おもうこと  酒井政秋

来年の3月末に飯館村は形の上では避難指示解除になるが、やっと飯館村に戻っても、決してホッとはできないだろう。その土地から放射性物質が消えたわけではないし、この5年は無自覚なのか自覚的なのか分からないにしろ避難場所の環境に身体も心も定着してしまった。
若い人は、まだまだ環境適応能力がある。しかし、中年配者にとってみれば、避難した時と同じだけの環境適応ストレスがのしかかってくる。
それは、たとえ飯舘村に帰る人にとっても、または別の場所で移住を決めた方にとってもそのストレスから逃れることはできないのだ。
私の祖母をはじめ、多くの方から耳にする言葉は
「やっぱり仮設(住宅)に来ると落ち着くなぁ~」
そういう意味では5年という時の重さを感じる。
仮設住宅がもう我が家になってしまっているという事なのだと。

来年3月に避難指示が解除されたからとて、決してストレスは減ることはなく、また別の質の新たなストレスや問題が村民一人ひとりにのしかかってくる。

そして、また避難の時と同じように、仮設住宅と次の住む場所とを行ったり来たりの生活で徐々に馴れていくしかない。

そう。馴れていくしかないのである。

この原発災害は避難が解除されたからといって、すべてが解決する問題ではない。
原発事故は、今まで築きあげたコミュニティも、人々も、自然にさえ、過酷な状況しか産まない。
そんな災いは一度きりでもう充分である。
どうしても世間では前向きな報道しか表に出てこない。もちろん、苦しい時を経て、前向きに頑張っている人の事を否定しているわけではない。それもまた事実ではあるから。
けれど、ネガティブなこと、見落とされた事実などはなぜか情報が統制されたかのように、意図的に書かれているのもまた事実ではないだろうか。
例えば「飯舘村来年3月に避難解除」と新聞の一面と飾ったときのことを思い出すと、住民懇談会の前日にその報道がされた。そして、あたかも、その一面の見出しは避難が解除されて問題解決しましたよ。と言わんばかりの紙面の見出しだ。
その陰で、住民の困惑したこすらも見落とされているのをどれほどの人が知っているのだろうか。
きっと避難指示解除になったら、もう解決したとみなされ、終わったことのように扱われるのだろう。けれど、それで問題は全く解決しない。先に述べたように、また新たな問題が出てくるだけの話だ。

綺麗事で終わらないのが原発事故なんだ。とつくづく思う。

この問題は当事者だけの問題なのだろうか?

あの原発を使っていた都市の問題でもあると思う。

年に数回、県外でお話をする機会を頂く。

そして、こんな質問をよくされる。

「わたしたちに何ができますか?何をすればよいのですか?」と。

その答えは、それぞれの心に、それぞれの置かれている環境の中にあるのだろうと思う。
その答えを自分で考えない限り、人は気づかないものであるとさえ思っているが、
あえてその質問に答えるとするならば

まずは身近からできることをしてください。という事ではないかと思う。

例えば、

・ゴミの分別や山林などの不法投棄問題。
ゴミ問題というのは、この消費大国日本にとって、大きな社会問題である。そうした裏で公害で犠牲になっている人がいるということを想像してください。そんな消費社会、資本主義社会、使い捨て社会ということは、電気もまた、消費しているということ。わざわざリスクあるもので都市の光を賄うことがそもそも大きな問題であったのである。その陰で、地方が今回犠牲になった証ではないか。

・自分で植物・野菜などを育ててみるといかに実がなるまで大変かが分かる。そして、食材に対してありがたみが分かる。
植物や野菜を育てることは、食材がスーパーに出るまで生産者は並々ならぬ愛情と苦労を重ね出来ていることをまずは知ってください。
そして、原発事故の時もそんな農家さんはせっかく育てた野菜や家畜、牛乳全てのあらゆる生命が廃棄されたり、そして避難の為に犠牲になったこと。農家や畜産家、家畜はどんなことを思いながら大切にしてきたものを廃棄や殺傷処分される家畜を見送ったのか。そのことを想像してください。

 

原発事故がおき、そして大地が汚染されるという事は、そういうことなのです。

一度起きてしまったら簡単に解決できないのが原発事故なんです。

そして、決して以前には戻らないのが原発事故なんです。

それでもひとは生きなくてはいけない。
そのためにはどうするか?と日々決断、迷い、苦悩しながら、それでも時は過ぎていくもので1日1日を考えながら生きていかなくてはならない。

もう1度、考えてほしい。想像してほしい。

貴方の街が、貴方の生活が、ある日突然、奪われたら、そして、そんなに簡単には取り戻せないことを知ったら、貴方だったらどうしますか?

