心の闇 高田 緑

千葉県佐倉市の教会での立てこもり事件について思う。(http://mainichi.jp/articles/20160219/k00/00e/040/199000c?fm=mnm)

数年前から、両親は教会に相談をしに一緒にカウンセリングを受けていたそうだ。この問題は希有なことではない。恐らく、どこの教会でも起きている。事件になるかならないかは、紙一重の状態にあるのだと思う。

私が通っていた都心の巨大教会でも、実際に聖堂内で暴れた青年がいた。椅子を投げるは、「神が何なんだ」と叫ぶはで、皆で止めようとしてもものすごい力で、私たちは吹き飛ばされた。

ある日、私は教会の近くの駅で電車に飛び込もうとするその青年を、一時間、説得したこともあった。私は専門家でもなんでもないが、たまたまそこにいたので放ってはおけなかった。その青年は、私の冗談にふと頑なな気持ちを弛めてくれた。

でも、ほんの少し間違えたら、青年は飛び込んでいたのかもしれない。

教会は、扉をノックする者は決して拒まない。弱き者を受け入れる。

救いを求める人に手を差しのべる人は教会にはたくさんいる。しかし、真に救えるのは神のみなのだろうか。現実的に考えるならば、精神的な救いを求める人を助けるには、それなりの知識を持った専門家ではないと、なかなか解決するまでには至らない。ふとしたことで大事件になりかねない。

それが、この教会で起きた事ではないだろうかと思う。

カウンセラーがいたと言うが、数年も教会内でカウンセリングをしていたのだろうか。そのカウンセリングは信仰の中にあったのであろうか。青年は、信仰の中に救いを求めていたのであろうか。

だからと言って暴力を正当化してはいけない。教会の聖職者も両親も、怪我をしたカウンセラーも、青年と向き合い心から助けたかったには違いない。どうすれば青年を闇から救えるのか、私には分からない。何が正解だったのか分からない。

神の家である教会の中だから安全とは、決して言えないのは確かだ。社会に蔓延る心の闇は深い。

 

十文字絞り旗指物 (桃山時代 : 旧白洲邸所蔵)

十文字絞り旗指物
(桃山時代 : 旧白洲邸所蔵)

 

※反響は多かった記事だがリンク表示の都合でここに反映されず(by編集部)。

書の海を漂う~乱読日記*その五  「読みと他者 : 吉川宏志」   伊藤千惠

短歌時評集2009-2014年「読みと他者」  吉川宏志著  いりの舎 2015.11.10発行

日ごろ、短歌にいそしむわけでもなく古典に明るいわけでもないが、時おり目にする歌の表現に新鮮な驚きを覚えることが多い。
「ことば」に心を砕くのは文芸を生業とする人には当然のことだけれども、それにしてもごく個人的な体験が短いことばを媒介に、
こころの深いところまで届くことの魔術的すごさ。
なんてことを少ない短歌経験のなかで思う。

いりの舎発行の「うた新聞」に、おもに新しい短歌を紹介した「これからの秀歌」という吉川宏志氏のコラムがある。みずからも塔という短歌結社を主宰する歌人である。
毎月、びっくり仰天の新人の短歌や(私だけが)知らなかった名歌をていねいに解説、知識のない私にでも共感でき楽しみにしている。
短歌の評論集なんて読むのははじめてだが、吉川氏の2009年から2014年までの時評を中心にした本を読んでみた。

私は長いこと幻想文学や虚構の世界を愛読していたので、現実生活の一部をきりとったような描写や、花鳥風月をうたう、自然をめでることを少し軽んじていた。今日はこれこれをしました、というような報告日記みたいなもんははつまらないと思い込んでいた。けれども、この本を読んで自分の「読み」の甘さに蒙をひらかれた思いである。

他者の日常的な体験がそのひと固有のことばとリズムで詠われることで、自己の感情が揺さぶられたり共感したり反発したり、他者との関係性がたちあがる。
吉川氏は、他者を完全に理解することは不可能であるが、短歌の読みは自他とのあわいに新しいものを創造する行為ではないかと言う。
その「読み」は作った歌人とも他の読者ともそれぞれ違うかもしれない。むしろ違って当然であろう。読みかたに正解はない。
すぐれた「読み」にであったとき、自分も何か言いたくなることを「対話可能性」と彼は言う。
歌の感想や意見を語り合うことで、他者と触れるフィールドがさらに広がる。他者の価値観にも触れようとすることが短歌の読みには必要であると。

これは、私たちが日常生活で他者とコミュニケーションするときも心に留めおくべきことだろう。
小説や絵画の解釈をめぐって他の人と議論するなんて、ふつうの人は日常生活ではやらないだろうが、たぶん俳句や詩歌に親しんでいる人たちは、自分のし好は別にして「読み」を評価しあうという素地が伝統としてあるのだろうと推測する。

他者に対して開かれているからこそ、時代を敏感に感じとり危うさを感じる歌人が多いと感ずる。吉川氏の原発事故に対する当事者としての姿勢、社会を詠った作品に私は非常に共感する。ともすれば二項対立の不毛な論争に終わりがちな原発や社会問題に対して、タブーを作らない、誰もが言いたいことを言える言語環境を作ることが率先してやることだという意見に深く首肯する。
「ことばによって人間が操られている」という彼の指摘もまた重い。
大量消費された「ことば」は、すぐさま手あかがついて薄っぺらなものになる。歌人のことばに対する感受性、自分固有のことばであろうとする姿勢は私たちも見習いたいと思う。

素人ゆえ、もうひとつ蒙がひらかれたのは、短歌の定型がリズムをうみだすというところ。ラップや韻を踏むというようなことば遊びもあるけれど、ビジュアルにとびこんでくることばの羅列がリズムを持つというおもしろさ。
文体がその人をあらわす、ということもあるのだ。
技巧的に使われると深みのない歌になってしまうのかもしれないが、自己とことばとの間にかい離のない作品は、激しいものも生活をうたったものも関係なくひきつけられる。

ここでは具体的な歌をあげなかったけれど、「読みと他者」には、多くのすぐれた歌をひいて読みを紹介している。短歌になじみのない人でもわかりやすく、他者のことばがどのように輝きを放っているものか味わってみることを皆さんにおすすめする。