農家民宿ゆんたに泊まる  ―伊藤千惠

今月なかば、福島県二本松市の「農家民宿ゆんた」に泊まってきました。
東和地域に移住してきて8年、有機農業を営む仲里忍さんは沖縄石垣島の出身。
里山での苗木や綿花の植え付け体験、野菜の収穫体験、おばあちゃんの藁草履づくりなどいろいろな農業体験ができます。
ここで栽培されたオーガニックコットンの手ぬぐいやくつしたなど買うこともできます。
5月末の「コットンツアー 2015.5」に参加のヴェルトライター高田緑さんも宿泊。

ゆったりとした居間

ゆったりとした居間

今年、はじめて挑戦するという赤米の田んぼの草取りをさせてもらいました。

草取りの要領を指南していただく

草取りの要領を指南していただく

田んぼの持ち主の本多さんに草取りのコツを教えていただき、人生初の田んぼ入りです。たくさんのおたまじゃくしとかえるに見守られながらおっかなびっくり入るも、ずふずぶと足をとられてなかなか抜けず、難儀しながらやっと一列終わる頃に、ぽつぽつと雨が!
早々にひきあげ、近くの源泉かけ流しの名目津温泉へ。
地元の方が三々五々来られていました。

ここでとれた有機野菜や平飼いの卵を使ったおいしい食事は、二本松市の地域おこし協力隊の高木史織さんが供されています。

地元のお酒をいただいて

地元のお酒をいただいて

高木史織さん発行のおにぎり新聞

高木史織さん発行のおにぎり新聞

田んぼの指導をしていただいた本多さんと高木さんも夕食の膳に加わって、話がはずみます。
そして、ふかふかのオーガニックコットンのおふとんでぜいたくな眠りにつきました。
どうも沖縄の夢を見ていたようでした。

薪ストーブ!

薪ストーブ!(撮影:吉田博子)

8月には山がさるすべりの花で埋め尽くされるのが見られるそうです。
秋にはコットンプロジェクトの綿花摘み取りもあります。
また、ゆっくり時間をとって、わが家のような空間を味わいにいきたいと思っています。

庭の一隅にいらっしゃるかえるの守り神さまに気を取られて、民宿の全景を撮り忘れてしまいました。

 

 

 

第五福竜丸展示館に行って感じたこと ~酒井政秋~

先日、第五福竜丸展示館に行ってきました。

第五福竜丸とは、1954年(昭和29年)3月1日午後6時45分(現地時間午後3時45分)、マグロ漁船第5福竜丸が、マーシャル諸島ビキニ環礁においてアメリカが行った、世界で最初の実用可能な水爆(水素爆弾)『ブラボー』の実験で、いわゆる『死の灰』を浴び被災した漁船でした。甲板に積もるくらい降り注いだ死の灰は、放射能を大量に含んだサンゴ礁の細かいチリでした。23名の漁船員は外部被曝はもちろん、内部被曝を大量にしました。

漁船員の身体は火傷状態となり、また内部被曝により、頭痛、吐き気、眼の痛みを感じ、歯茎から出血もしました。髪の毛を引っ張るとそこからごそっと抜け落ち、乗組員全員が急性放射能症になったのです。乗組員の被災当時の年齢は18歳から39歳(平均年齢25歳)と、若くしてたった1度の水爆実験によって被曝をしてしまったのです。その被災から半年経った1954年9月23日、放射能症による肝臓障害で久保山愛吉さんが40歳の若さで命を落としました。初めての犠牲者となったのです。久保山さんのご家族は献身的に看病をしました。その時の心情を長女が作文で綴っていました。

