活火山と生きる(上) 米田ひろし

2015-05-31-05-52-46_deco29日、爆発的な噴火が起きた口永良部島…これは衝撃的だった

私は火口から直線距離で12kmの所に住んでいる

今まで恐怖を感じることなんかなかった…それは、必ず前兆があるという前提があったからだ。専門家もそう言いつづけていた…

もし桜島が大規模噴火すれば、鹿児島市内ではM7以上の地震と7m以上の津波が襲いかかり私の住む地域は50cmの火山灰が降り積もる。

車は渋滞…避難することもできない

今回の口永良部島の報道では、日頃の備えで避難がスムーズだったみたいな事を言っているが桜島に住む多く住民の避難はそうはいかない。専門家は、口永良部島の噴火の予知は難しかったと悠長な事を言っている場合ではない。

我々は、行政や専門家の言うことを信じ桜島を受け入れている。だから今回の口永良部島の噴火予知ができなかった事をちゃんと説明するべきだ。

それと…口永良部島の噴火を利用しようとしている人間がいる…

心ない一部の反原発の人達だ。そういう雰囲気を感じる

自然は、それに対しM8.5の報復をしたと言ってやりたいぐらいだ

私は、混沌とした、今の日本に自然が警鐘を鳴らしてると感じて仕方がない

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父と伯父と戦争と  伊藤千惠

私の父(2011年没、94才)と、父の兄(2000年没、92才)は、日韓併合後の朝鮮総督府逓信局(在ソウル)に職を得て、熊本から朝鮮半島へ渡り、敗戦後の混乱と緊張のなか郷里へ引き揚げてきた。

父は、逓信局から3たび応召している。
生前、父がよくした戦争の話は、暗号兵であったゆえ護衛がついていたとか、作戦中に虫垂炎になり野戦病院で麻酔なしの手術を受けたなど、断片的なもので悲惨な印象はなかった。

父のいた部隊の上官は人格者であったようで、戦後も交流があり、その人からいただいた写真帳が残っている。
昭和15年(1940年)、中国の山西省太原が戦地であった。

昭和15年 中華人民共和国山西省古縣鎮にて戦友と

昭和15年 中華人民共和国山西省古縣鎮にて戦友と

[写真左が父、右は父の一番の戦友で昭和15年(1940年)5月に戦死、と父のメモ書き]

写真帳には、上官であった人の注釈がびっしりと記入されている。そこには、「生死を共にして滅私奉公の戦いの思い出のよすがとして」とあり、戦地でともに戦った仲間への懐かしさはあっても、戦争への反省といったものはうかがえない。
おそらく彼らの部隊は最前線ではなく、残虐な行為も死者も少なかったのであろう。
戦争経験者のなかで、そういう感懐を持つ人も少なくないのではないか。

写真をいただいた部隊長副官(中央)と本部付きの軍犬と当番

写真をいただいた部隊長副官(中央)と本部付きの軍犬と当番

父の死後、実家の物置から出てきた汚れた水筒には、『昭和20年(1945年)3月、3度目の応召、朝鮮軍兵站部羅津支部の要員として勤務中、突如としてソ連が8月9日宣戦布告し満州に侵入、北鮮羅津地区に爆撃を開始。朝鮮人上等兵を連れて帰途中、新品であった水筒が爆撃でざらざらになった。』というメモがついていた。

昭和20年(1945年)8月9日 ソ連軍の爆撃でざらざらになった水筒

昭和20年8月9日 ソ連軍の爆撃でざらざらになった水筒

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父の水筒メモ

朝鮮人上等兵ということばに、はっとした。
(朝鮮人という表現は当時の呼称にならったものであり、蔑称として使っているものではない。)
被統治国の兵もいたのだ。
父も伯父も、中国や韓国の人たちをさげすむような言動はいっさいしなかった。
高潔な性格であったと思う。
彼らは日本のした戦争をどうとらえていたのか。