天災も含めていつ災害が起きるか分からない昨今、そんな時だからこそ、今一度、自分の置かれている環境をみて、1分でも5分でも見つめる時間を持ってほしいと思う。

 

国民学校の少女の記憶(2)~戦後を生きる~ 高田 緑

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

国民学校の少女の記憶(1)よりつづく
敗戦国の日本に与えられた「自由」を生きる戸惑い。それは、国策によって思想も生活も統制されていた戦時中とは、180度変わったということだ。

私の母、中島 良は、国民学校5年生の時に終戦をむかえた。
翌年の昭和21年頃になると、郡山市赤木国民学校にはGHQがジープで乗り付け、度々やってきたという。戦時中に軍事教育をされてきた生徒たちの授業を監視していたのだ。日系二世の通訳を連れてきていたのを見て、少女は「非国民か!」と思ったそうだ。
戦時中、郡山市は軍郷(軍都)として日本軍の軍事拠点があった。その為、その拠点がそのまま連合軍の拠点となったのだ。
少女は6年生の終わりまで、女学校(高等女学校)に入るための準備をしていた。しかし、その年の5月に新制中学校制度に変わった為、生徒全員が受験せずに進学できるようになった。学制改革による中等教育の義務化である。戦後の教育改革は、しばらくは連合国軍のもと、つまりは占領行政のもとに行われていた。(日本国憲法が昭和21年11月に公布し、昭和22年5月施行されていたが、昭和26年のサンフランシスコ平和条約が成立するまでは、国政はすべて占領行政のもとにあった)
少女の父である私の祖父は、抑圧的なその制度にはいたく反論していたというが、少女にとってはあるがまま受け入れるしかなかった。と言うよりも、疑問を持ってはならないという軍国主義時代の教育を引きずっていた。
少女が入学した赤木中学校は、のちに芳賀中学校と合併し、郡山市第二中学校となった。中学校には、またもGHQが時々やってきたという。今度は教師へのレッドパージである。少女が慕っていた社会科の先生が学校から去っていったことを、少女は覚えている。

少女の父は、専売局(現在の日本たばこ産業㈱)の官吏であったが、戦時中は不本意ながらも国民服を着て専売局に通っていた。戦時中の専売局では、軍に支給する恩賜の煙草やわずかな量だが民間の煙草も作っていたそうだ。
そして終戦間際に結核を発症した。当時は、結核は死の病であった。食べるものがなかった時代に滋養のあるものなど手に入るはずがない。戦争が終わっても配給制度があったが、ますます食べるものが不足し、少女の母は、農家に出向いては自分の着物を芋などに変えてもらっていたそうだ。お金では物が買えない時代。食べる物を持ち得ていた農家の人の態度は、それ以前に比べて、一変したように少女は感じた。恨みはないが、その時に感じた虚しさや口惜しさは、当時の少女にとっては深く心に残っている。役人であったため、いくらでも闇物資を手に入れる手段はあったが父がそれを嫌っていたため、なお、生活は困窮していった。そんな中でも、煙草屋を営んでいた人が、父へ鶏肉や卵や鯉を滋養のためにと持ってきてくれたのが有り難かったという。
少女だけではない。日本中が飢えに苦しんでいた時代だったのだ。食べれるものなら雑草でも食べた。戦争が終わったからと言って、物資がすぐに出回ることなどなかった。
地方行政が機能していない時代。人間の本能に翻弄された時代だった、と少女は戦後を振り返る。
そんな状況が4、5年は続いていただろうか。結核の特効薬であるストレプトマイシンが世に出始めた。だが、すでに少女の父の病状はかなり悪化していた。また、保険の効かない薬だったため手に入れるのは困難を極めた。父の家系は代々医者の家系であったが、医者であった伯父でさえも自分の弟に回すほどの量の薬は入手できなかった。
昭和25年の4月1日、44歳になった誕生日に、少女の父、中島良眞(りょうま)は病死した。少女の高等学校への進学を死ぬ間際まで切望していたが、5人の弟妹を食べさせていかなくてはならなくなった家庭環境下で、少女は15歳で長女としての重責を課せられた。直前まで高等学校の受験勉強をしていた少女の人生が一転し、6月から父のいた専売局で働くことになった。父の部下だった上司のもとで。

