平成29年3月末避難指示解除公表に募る不安    酒井政秋

2016年3月23日、飯舘村が帰還困難区域以外の区域を2017年3月末日で避難区域解除、2018年には小中学校を村内で再開することを公表した。それは住民に何の説明もないままでの突然の報道であった。

この5年、いつも大事な情報はテレビや新聞等のマスコミで村民は知る。今回もまたそうであった。
村民の心は揺れ動いた数日だったに違いない。

そんな時、一本の電話がかかってきた。
その電話の相手は、以前に仮設住宅でお話を聞かせていただいた人からだった。

電話の向こう側の声に元気はなかった。「テレビ見たんだげど・・・飯舘村避難解除になったら、ここ(仮設住宅の事を指す)に居られないのか?追い出されてしまうんじゃないのか?」そうボソッと不安げに言った。

俺は「大丈夫。去年の説明会に内閣府に聞いたら、避難解除になったからって仮設住宅から強制退去にはならないと言っていたから。大丈夫。」そう言った。

電話の向こう側から大きなため息が聞こえた。

「あ~、それならいいけど、ここを追い出されたら、行くところがないんだ。飯舘の家はもう人なんて住めるような状況じゃね~から。どうすっぺな~。ここから出んのが怖いな。5年も住んでいると、ここが『自分ち』なんだよな。ここのほうが安心になっちまったんだな。不思議なもんだな。」そうしみじみと語ったその心の中には、不安と仮設住宅から離れていくことへの恐怖心があるのだなと実感した。

わたし自身も仮設住宅に住んでいるのだが、仮設住宅から離れるということに本音を言うとあまり抵抗はない。むしろ、早くここから脱却しないとと思っていた。

年配者は実際そうした考えではないという事を知った。

わたしは、他の年配者はどう考えているのかと何人かの年配者にさりげなく聞いてみた。

「一時帰宅して2時間ぐらいはホッとするんだよな。長年住んできた我が家と飯舘村の景色を見て、やっぱり飯舘村はいいなぁ~って。でもな、そのあとに、急にガラーンとした家に『ひとり』だって事に気づくんだよ。そしたら、仮設に帰りてぇ~って思うんだ。仮設に帰ってくると逆に安心するんだよ。ここが我が家になっちまったんだな。」

また、こうした声もあった。

「仮設ではすぐ隣に友達がいるからお互い声かけあって、元気でいられるし、支え合いながら生きていける。飯舘村に実際帰ってみたら、すぐ隣にだれもいねぇ~べ。さびしいどなぁ~。」

「この前、3日間息子に連れられて村に帰ったんだけど、3日間眠れなかった。なんだか怖くて、不安で、なんでだべな。仮設に帰ってきたらぐっすり眠れる」

いずれも70代~90代の年配者の声だ。

ニュースの報道や新聞の報道を見ると、比較的体力があって気力がある60代~70代前半は、帰って「土地」を守るという意識は強いと思う一方で、70代後半~80代のいわゆる「高齢者」にとってみたら、この避難区域解除っていうことは想像する以上に「不安と恐怖」なのではないか。

5年という長期的な避難は仮設住宅に高齢者を適応させてしまった。そこからまた移動するという事は、体力面でも精神的な面でも落ちている高齢者にとってリスクの一つになり得るのだと思う。たとえ、そこが飯舘村でもリスクであろうと言える。

震災当時、仮設住宅に来て体調を崩す人が急増したように、また環境が変わって、ストレスや孤独感から、病気が誘発されてしまわないだろうか。そして、孤独感や寂しさから認知力が低下して認知症になってしまわないかどうか、懸念するところである。

たかが、年配者の一部だけの声だと切り捨ててしまうのか。多くの高齢者が感じている全体の声に近いのか、わたしは全員に聞いてないので分からない。けれど、多かれ少なかれ、高齢者の環境適応能力は衰えていて、長期避難によって体力も衰えている。果たして以前と変わり果てた飯舘村に帰ったとしても、ストレスを感じないで穏やかな日々を過ごすことができるのだろうか。

それぞれの選んだ決断の向こう側に幸せがあることをひたすら祈るしかない。

この1年、さらに慌ただしい心落ち着かない日々や空気感が村民を取り巻く。

仮設住宅

 

 

 

 

 

 