あるはずの父の日記も見つからず、生前、もっと詳しく話を聞けばよかったと後悔の念しきりである。
伯父が昭和63年(1988年)に自費出版した「開拓記」の存在を思い出し、20年ぶりに読んでみた。

昭和20年(1945年)8月14日の敗戦前日から、引き揚げてくるまで、伯父が俳句手帳に書きつけたという敗戦記録から始まっている。

昭和63年(1988年)12月出版

昭和63年(1988年)12月出版

伯父は18歳から敗戦までの20年間、ソウルの逓信局に務め、一度も招集されなかった。当然、被統治国側の人たちも職員として勤務している。伯父は、彼らのことを日本人とまったく同様に接し、彼らも伯父と親密に交流している様子がうかがえる。
しかし、日本人職員は様々な現場を経験させられて本配属になるが、彼らは同じ部署でずっと同じ仕事をし、昇級することはないと伯父は書いている。すぐれた書をする者がいても、重用されることはなかったと。
明確にではないが、彼らに対する同情の念が感じられる。

少し長いが、当時の日本人の代表的な認識ではないかと思う一文があるので引用する。

『渡鮮に当たって私は「朝鮮」について何の知識もなかった。日清、日露の没後日本の進出により日韓併合が行われ一視同仁の大日本帝国の一部であること以外は。従って民衆の思想動向がどのようなものであるか、日本の植民地経営が着々と行われている反面、独立運動が絶えず一部の人々によって続けられていたことなど「知らされない側」の一人に過ぎなかった故である。
現地に長くいれば、彼らが従属民族の悲哀を持っていることを肌で感じたことはある。しかし当時は民衆が被圧迫民族だと感じることなどまるっきりない無知の時代でもあった。』

伯父は、半島で短歌や俳句の文芸誌を発行するなど、多少は知識人の側面もあったが、軍国主義体制への批判のようなものはみられない。一介の逓信局員であり、何も知らされなかった国民はそうしたものであったと推量する。

一方で、敗戦直前に病死した外交評論家、清沢洌のように、当時の軍部・政府の非合理性、精神主義や、それに追随する文学者への痛烈な批判、大本営発表への不信感など、現代ジャーナリズムと同等の視点を持つ人もいたのである。
彼の「暗黒日記」は、出版を想定したものではなく、戦争記録としてつづった日記であるがゆえに、近代以前とも言える人々の戦争への認識や、この時代の異常さが伝わってくる。

ここ数年の世情をかんがみて、痛みを伴ってでも戦争を庶民から天皇まできちんと省み総括してこなかったツケが、私には今も続いているように思えてならない。

実は、この「開拓記」は、終戦後、伯父が郷里に帰り開拓地へ入植してからの苦闘の連続の方が、読み物として断然面白いのだが、それはまた別の稿へ。

簡単に書すと、父は熊本市内に郵政関係の職に就き、伯父は39才で開拓地に入植、夫婦2人で20年間、大地を開墾し続け、60才にして夢であった書道教室を開き、書家としての人生をまっとうした。

最後に「開拓記」のなかのことばを。
『私共には死ぬまで戦後は終わらないだろう。』

 

参考文献
・「暗黒日記」清沢洌著(1990年刊行)

もう一人の自分(精神疾患)と共に生きる 最終章(中) 米田ひろし

上巻から続く)

