歳の時に浪江・小高原子力準備本部へ転勤した。それは浪江町棚塩の海岸沿いに原子力発電所を立地する事業だった。そこでは土地の買収を主に担当した。

鬼生田開発プロジェクトの鈴木清一さん(撮影吉田邦吉)by WELTGEIST FUKUSHIMA

鬼生田開発プロジェクトの鈴木清一さん20160722(撮影吉田邦吉)by WELTGEIST FUKUSHIMA

今もしそこが整っていれば、原発が立っていただろう。鈴木さんはそこで7年間単身赴任生活を送った後転勤となり、54歳の時に自宅から通える東北電力郡山営業所に勤めた。そこで311となった。地震が起きて身の安全を守るため潜り込んだ机ごと体が前後左右に移動し、最初はなにが起きているかわからないほどだった。以下の鍵括弧は鈴木さんである。

「女子従業員よりも私のほうが驚きの悲鳴をあげていて恥ずかしかった」(地震・雷が大の苦手)

その後、福島第一原子力発電所の建屋が吹き飛んだのをニュースで見た時は、愕然とした。建屋が吹き飛ぶというのはメルトダウン(格納容器内の炉心が溶融し核燃料が容器の底に溶け落ちる)によりメルトスルー(格納容器の底が抜ける)して、放射能が飛散する最悪の事態であり、「これでもう福島は終わりだ!」と思わず口に出しそうになったが必死にこらえた。

この時咄嗟に思ったのは、40代の単身赴任時代(浪江・小高原子力準備本部)に家族同様に7年間お世話になった浪江町の人々の安否だ。

大津波の被害に逢い更に追い打ちをかける様に放射能汚染に見舞われ一家離散となり、避難先で体調を崩して亡くなられた方も多いと聞く。原発事故被災者の方々の為に自分に何か出来る事は無いのか・・・・その思いが込み上げてきた。

「原子力発電所の安全神話が崩れさったことが一番ショックでした。奥さん、原子力発電所は絶対大丈夫だ、万が一などまずないと言って土地を買収してきた事が悔まれてならなかった。浪江・小高地点では全ての地権者に同意を得る事が出来なかったため、浪江町に原子発電所が建設される事は無く、幸いにも浪江町では原発事故は起きずに済んだ。」

お茶菓子を食べながら鈴木さんが熱心に言う。
「昔の農家はお茶菓子をなんでも自分で作ったんです。キンツバやカラメル等をお袋の実家の婆ちゃんが作ってくれて旨かったな・・・・。私は会津坂下町に生まれ育ち、中学校卒業まで居ました。高校から宮城県の多賀城市で東北電力の企業内高校で学びました。最初は変電所の運転員でした。(改行)

41年間勤務しました。去年の6月30日を以って定年退職し、その後政府の雇用促進つまりパートと同じ扱いで東北電力に継続して勤めていましたが、このままでは駄目だ!一日も早くこのプロジェクトを実現して、原発事故被災者の方々が失った古里と絆を回復し、家族と一緒に住める夢と希望を取り戻せる協働のまちづくりをするんだ。(改行)

会社勤めをしながらの片手間の仕事では、このプロジェクトは達成しないぞとの熱い思いがこみ上げ、一日も早く鬼生田開発プロジェクトを達成すべく昨年の11月に再雇用先を依願退職し、このプロジェクトに全勢力を傾ける事となりました。」

奥様の美智子さん
「虚しさだけは耐えられない。これだけ放射能汚染という実害がある状況で、虚しいです。中通りだってね」
(以下、「さん」略)

鬼生田開発プロジェクト鈴木清一さんがひとまず耕している畑。(撮影吉田邦吉)同日 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鬼生田開発プロジェクト鈴木清一さんがひとまず耕している畑。(撮影吉田邦吉)同日 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鈴木さん達による「鬼生田開発プロジェクト(NPO法人原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト)」とは、原発避難者が、原発避難指示区域に比較的近い鬼生田の地で、ふるさとを見守りながら、鬼生田の広い土地を買い、家を建て、農家もしながら気兼ねなくそこに暮らすという計画である。

特質としては、避難者が集住でき、自然がすばらしく、都市にも避難区域にも近く、かつ、鬼生田の人達が最初から歓迎してくれている心の準備や法的なことなどの準備が鈴木さんたちのおかげで整っているということである。鈴木さんの実力が、原発誘致ではなく、避難者の保護救済へ向かっているのだ。