少女は当時を振り返り、言う。戦後の苦しかったことはいくらでも語ることができる。でも楽しかった思い出はと尋ねられたら、楽しいとはどういう事なのかがわからなかったと。
少女の従兄のひとりは、戦時中、雨の神宮外苑で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかった。(「国民学校の少女の記憶 外伝」
少女は当時を振り返り、言う。戦争とは、人間の運命を変えるもの。誰一人として幸せになった人間はいない。
軍国主義国の統制から自由になった戦後も、大人も子どもも何かと戦っていた。別な敵、別な“闘い”があった。それぞれの“闘い”だったのだろう。
少女は、軍歌や当時の流行歌を今も歌う。ラジオから流れていた歌を半世紀以上も経った今も忘れることができないのだろう。洗脳されたとは少女は決して言わない。ただ、素直で忠実であっただけだという。

平成28年、82歳になった少女は感じずにはいられない。ひたひたと知らず知らずに迫りくる、きな臭い社会の流れを。だから生きている限り、戦争で体験したことや二度と繰り返してはならないことを伝え続けていきたいと語る。

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

終戦の日…知覧の空はとても蒼かった 米田 博

私が特攻隊というものに対して思いが強くなったのは、元特攻隊員の外園 徹さんと出会ってから

http://rkb.jp/move/move_2008/html/081020020500.html

息子さんが私が勤めていた施設に入所していて懇親会で一緒にお酒を飲んだ。「隊の人達って、どう思っていたんですか」って聞いた覚えがある。

「いろんな奴がおったよ。でもみんな勝てるなんて思ってはいなかった。」「しょうがなった。。しょうがないってしか思いようがなかったのよ。」って…

外園さんは、シミジミと話してくれた。

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2016.8.15  終戦の日  一年半ぶりの知覧

とても暑い日 、空は快晴

さすが終戦記念日、平和記念館はものすごい人

いつもなら、ひとりひとりの遺影を時間をかけて見るんだけどね…今回はできなかった。顔をみるのがすごく、しんどかった。

今の変わりゆく日本を考えると…この人達の犠牲ってなんだったんだろうね。

戦わない日本が戦闘ができる日本に変わっていく …そんな事を思っていたら、いつものように顔を見れなかった。

前田 啓大尉が遺した「俺が死んだら、何人無泣くべ」の書が胸に突き刺さる

http://s.ameblo.jp/katsuya-daii/image-10795408449-11036978408.html

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平和記念館前を少し通り過ぎた所、ここが特攻機の待機場所…ここで、特攻隊員と整備員との人生最後の会話が交わされたんだ…

「人の世は別れるものと知りながら
別れはなどてかくも悲しき」

わだつみのこえで有名な上原大尉は、ここで出撃直前これを走り書きしたんだ…

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特攻隊が飛びたった滑走路跡地

この写真の右斜め方向が滑走路、今は、サツマイモ畑になっている。

この滑走路を特攻隊員達は飛び立っていった…

ぐるっと右旋回して街の上を飛んでから、開聞岳を目印に南に向かった。

隊員達が飛んでいった空は…

とても美しく…蒼かった。

この空を…飛んでいったんだ

重い爆弾を積み、グラマンに狙われたら反撃もできない…

何を思いながら飛び立っていったんだろう…

この犠牲は、なんだったんだろうね。

この空の写真を見て想像してみて…

この空を、隊員達は飛んでいったんだよ。

「神風特攻隊員たちの遺書」https://m.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=_QOXodCXpTs

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双葉町盆踊り大会(@加須市)を見にいく   伊藤千惠

昨日8月14日は、福島県双葉町から埼玉県加須市へ避難した方たちの盆踊り大会へおじゃましました。今年で双葉町埼玉自治会主催として3回目の開催だそうです。

双葉町は、原発事故から6年目の現在、町の96%が立ち入り制限されている帰還困難区域です。人口約7000人のうち、約4100人が県内避難、約2900人が県外避難、そのうちの855人が埼玉県に避難しています。(双葉町公式ホームページより)

避難所のあった旧騎西高校からほど近い騎西総合体育館で行われた盆踊り大会は、町民だけでなく、加須市在住や八王子からも、支援を機にずっと交流を続けられている方々がお手伝いに来ていました。
最初は支援であっても、今は双葉町の方に逆に支えられているという女性のことばが印象的でした。
報道されることの少なくなった原発避難の状況ですが、忘れてはならないという埼玉、東京の人が少しでもいることに力強い思いを抱きました。

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左から自治会長さんの藤田さん、加須市在住の支援者Aさん。 ありがとうございました。