今年の春は、余裕がなくて…
今ごろになって頭に浮かびあがった。

いつも春になると思い出すこと

前の職場の上司とのこと…

FB_IMG_1432614034572花見の飲み会で上司が「嫁さんが胃ガンでなくなった」という話した。

私は酔っていたせいもあり、「奥さん、痛い…苦しいって言わなかったでしょ」 「最後まで、ごめんなさい…ばっかり言ってたでしょ」と話してしまった…

上司は、「なんでお前、そんなこと知っとるんよ」って…そこでお開き…

休みの日に一人で、買い物にでかけた…

なぜか目的地にたどり着けない…

頭に女性の姿が浮かび上がった

そう言う事かと思い…上司に電話

説明して「お墓の場所を教えてほしい」と話した。
上司は「オレは信じないぞ」といいつつも場所を教えてくれた。

2015-05-28-06-42-36_deco納骨堂は、私がいた場所から車で5分とかからない場所だった…

いろんなメッセージ…

いちばんは「仲良くしてほしい」だった。

夕方、上司から電話…そのまま話した。

学校でいろいろと問題を起こす高校生3年生の長女のことを話してくれた。

奥さんが疲れきっているから供養させてくれとお願いした。「なんでお前がそんな事をするのか」と上司は半分怒っていた…

「私が持ってきた塔婆を7日間だけ、納骨壇にお供えしてくれるだけでいいから」とお願いした。

上司は半信半疑で戒名を教えてくれた。

お寺で供養してもらって塔婆を上司に「7日間、壇にお供えしてください」と手渡した。

上司は、「こういう事して何か徳することあるのか」って言うから、「何もしなかったら買い物に行けんもん」って言ったら、笑って焼酎をくれた。

キライな銘柄の焼酎だったけど美味かった。

2015-05-29-13-01-49_deco数ヶ月後、休みの日に一人で買い物にでかけた…また、目的地にたどり着けない。

また納骨堂の近くにいた…行ってみた。

「ありがとう」という声と壇の明るい光…

数日後、上司が私の部所にやってきて、「娘が、留年か退学かと思っていたのに卒業できた。」と嬉しそうに話してくれた。

1ヶ月後の花見の飲み会の時、あれだけ嫌がってた娘の事を嬉しそうに話す上司がいた。

居酒屋のバイトが楽しいらしく一所懸命に働いてる事、飲んだくれて帰宅した時に介抱してくれた事やその時のタクシー代を娘さんが払ってくれた事、誕生日にプレゼントをくれた事。

「うっ方(嫁さん)は、オレのこと何もいってなかったのか」って言うから、「そういう事いう人じゃない」って言ったら苦笑いしてた。

楽しい飲み会だった。

DSC_0730まぁ、いつも書くことだけど…

こういう話は…という人が大半。でも信じすぎるのもダメ

3.11では、多くの人が亡くなった…

それぞれの大きい宗派の方々が供養してくださったから大丈夫と思う。

でも、ちょっと深い部分を知ってもらいたかったので書いてみた。

「コットンツアー 2015 . 5」に参加して  高田 緑

「コットンツアー2015 .5月」参加者((撮影 : コットンプロジェクト福島)

「コットンツアー2015 .5月」参加者((撮影 : コットンプロジェクト福島)

5月23日・24日、コットンプロジェクト・福島(代表:渡邉真紀湖) 主催の、綿花の苗植え体験ツアーに参加してきました。
コットンツアーの開催は今年で4年目。4月の種蒔きから始まり、苗植え、草取り、摘芯、綿摘みと一年を通してのコットンツアーが開催されています。

栽培を管理しているのは、福島県二本松市のオーガニックふくしま安達の有機農家さん。農家民宿に泊まり、有機野菜を使った料理を食べて、オーガニックコットンの寝具にくるまれて眠る。食だけではなく、生活の中にオーガニックを取り入れる窓口としてのツアーには、今回は、初めて福島県を訪れたという参加者もいました。 福島県で綿花が栽培されているのを知り、また「福島県に行ってみたい」との希望で参加してくださいました。

当日は、最高気温が東京よりも高くなった炎天下での苗植え作業。事前にマルチを張って、後は苗を植えるだけの準備をしてくださっていたので、私たちはただひたすらに、10センチ程に育った苗を優しく定植しました。そう、優しくです。「生きてちょうだいね!」と、声をかけながら土に植えていたのです。 この苗が、雑草や害虫にも負けず、花を咲かせ実がなり、綿(わた)になり、種を取り除き、糸を紡ぐ。糸が織られてコットン製品となる…。この果てしない緻密な工程を、先人たちは日常の生活の中で行っていた事に、毎回、改めて敬服せずにはいられません。

