「放射能を過剰に怖がるな論」に反論 吉田邦吉

そこかしこでささやかれる「放射能を過剰に怖がる必要ないし、福島の誇りを発信論」に私は唖然としています。放射能が怖くないなら避難してないし原発作業でタイベック着用してないしロボットで溶融燃料とりだそうとしないし100Bq基準で大騒ぎされません。

4年前の今日、わたしは大変な恐怖に包まれていました。この世から放逐されたと思いました。生きていけないんだと思いました。半分の人生は終わりだと思いました。ものと思い出と先祖伝来の土地や家や人々の笑顔や避難中の生命や毎日毎日の苦労や何気ない自分の暮らしなど、全てが、「恐怖と強奪」によって引き裂かれていきました。

その気持ち、わかりますか。
簡単に「過剰に怖がるな」などと言わないでください。

わたしたちが何か悪いことをしたんでしょうか。
放射能を怖がるわたしたちが何か悪いことをしたんでしょうか。

悪いことをしたのは、誰ですか。
大人の責任をとらないのは誰ですか。
野放しに黙っているのは誰ですか。

放射能で人生を奪われ、放射能で人が死に、放射能で悩ませられています。
決して「ハッピーフクシマ」など、わたしにとって、全く腹立たしい内容です。

放射線被曝で染色体異常が一度でたらその後の子供らは取り返しがつかないミスコピーが遺伝していくのに、ほとんど回復と言われ、「じゃあ大丈夫、過剰に怖がる必要ない論」こそが「危険」なのを、忘れていると思います。「過剰に怖がるな論」ではなく、真剣に話し合うべきです。

安全神話やめてください。

ハッキリ言う、本当のことを言う、それでこそ「信頼」は、勝ち取れるものだと思います。それがどうですか。責任者は逃げる。汚染水は垂れ流しだんまり。中間貯蔵施設だなどと福島をゴミ箱にし、原発事故はいつ終わるのかさっぱり見通しがつかず計画は伸び放題。これのどこが、「安心安全」でしょうか。

無理もたいがいにしてください。
そんなことより責任をしっかりとってください。
「過剰に怖がるな」ではなく「責任とれ」と言ってください。
本当に、うんざりです。

5年目の3.11 ~空も海も大地もつながっている~ 伊藤千惠

4年前の3月11日のことを克明に覚えている。
仕事場から家まで歩いて帰った。
そのとき東北の地で何がおきているか知る由もなく、夜中に幹線道路をぞろぞろと歩く東京のわたしたちは、ちょっと非日常的なうきうきとした気分でさえあった。
帰宅し、テレビをつけ尋常ならざる風景に息をのみ声を失いうちのめされた。
生活のすべてを災厄にうばわれた人々。
そして、東京で消費するための電力を作っていた東京電力福島第一原子力発電所の事故。

責任の重大さを認めない政府と東電に憤りを感じた人たちの抗議のデモへ行った。
今まで知ろうとしなかった政府の、中央省庁の、産・学界の功罪。自分の無知。
この国の経済成長の陰画のように存在する環境汚染や地方の衰退。日米関係。
いろんなものを読み漁り雑多に理解し、書き散らし、叫んだ。

以前から知っていた福島在住の知人のブログには、東京人の活動は違和感を持つとあった。
それにまたうちのめされた。理解されていると勝手に思い込んでいた。
困窮している人のことを考えるのが先じゃないか?
ネットでは多様な声はひびいてこない。

町ごと避難、という考えられない事態を体験した人たちのところへ行った。
福島県内に戻ったり、県外へ自主避難したり、ずっと住み続けたり、
さまざまな状況にいる人のことを自分の目で知りたいと思った。
取材対象としてではなく、欠落した知識を埋める情報としてではなく、
お隣に住んでいる人として、友だちとして話を聞きたいと思った。
今は、何をするべきかではなくて、自分はどうしたいかと思って生きている。

先のことはわからない。
空も海も大地もどこまでもつながっているように
隔絶するのではなく、やわらかく受け止めたいと思っている。

「風にたじろがず日々を生きる ~ 5回目の3・11によせて ~」 酒井政秋

2011年3月のあの日からもうすぐ4年。

未だ置かれている状況は『避難』という中の非日常のような日常を送っている。

いつ日常という平穏な暮らしに辿り着けるのだろうか。

4年という月日で自立再建の決断をそれぞれ迫られている。

その中でいつも心は揺れ動き定まらない状況だ。

「安住の住まい」とは、プライバシーが守られ、日々の中で最も落ち着く空間でなくてはならない大切な場所。そこが未だないというのは落ち着かない。

日々、仮設住宅では救急車のサイレンや隣の足音や物音の中で生きるというのは、心を乱される。

飯舘村で育ち暮らしてきたものにとって『音』の変化でもあったと思う。

飯舘村にいるときは鳥の鳴き声、カエルの鳴き声・川のせせらぎ、風の音それが生活の中での『音』だった。

そして、その『音』は四季を感じるとても心休まる当たり前の音だった。

 