展示館に展示してある第五福竜丸

展示館に展示してある第五福竜丸

ここでその作文をご紹介したいと思います。

長女の作文

死の灰に負けてはならない。いっしょうけんめいこの灰とたたかってかならずよくなるといいつづけたおとうちゃん。家へかえれるようになったら、私たちをどうぶつえんにつれていってあげるよとやくそくしてくださったおとうちゃんなのに、今は私がおとうちゃんみや子よと耳元でよんでもへんじをしてくれません。きのうもきょうも重体のままです。ほんとうにかなしくておとうちゃんのまくらもとで泣いてしまいました。小さい安子やさよ子は上京していませんが遠く離れている家できっと泣きながらちいさい手をあわせてかみさまにおいのりしていることでしょう。

父と母と兄弟のいる温もりのある生活は、一瞬の核実験によって未来を人生を家族を奪いました。長女の叫びと祈りの声は核実験を起こしたアメリカへ届いたのでしょうか。

未だにこの被害者の苦悩は続いていると書いてありました。

一度被害を受けてしまったらもう二度と同じ人生を送れない事、それが核の恐怖ではないでしょうか。

もし、大切な人、愛する人が核被害の当事者になった時、あなたはどんな事を想うのでしょうか?どんなにやるせない事でしょう。大切な人、愛する人の苦しみに寄り添い続けることが出来るのでしょうか?目の前で起こっている事を見過ごせるでしょうか?それが、核です。それが核の被害なんだとまざまざと見せつけられ、たくさんの問いが私の胸にこみ上げてきました。

1954年3月1日 マーシャル諸島ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験の火球

1954年3月1日 マーシャル諸島ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験の火球

いつも人の作ったもので他の誰も罪のない人が犠牲になります。戦時中、原爆によって核の恐ろしさを知ったはずなのに、このマーシャル諸島やビキニ環礁沖の核実験において日本人も含め、土地を奪われた島の人々が犠牲になっています。それでも、この地球上から核は無くなりません。また、私たちも核の平和利用という名のもとに犠牲になった人なんだという事を強く自覚しなければなりません。

人間の尊厳と地球の尊厳、このどちらも考えながら、「核」というものは使い方を誤るとメリットなどどこにもないという事。ただ、人と土地,そして暮らしを壊滅させていくだけ。と感じます。

昨今の日本を見ていると、何か過去を見ないで突き進む気持ちの悪い空気感が漂いますが、今必要な事は過去を見つめ、そして振り返り、その根本となった根っこの真実を改めなおさなければならない時に来ているように感じる。それを怠ったら、また、歴史は繰り返されてしまうのではないでしょうか。

 

空間を思い起こし、感情ではなく忘れていた人物たちに出会う  吉田葉月

何かを思い出そうとしたときに、体験に伴う強い感情があらわれて、思い出すことがより困難な時期があった。

震災に纏わるトラウマはあった。津波がいずれ私のもとに届き「もしや死ぬのか」と感じたが、その瞬間に、自由に逃げ出せなかったことは原因の一つだったのではないかと思っている。そのタイプのトラウマと混在していた、別の何だかよくわからない胸の苦しさ、頭の詰りは、どういうものなのかと、よくよくとほどいていこうとする。大震災以前からあった、「あのことに触れるのは窮屈な感じがする」「こういうこういう光景をみるとあれを思い出さずにはいられない」というような類のものを、芋掘りでもするように、ぞろぞろと引き出すことになった。

上記のような体験を出発として、激しい感情に引っ張られずにマトモに記憶を振り返るというのはどんなことなのと思うようになりました。

私は、記憶にへばりついている感情ではなく、暮らしていた空間をホログラムを立ち上げるようなイメージで思い出してみました。すっかり忘れていたと思いこんでいた幼少期や思春期の空間の印象の尾びれが、抽象画程度の光景として向こうからやってきたら、その光景の場所を起点として記憶に降り立ち、歩いたり、車に乗ったりしながら眺めまわるようなイメージの手法を取っていました。いつのまにかそうなっていました。