綿花の苗植え(撮影 : 高田 緑)

綿花の苗植え(撮影 : 高田 緑)

福島県では、会津地方での綿花栽培の歴史が古く、天生年間に綿花栽培が推奨され、会津木綿が藩の特産品の一つとして、今なお400年の伝統が受け継がれています。

二本松市では、【地元の農地で有機栽培された綿花を原料に使い、衣服や小物に加工して活用することで、農業の6次産業化を目指し、都市と農村の地域間交流を推進しながら、日本の農産物の自給率向上に貢献する、という思いを「かたち」にしていく】(コットンプロジェクト福島より) というコンセプトの元、震災後から取り組んでいるそうです。

山里で土に触れ、根付いた苗に水をやる。青蛙が飛び、山からは鳥のさえずり。見上げれば青く澄んだ空。全てが自然と平和の成せる業であることが、参加されたかたの笑顔から滲みでています。 生産量はまだまだ少ないようですが、参加することにより、自然の恩恵なしでは人は本来、生きてはいけない、そんな有り難さのようなものを感じることができれば良いのではないかと、私なりに解釈しています。

農家さんの作業は果てしなく、日々続いています。一日二日の数時間では、現実的な苦労も理解出来たとは言えませんが、とにかく、コットンツアーは様々な醍醐味があります。 東北地方の厳しい気候の中での農作業の合間にあるお祭りごとのように、楽しいご褒美も満載です。

餅つきを体験( 撮影 : 高田 緑)

餅つきを体験( 撮影 : 高田 緑)

福島県を初めて訪れた参加者の若い女性が、富岡町から避難されてきたお孫さんをもつおばあちゃんの話を、対面で瞳を見つめながら聞いていたのがとても印象的でした。これも参加しなくては、分からなかったことかもしれません。
コットンツアーは、次回は草取りです。
フワッフワッの綿花に癒される日を待ちわびながら…。

 

観察記 アリの家 吉田邦吉

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ぬくい散歩中、アリの巣がある。まるで古墳だ。

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庭付き一戸建てか。活気づいている。

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自然が豊かだ。

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悪くないデザイン。

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向きを変えて隠れ家的な。

アリというのはフェロモンの濃淡をかぎ分け、それで行動するらしい。ほかのアリがフェロモンの濃淡を出しているとき、それに混ざって「エサがあるからこう組織的に行動する」などと決まるようで、女王アリが指令を出しているわけではないそうだ(アリの生態にみる自己組織化のルール 山根圭輔,アクセンチュア ITmedia エンタープライズ 2006年02月15日 http://www.itmedia.co.jp/im/articles/0602/15/news109_2.html)。

キノコ栽培用の落ち葉を集めたり巣穴を補強したりでき、「ゴミ捨て場と仲間の墓場は必ず巣穴を中心に180度反対に設置」し、「仲間のフェロモンから危険な方向を察知して避難」でき、「巣の引っ越しを、最も住み心地の良さそうな引っ越し先を選んでから行う」という優秀さ。

しかし、TV「ダーウィンが来た」によれば働かないアリが居るらしく、数時間で数センチしか動かずに食べ物を食うらしい。メディアファクトリー新書「働かないアリに意義がある」の著者、長谷川英佑准教授によると、どうアリの集団を分けて暮らさせても「2割が常に働かないアリになる」そうだ。

巣が壊れるなどのピンチのときにピンチヒッターとしてシステム全体を救出できる控え選手の役割らしい。日本の社会では「働かないは他人から妬まれる」のが常だし(稼ぎすぎも妬まれ)、ハワイでは早めのリタイヤはおめでとうらしいし、ドイツでは午後3時までワークシェアリングなど、「働き方は価値観に応じて多様」になってきていることを思う。

私が英語でよく海外の人達と会話している時、日本人がよく「羨ましい」という言葉を英語で言うと、海外の人達は非常に謙遜というか、実は常識の違いに驚いたのではなかろうかと思われる態度をしているシーンが多々あった。「羨ましい」は英語でネガティブな語感があるに違いない。確かに自分がどういう状態を選ぼうと自由意思の場合、言い方によって羨ましいは嫉妬言葉になるのだろう。