原発事故5年は節目ではない。まだまだ続いている現在進行形の事故である。  酒井 政秋

また3月11日がやってくる。

あの日、たくさんの命が津波や地震によって犠牲になった。

そして、その後の原発事故によって、避難先で多くの命が犠牲になっている。

この場を借りて深く鎮魂の意をお祈りいたします。

さて、飯舘村が原発事故によって汚染されてから5年。放射性物質を低減させる為に行われている国の除染は、除染の低減率も低く、まだまだ住民が生活する上で安全には程遠いような数値である。それでも行政と政府の動きは「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の避難指示を一方的に2017年3月まで解除する方針を示した。この方針は村民に周知する前にメディア先行で地方版の新聞1面に掲載された。いつも住民に話が来る頃にはもう決定した事柄を粛々と説明するだけの「懇談会・説明会」が行われている。本来の「懇談会・説明会」という言葉の意味とはかけ離れている事が平気で行われている。なぜ、「までい」(飯舘村の方言で「丁寧に」「心を込めて」の意味)という村のスローガンを掲げ、自主自立の村民重視でやってきた飯舘村が、国の圧力に屈し、住民を置き去りにするような事態となってしまったのか。このままではいけないという村民も少なくはない。一昨年のADR申立ての動きも一つの意思表示であった。

5年という月日は問題解決されず、誰も責任を追及されることなく、日々問題が山積していく。そして、人々は疲弊していく。本来ならば、「人々の復興」を重視するはずが、大手ゼネコンによる除染事業とハコモノばかりを建てることに重視し、当事者の思いとはかけ離れていく。仮設住宅や借り上げ住宅に住む年配者の体力はどんどん奪われ、日増しにストレスが積み重なり病気になっていく。住めば都というが、あの広大な自然の環境の下で暮らしてきた飯舘村の住民にとって仮設住宅の気狭さは何年たっても慣れるものではない。そんな避難者に対し、差別や偏見が県内でも多く目立つようになってきた。心ない声に幾度も悔しい思いをしている当事者も少なくない。なぜ、いつも弱者に冷たい言葉をぶつけるのだろうか。避難者だって好きでその土地に来たわけではない。悪いのは東電や国なのに、いつも「一部」が「すべて」になり、言われなき差別や偏見を受ける。それぞれに不満があるのは重々承知している、しかし、ただ避難者を言葉の暴力で責めることは「社会のいじめ」だと思う。正々堂々と自分の不満は国や行政に陳情、要望書を提出するとか、法的に自分の不満を解決することをして欲しい。言われた人はどんなに傷ついている事だろう。毎日楽しみにしていた散歩を奪われたり、また、誰かに何か言われるんじゃないかとビクビクしてしまったりと精神的にどんどん追い詰められていく。そうした相手を思いやる心を忘れてはいけないと思う。こうしたことを書くこともまた勇気がいる。これが「全て」になってしまわないか迷ったが、現実問題としてその差別や偏見に苦しんでいる人がいることもまた現実だ。

仮設住宅

この5年、「国は国民を守ろうとはしない。」ということを実感する。国民同士を争わせる情報や政策をどんどんとしていく。これが先進国のやり方なのだろうか。私は、疑問に思う。自分の身は自分で守るという言葉がある。自分を守れるくらいのエネルギーがある人は自分を守れるが、そうでない人たち、たくさんの不安や精神的に追い込まれている人たちは誰が守るのか。年配者同士寄り添って懸命に生きているが、これには限界があると正直思う。これから先、仮設住宅の退去命令がきたとき、それぞれが選択した移住場所や飯舘村に帰ったとき、仮設住宅のようにすぐ隣で手助けしてくれる人はもういない。そのとき、家族に負担がのしかかってこないだろうか。そして誰が孤立した年配者や生活弱者を救ってくれるのだろう。寄り添いや見守り活動の対策をきっちり考えておかなければ、問題はまたひとつ、ふたつと重なっていくだけだ。

フレコンバック

あの日、自然豊かな飯舘村での生活も、近くの山でとれた新鮮な山菜、キノコを当たり前のように食卓に彩っていた日々も、村民一丸となって行われてきた行事も全て、お金には換算できない無形な大切にしてきたものをたった1度の原発事故によって一瞬にして全て奪われた。その喪失感は一生消えないのかもしれない。それでも前を向きながら歩いていかなければいけないが、それぞれが選択した決断のなかで少しでもその失ったものを穴埋めできるような日々が続いてくれることを心から願う。

5年経過したからといってわたしたちの原発事故と避難は終わらない。これから先、何十年もかかる大きな問題にもかかわらず、情報はコントロールされ真実は届かず、政府は当事者と対話する意向も示さない。それどころか放射性物質の危険性は軽視されている。福島の問題が解決されていない中で川内原発、高浜原発が再稼働され、福島の原発事故はいったい何だったのだろうか。国は一つも福島から学んでいないのではないだろうか。ただただ踏みにじられる思いに憤るばかりだ。「原子力」というエネルギーに決して安全も安心もない。事故がひとたび起きれば一瞬で人々の人生も暮らしも環境も全て奪われていく。

もう2度と同じ悲劇を起こしてはならない。