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「盆踊り」のルーツは念仏踊りと言われていますが、伝統芸能は地方によって起源も変化のしかたも違っており、諸説さまざまあります。
お盆がやってくると地獄の釜のふたが開き、死者の霊魂がこの世に戻ってきます。死者だけではなく、なかには無縁の精霊、悪霊もいるので、それらには帰ってもらう悪霊退散の踊りが念仏踊りであると言ったのは民俗学者の折口信夫。

その土地に関係なく有名な民謡をテープを流し、それに合わせて踊る現代的な盆踊りしかなじみのなかった私には、伝承系の双葉町盆踊りはとても興味深いものでした。
唄と大太鼓と少し小ぶりの小太鼓、笛の4人で繰り返し演奏される盆踊り唄。
伝統的な民俗音楽・民俗舞踊のほとんどは、この「繰り返しの魔術」によってトランスにひきこまれ、日常性を逸脱するのではないかと思っている私には、折口の説がはまるような気がします。

話がそれてしまいました。
太鼓、笛のお囃子方は、曲がとぎれることなく複数の人が交代で演奏していましたが、唄っている方は一人、すばらしい声でずっと唄いどおしでした。
その28歳の女性Mさんにお話を聞くと、小さいころから民謡教室に入れられて、中学生のときから櫓にあげられて盆唄を唄ってきたとのこと。
太鼓は昨今流行りで、かっこいいし若い人もやりたがるけど、民謡は人気がないから自分の跡は継ぐ人がいない、というさみしい話でした。
そういえば最初のお囃子方は、十代の娘さん、お母さん、お祖父さんと親子三代のトリオ。十代の娘さんも否応なく小さいころから練習させられたと。
伝統とはそういうふうに残していかなければ伝承していかないんだと改めて感じました。

すばらしいのどを披露してくれたMさんと親子三世代の囃子方。 お祖父さまがいなせでとにかくかっこいい

すばらしいのどを披露してくれたMさんと親子三世代の囃子方。
お祖父さまがいなせでとにかくかっこいい

それから来賓の方々のあいさつ、双葉音頭、騎西音頭、地元の人たちのよさこい演舞などがあり、また盆踊りを堪能。
旧騎西高校避難所が閉鎖したあと、何度かお会いした方たちと交流、話をうかがうことができて感謝でした。
福島県内外の土地に定住した方もいらっしゃいますが、いまだ仮設住宅住まいであったり、コミュニティがバラバラになり、行政からの通達は届いても横のつながりが薄い、という話も聞きました。
ひとつの町のコミュニティが全国に散らばってもなお、故郷の土地は原発すぐ近くに存在する理不尽さ。
福島県内の避難区域内外、そのあいだの段階的な地域、それぞれにさまざまな問題があり、ひとことでは表現できませんが、“自分の”、“東京の”問題の一つとしてなにかしら関わっていくことを改めて思った次第です。

通巻10号「ウェブの言論と活動のススメ」吉田邦吉

2016年(通巻9号)2016年08月08日発売
27ページ、定価400円 ISSN 2189-4639

フクシマ原発事故311以後のウェブ言論術と活動のススメ。著:吉田邦吉

フクシマ原発事故311以後のウェブ言論術と活動のススメ。著:吉田邦吉

解説
本書籍は主に分割統治について書かれている。

311フクシマとは、一体なんであっただろう。私は周知のとおり、避難の記録を一部しか公開していない。それよりも、世の中は全くそういう「地道な現実」という経験や体験をほとんど適当に素通りしてきたのではないのか。であるからして、「ウェブの炎上」が、巨大な発言者のみで占められ、罵詈雑言が無意味にも闊歩し続け、一般のわれわれが入るとかものを言うスキなど微塵もなかった。いかに「フクシマ分断」が、作られてきたか。ほとんど「なにか」によるねつ造の域である。

われわれはそんなに馬鹿でないが、誰も本などを読んですらいない。長い間、ずっとそうであった。スマホ時代が予定していたかのようだ。どれだけの夜を悔しい思いをして過ごしただろう。人よ、私は活動をススメる。もはやウェブを捨てるのだ。面倒くさい者とはウェブの関係を切れ。そのぐらいで問題など起りはしない。ウェブは無意味。これ以上は、……あくまでその人の状況によるものの、おおむね、無意味だと申し上げたい。あなたの人生がため。あなたの素晴らしさを最も輝かせるのは、ウェブなんかじゃない。楽しいのもウェブだけじゃない。道をゆき、歩くことで、人から学び、地域を学び、うまいものを食うのだ。そうして町並みに目を覚まそう。

表紙裏表紙文字デザイン:吉田邦吉、

著者
吉田邦吉

編集
総務:吉田博子
編集長:吉田邦吉

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