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なぜか破壊されたコンクリートのそばに退廃的に建設。
頭上は通行人と強風による落石注意。

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葉っぱでサンルーフ。

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こちらも退廃的かつ「苔(コケ)」つきでグレードUP。

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レンガ通りの間だって作っちゃう。

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公園の林がすぐ隣なので落ち葉に困らない。

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レンガが見えないほど砂だらけになった平地型古墳か。

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食い物を運ぶ最中の働きアリ。巨大な獲物だ。

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林と池の辺りを歩いて目の保養。鳥のさえずり。
早朝ランナーや散歩中の人多く挨拶よくする時間帯。
珍しく二人組。

女性「どのくらい歩くの?」
男性「やあ、もう1時間で足がくたくただよ」

人間たちは歩くだけを歩く。

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気温が冷たい場所ではアリの活動もない。

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さながら世界のどこかの洞穴住居の跡地とか、遺跡のようだ。
人間が絶滅したら世界中こうなるに違いない。

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公園によくある植樹スペースにもアリの巣はある。

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と思いきやこの樹木には巣だらけで驚いた。もしかして枯れるのか。

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逆にこちらのスペースでは巣作りに失敗した模様。
誰も、いや、アリも居ない。

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字義通り飛んで火に入る夏の虫じゃないかこれじゃ。
「這って」いるだろうが。

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アリの巣をつくるどころじゃない強敵あらわる。コケ。

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もっと強敵は人間か。人工的な砂地にはアリの巣が一つもない。
まるで砂漠地帯。唯一「スギナ」だけが生えている。

スギナを検索するとどうやらこれは「地獄草」という別名あり。『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか』稲垣 栄洋(幻冬舎)によれば、細かい枝を群生させるのが杉に似ていることから「杉菜」と呼ばれるようになったという説もあるらしい。スギナは根が深いから地獄まで伸びていると言われる。ウェブを見れば農家の天敵になる場合もあるようだ。

さらに、土筆(つくし)は、スギナの子として歌われるが実際は胞子を飛ばす茎で、植物にたとえるなら花の部分らしい。また、「ツクシやスギナの関節から茎を引っこ抜き、改めてそれを挿しておいて『どこで接ーいだ?』といって切れたところを当てさせる遊びがある」とウィキペディアは書いているが、その通りだ。私もやったことある。どこで誰に習ったのか。

スギナもツクシも食材だとか生薬だとかあるらしいが、だいぶ留意が必要で、もろもろに無知な場合は食べないほうがよさそうだ。そして、かつて原子爆弾をアメリカに落とされてその後、真っ先に緑を取り戻したのがこの「スギナ」らしい。

地中深くの根茎がシェルターになって熱線を防いだのか。しかも、「閻魔大王は地蔵菩薩の化身」だそうで、地獄から現世の地獄を救いに菩薩がやってきたのがスギナというように先の本のサイトでは締めくくられている(2015.04.18 第4回 原爆投下後の広島で最初に緑を取り戻した「スギナ」稲垣 栄洋 G+幻冬舎plus http://www.gentosha.jp/articles/-/3405)。

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だいぶ話がそれたがまたアリの巣。
コンクリートとコンクリートの間バージョン。

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絶望的。あたらしいアスファルト。

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道の逆側に出来ていた。
こうなってくると「人工物を微量に破壊」して「してやったり」。
無主物のアリは物(ぶつ)だろうから、犯罪「人」は「いない」。

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縁石の内側、植樹の土がある周囲は楽園だ。
写ってないがツツジの花のしおれ具合も女性的美をかもしだし。

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あたらしいアスファルトにも、ついに勝利した。
長い間、アリの巣はなく、ずいぶん地下生活だっただろう。

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目線を上げると田園風景。人間の巣はでかい。