書の海を漂う~乱読日記*その二  うた新聞 九月号   伊藤千惠

IMG_2481「うた新聞」九月号  いりの舎 2015.9.10発行

うた新聞は短歌総合誌である。毎月、タブロイド判の新聞が送られてくる。
時節にあった特集を組み、私のような素人にも短歌に親しめる内容になっている。

はっとしたのは、巻頭評論の『小野茂樹の時代「幼形成熟」としての口語』 山田航(かばん)
(注:カッコ内のかばんは短歌結社の名前) のなかの一文。

― 戦後の日本は、高度経済成長期までは「若い国」だった。実際に国民の大半が三十代未満だったのだ。「未熟な言葉」をロールモデルとする実験は、成熟に価値を見出さない価値観の誕生を反映していた。 ―

これは小野茂樹という33歳(1936-1970)で夭折した歌人について、戦後の文語から口語短歌へと推移していく運動の経緯を論じたものである。彼のもつ口語精神を「幼形成熟」というワードで語られていることを興味深く感じた。
短歌というひとつの文芸スタイルにとどまらず、『「幼さ」をはらんだ言葉が戦後日本の「リアルな言葉」として受け入れられた』ときから、さらに高度成長期を経て、「成熟に価値を見出さない価値観」は、ひらたく日本人全般の身についてしまったかのように思える。
むろん、山田航氏いうところの「成熟」は内的なものを指しているのではなく、私が勝手に社会現象として敷衍しているのではあるが。
成熟とは逆ベクトルの、客観的合理的批判精神をどこかに置き忘れたきたかのような昨今の大人たちは、幼形成熟という芸術的昇華地点には無縁なまま、ただ生産性をあげるマシーンたることに血道をあげているように私には見える。
短歌の様式の話とはずいぶん逸脱した。

書の海を漂う~乱読日記*その一  ダークツーリズム・ジャパンVol.1    伊藤千惠

本を読むことが好きである。自分にとっては娯楽と学びの両方を兼ねそなえた至上の趣味。本の中には人が経験が思想が世界が凝縮されている、と思っている。

たとえば「薔薇の名前」を読むと、純粋な信仰心と暗鬱な因習のせめぎあう中世ヨーロッパのキリスト教社会の雰囲気を、現代イタリア人よりも体感できるかもしれない。実際に史跡をめぐるよりも深い理解を与えてくれるかもしれない。もちろん、経験に勝ることはないかもしれないが、過去は体験できないし他人にはなれない。すぐれた示唆を与えてくれる書物はたくさんある。フィクションでもノンフィクションでも。

評論・解説などおこがましいことは身に余るので、ぐっときたりはっとした一文に出会った記憶をここにとどめておきたいと思う。

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ダークツーリズム・ジャパンVol.1

ダークツーリズム・ジャパンVol.1  ミリオン出版 2015.9.10発行

“ダークツーリズムとは何か?”という副題がついている。
「あえて地域の悲しみの跡をたどる」と、ダークツーリズムの第一人者、井出明氏は言う。
1990年代からイギリスで提唱され始めた概念で、自然災害や戦争のいわゆる負の遺産を観光として取り入れたものだ。アウシュビッツやチェルノブイリがあげられるだろう。
日本では、悲劇の場への来訪は不謹慎とみなす風潮はダークツーリズム普及のための足かせになっていると井出氏。
これは、時間が関係するかもしれない。沖縄のひめゆりの塔などは時間がたっているから観光地として成立しているのかもしれない。
はっとしたのは、防災の世界では「人は二度死ぬ」と言われている、という一文。
肉体的死のあとに、その人を知る人が誰もいなくなってしまうことが二度目の死。多重の意味もある。災害の頻発するような土地に、蛇崩、蛇谷というような地名がつけられても、開発で地名がなくなり、土地の記憶が消失することで、同じような災害がまた起こる。
悲しみの記憶を失うことで、災害への備えも差別されてきた他者の痛みも社会に継承されずに来てしまう。
今号ではハンセン氏病棟の取材もあったが、今までダークサイドを見ないようにしてきた日本人には、ダークツーリズムの可能性は非常に大きい。
というような論考にいたく首肯した。「福島第一原発観光地化計画」の東浩紀氏と井出明氏の対談もとても共感するものがあった。

大熊町からの避難者である、このヴェルトガイスト・フクシマ編集長、吉田邦吉氏の記事も掲載されている。そのはじめの一節。
「ちりちりと無音の、かなしみのわたあめが空に降りそそぐ」

 

注:「薔薇の名前」 1980年、ウンベルト・エーコ(伊)作  1987年、映画化(ジャン=ジャック・アノー監督)