私はその行為に「記憶ストリートビュー」と名付けて親しんでいます。はじめてそれが起動した日には、何かのために何かをする意図はありませんでした。日中、家族と連れ立って話したり歩き回ったりしていた日の夜に、偶然、幼いころの光景が復元されたように近づいてきたのです。
たとえば、寝床などでそれを楽しんでいると、本当に子どもになってしまって、けれども今の自分の言葉で光景をなぞっていき、文として綴りました。それをやっていて思うようになったことがあります。

記憶の一部は、失われたとは限らず、今を生きていくためにそっとフェードアウトさせた可能性があるのかもしれない。

幼いころ通院していた病院の中にステンドグラスがあったとか、それに対して、向かいの位置にネオンテトラの水槽があったとかを、ぐりぐりとGoogleのストリートビューを操作する様に進んだり戻ったりして、記憶にある光景を立体的な地図に見立てて遊んでいるのですが、苦しさとか痛みを伴うことなく大人や同級生といった人物に遭遇します。その人たちが何をしているのか、どんなときに口を開いたのか、ということも自然に思い出すことがあれば、その場でパソコンや携帯電話で綴っていきますが、なにも思い出さなければそのままです。空間に入り込んでいる私を、はた目から見ることができるとすれば、静かにポカーンとしているような表情に見えることでしょう。

「記憶ストリートビュー」をしていると、私にとっては名のなき人ではあるが、確かに存在した人たちに出会うことがありました。例えば病院の空間を眺めまわした時に現れた女性の看護師さんなどです。

日頃は、対面するとあいさつも蔑ろになり、どんなとっかかりで何を話していいか分からなくなる家族が、私の移動のために車を出したとか、私に何を施してくれたかが、感情抜きで見えたこともあります。これはいよいよいい具合です。
また、忘れていた人物というのは、存在しない人物ではありません。居ないことにして良くもないけれど悪くもない。かといって四六時中思い出していなければいけない訳でもない。「いたんだな」と感じるだけです。

ひとしきり空間で遊んできて、現在にゆったりと戻った時には、今まで感じたことがない種類の静かさと穏やかさが残りました。

私は様々な実験中です。

ボクの簡単さ  天井優志

さわぎたつもの(天井優志)

さわぎたつもの(天井優志)

ボクはあまりに簡単だ

事を荒立てることを良く思わないかもしれない
穏便に済むようにしてしまうかもしれない
統率を優先してしまうかもしれない
”身勝手だ”と受け入れられないかもしれない
”良い人だから”と悪く言うのを遠慮するかもしれない
待遇の違いを面白く思わないかもしれない
時間や労力を使って進めたことを修正できないかもしれない
折衷案で満足してしまうかもしれない
”決まったことだから”と従うかもしれない
個人の事情は反映させられないかもしれない
相手の不完全さを責めてしまうかもしれない
支配的な性格が顔を出すかもしれない
立場や役割におさまっていくかもしれない
負担の皺寄せをつくるかもしれない
大切な人の痛みに相手を恨むかもしれない
けなしたり仕返しをするかもしれない
国際試合のように熱狂してしまうかもしれない
勝利者の方程式を賛美してしまうかもしれない
高揚感に身を任せてしまうかもしれない
流行みたいに乗ってしまうかもしれない
楽しいつながり方をしてしまうかもしれない
保守的なつながり方をしてしまうかもしれない
攻撃的なつながり方をしてしまうかもしれない
集団としての言葉を使ってしまうかもしれない
考えに同調を求めるかもしれない
都合の良い方へ解釈するかもしれない
つながりの理由を鋭利化させるかもしれない
カッとなって手や口を荒げるかもしれない
正義や真剣さや倫理観を踏み絵に使うかもしれない
”ごちゃごちゃ言ってないでやれ”と言うかもしれない
”大事な時期だから”と勢いや連帯感を大事にするかもしれない
未来や過去を見て現在を見られないかもしれない
現在ばかりを見て行く先を見失うかもしれない
上ばかり見て身の回りのことをないがしろにするかもしれない
自分の弱みや痛みを口に出せなくなるかもしれない
周りの人と話しずらくなってしまうかもしれない
特技がなくても役立てるならと参加するかもしれない
”自分が決めたことだから”と続けるかもしれない
”周りが頑張ってるから”と続けるかもしれない
ことの難解さに分かりやすいものに身を寄せるかもしれない
情報や感情から身を遠ざけるかもしれない
人とのつながりや共感さえ消費し消耗するかもしれない