私は何度か彼のもとを訪れているが彼の気持ちは熱心である。

鈴木「放射能汚染されたところは戻りたくても戻れない。除染はまやかし。自分たちの意思で本当の復興マイタウンを作ってもらえれば政府に対してNOと言う声も強くなるとも思います。避難者の皆様と手をとりあって進みたい。今はまだ農地転用できてないですが、必ずできます。助成金も充当してもらえるようにできます。新しい町を作れれば非常に理想的だと思います。EU離脱問題じゃないけれども原発から離脱し自立しましょう!」

鬼生田から望める安達太良山(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鬼生田から望める安達太良山(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

美智子「鬼生田は、すぐ住めるわけではなく、少し時間がかるので、関心がない人もいますが、ここなら自分達で新しい自治会を作ったり、つまりは周りに気兼ねすることなく窮屈な思いをしなくて良いんです。すばらしい学校もできるのです。西田学園(平成30年完成)。小中一貫校です。100坪以上の広い土地に若い人や親御さんたちが一緒に住める二世帯住宅なども理想だと思います。高速道路もすぐ近くですし、三春ダムの水も来てます。猪苗代湖の水も利用しています。両方から水がとれる立地の良いところです。複合ショッピングセンタージャスコも車で数分で行けますよ。三春にはリオンドールもあります。総合南東北病院へも数分で行けます。原発事故による放射能汚染に対して福島県民ももっと怒って良いと思います」

鈴木「この地域は農地一反(10a)から農業経営が出来る(H28.6.1から施行)ので、農家として住む方は少し大きめの家庭菜園つきの住宅を建てることができます。しかも農家なので採れた野菜は出荷もできます」

美智子「避難者の方を受け入れる活動を続けてきましたけど周りからもう(支援などは)いいんじゃないとか言われると、こちらがおかしいのかと思ってしまい、たまに疲れることもあります」

筆者「いえいえ、そんなことないですよ。やっぱり時間がかかることだと思いますし、そういう受け皿があると思うだけでぜんぜん違いますよ」

鈴木「私はこの活動を通して原発に依存する生活から離脱して自立する街づくり、地元住民と原発事故被災者の方々が協働で創る街づくりを目指しています。そして、被災者の方々が一日も早く家族と一緒に楽しく暮らす笑顔を夢見て活動をしています。今後は、避難者の方が運営する語り部の会開催やミュージシャンを招いての各種イベント、農業体験・収穫祭、芋煮会などを通して、原発事故被災者の人たちとの交流をはかろうと思っています」

鈴木さんと語らっていこう。鬼生田の野菜を頂きながら。

鈴木さんちのおにぎりと野菜(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鈴木さんちのおにぎりと野菜(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

※NPO法人のホームページURL
 http://www.oniuda.or.jp/
NPO法人 原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト
※電話番号 事務所所在地
〒963-0921
福島県郡山市鬼生田字柿平330番地
(携帯) 090-6229-9881
事務局長 鈴木 清一

L’accident de la centrale nucléaire de Fukushima Daiichi

Sakai Masaaki from Iitate village, who is a nuclear refugee
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/09/01/N%C3%A9anmoins-la-vie-doit-continuer

Yoshida Kuniyoshi from Okuma town, who is a nuclear refugee
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/03/07/Le-screening-et-la-stigmatisation

Yoneda Hiroshi from Kagoshima prefecture, who comes to Fukushima
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/01/03/Marcher-dans-la-ville-o%C3%B9-le-retour-est-enfin-possible%E2%80%A6

Takada Midori from Koriyama city in Fukushima
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/08/08/Marie-irradi%C3%A9e-macul%C3%A9e-de-Nagasaki

Yoneda Hiroshi
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/08/02/Les-ruptures-et-lobscurit%C3%A9-de-Fukushima

Yoneda Hiroshi’s memo1
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2016/01/01/Tomioka-ville-de-non-retour

Yoneda Hiroshi’s memo2
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/07/07/Jeune-agent-de-police-sans-protection-sur-la-route-Nationale-6

Yoneda Hiroshi’s memo3
http://nosvoisins311.wixsite.com/voisins311-france/single-post/2015/07/06/Personne-n%C3%A9coute-la-parole-des-personnes-directement-concern%C3%A9es

All is translated by Nos Voisins Lointains 3.11
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Magazine, which is called, “WELTGEIST FUKUSHIMA”
Chief editor
Kuniyoshi Yoshida