様々な感情を沸き起こす大きな力に正常でいる自信がない
それはもう尊さを引き合いに出さなくても充分に
少なくともボクはあまりに簡単だ

でも  きっと  そう 僕は

国民学校の少女の記憶(外伝) 高田 緑

(1)よりつづく)

少女には、明治33年生まれの伯母がいた。
父親とは6歳違いの、明治、大正、昭和を生き抜き、土佐の血を受け継いだ伯母だった。(中島家は、廃藩置県の後に土佐から郡山市喜久田町に移り住んだ歴史がある。)
井上家に嫁いだ伯母の井上 光(こう)は、昭和63年の88歳のお祝いに、長年に渡りしたためていた句や日記を自費出版した。

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『草の露』である。 この世には出なかった本であったが、折りにつけ、少女の娘である私は読んでいる。
先の戦争に息子を送り出した光さんの言葉は重く、力強さを感じる。
次男は昭和18年の“雨の神宮外苑“で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかったという。「行ってきます」とは言わずに、「行きます」と一言残し家を後にした。
長男は昭和19年5月に海軍少尉に任官し、海南島での任務を命ぜられ決死隊を組織したが、不本意ながらも生きて帰国した。「生き恥さらして帰ってきてしまいました。」、と玄関先で自決しようとしたという。 長男はその後、神風特攻隊についての随筆集を残しているが、「人間の出来る最後のもの、それは自ら撰ぶ死であるのだ。」、と最後に記してあるのを読む度に心が痛む。

戦争により、親より先に子に旅立たれ、離婚と再婚、そして夫の死。そしてまた娘に先立たれ、波瀾万丈 の人生を歩んだ少女の伯母は、100歳を過ぎるまで生き、少女にどんな世でも強く、プライドを持って生きる事を身を持って教えたという。

『草の露』の中の、戦後40年に当たり、光さんが85歳の時に書いた文が心に沁みる。

力強く生きるからこそ人間です

すっかり世の中が変わりました。
私は明治中期に生まれ、明治、大正、昭和と長い人生がいつの間にか過ぎたと思っております。
私どもが若い頃は、世の中の人はもっと親切で、誠実であり、国を大切に、神を敬い、親には孝行し子供には大切に、そして礼儀正しく厳しく育てたものです。
この寒い時期に、白鳥は一家眷属大勢で仲良くシベリアから日本の湖水に来ます。
晩秋には、北方から雁がきれいに列を組んで渡来します。
鳥でさえこんなに仲よく助け合って生きているのに、万物の霊長であるはずの人間が、どうして些細な事で殺し合いをしたり、子供を道連れに一家心中したり、子供が父母を殺したりするのでしょう。
人生、色々な一生があります。
悲しき事、苦しき事、耐え難い事、これを乗り切る事が人の道ではないか、と私はいつも心の中で思いながら生きて来ました。
生きる事は辛い事のみ多いものではありません。
楽しい事の方が、きっと多いのです。
明るく希望を持って生きる事です。
・・・・・・・・・
日本人と言う事に誇りを持つ事、どんな時でも自分に誇りを持つ事です。
苦しさも悲しさも乗り越えて、力強く生きるからこそ人間です。
悲しさに潰されそうになった時も、じっと我慢して、少しでもよい方に向かう事を考えて生きて行こうと思います。
(『草の露』井上 光著より抜粋 )