原発事故というのはひとり一人の人生や生活を一変させ、住み慣れた環境だった故郷を汚染された。

確かにそこにあっても、自由に入ることが出来ても『生活』ができぬ土地になってしまった。

原発事故前の暮らしは二度と元には戻らない。

あの日あの時の厳しくとも心は豊だった暮らしは、思い出でしか味わえない。

未来へとゆく者として原発事故は日本のどの地域においても、世界のどの地域においても起きてはならない事だと思う。もう歴史は繰り返されてはならない。

 

風が運んできた放射性物質。

いつもわたしたちはこの4年、

ある意味で風に心を乱され続けた日々であった気がする。

風潮であったり風化であったり、良いも悪いも常に取り巻く風がある。

追い風にも向かい風にも成り得る風。

その風にたじろがぬように。

 

歴史の中で人は誰かが最先端として作ったもので、時を経てまた別の関係のない誰かが苦しめられるという現実がある。

そんな歴史の繰り返しで良いのだろうか。

いつもこの時期はやけに大きなプレッシャーがのしかかる。

そして

結びに2011年3月11日から現在まで多くの尊い命が旅立たれた。

人・ペット・家畜・自然

静かに深く祈りたい。

 

 

2015年3月5日 飯舘村の風景

2015年3月5日 飯舘村の風景

 

 

聴けなかった姿 5回目の3・11によせて 吉田葉月

イヤー・クリーニングというのを御存知ですか。
学生時代に、それを恩師に教えてもらいました。

川原、高台、公園など、自分の落ち着ける好きな場所に行って、ただ音を聞き取ることに徹します。できれば10分20分と、それをやってみる。鳥の声が聴こえるかもしれないし、風が木の葉を揺らす音が聴こえるかもしれない。工場の排気音や高速道路を車が走る音が聴こえるかもしれない。

私が以前、川原でこれを行ったとき、現在しゃがみこんでいる位置の地形や傾斜の特徴まで、聴こえによって見ることができたことに、静かに感動しました。音以外の情報の感受から離れるとはいえ、水がどちらからどちらに流れるのか考えてしまう。風の吹き込む音から、谷間であることを解してしまう。目を瞑っていても、鳥が傍まで来ていて、ひとしきり偵察をされて離れていく事も、その声や羽ばたきで分かってしまう。
ただ聴くことに徹し30分ほど経ち、聴くだけに徹していた状態を解く。すると、イヤー・クリーニングを解いた直後の状態と、誰かによって情報化された情報を、環境から取捨選択していたかのような以前の状態との違いに気づきます。

しゃがんでいた傍の見やった先にあった低く小さな草本が、私にとって何か特別なことに感じました。愛着がわくようで、名前でも付けてみたくなりました。そのようなことが、与えられていない、私の必要による報せのように感じます。
イヤー・クリーニングによって、どこのだれか分からない者の選り抜いたような情報から空間を構築しがちだったことが、明らかになった気がしました。

そういえばさっき、原発の傍に暮らしながら、その姿の測れなさ、捉えにくさを感じたことを思いだしました。

2011年夏~秋頃、会津鉄道や野岩鉄道の下今市方面、車内の四人掛けのシートに座り、会津の風景を感じて描きました。これを描いていると、子どもが、もの珍しそうに集まってきました。(吉田葉月)

2011年夏~秋頃、会津鉄道や野岩鉄道の下今市方面、車内の四人掛けのシートに座り、会津の風景を感じて描きました。これを描いていると、子どもが、もの珍しそうに集まってきました。(吉田葉月)

私には福島第一原子力発電所より、そう遠くない場所に住んでいました。それなのに、間近で原発の全貌を見たことは無かった。今では、存在の危険さがしきりに呼びかけられているけれど、福島県内であっても、現在のように新聞やテレビで日々報道されるということは、まずありませんでした。

一度だけ原発を捉えようと赴いたことがあります。たしか2009年か2010年ごろだったと記憶しています。
ある時期から、地域の姿のようなものが気になり始め、原発のことも気にかかるようになりました。近隣に住みながら発電所の全貌を見ないままでよいわけがないと感じるようになって、発電所の敷地を目指し車を走らせる。
国道から曲がり走行していくと、国道付近には見られたような、分かりやすく人間の跡と言えるような人家や田畑は途中から無くなっていくように記憶している。どちらかと言えば暗くなっていく。針葉樹が道路に並走して茂っていたように思う。対向車は無く、前後にも車は無い。生活に頻繁に利用する国道を折れてから第一原発までの道程を走行してみると、それは、私にとっては用がなければ通らない道、という印象を持ちました。
数分ほど、人家の無い、人気の無い道に従ってに走行すると、第一原発の門が現れる。施設のような建物が眼前に現れたことは分かるが、私は視界にできるだけすっぽり入りきるというような、姿、が見たかった。できるだけ広く視界に入れようと後退すれば林に突っ込んでしまう。
その時の私の持ちうる知では、まるごと目に入れるために、どこに行き、あるいはどんな手続きを踏み、発電所の姿を知ればいいのか分からなかった。

福島第一原子力発電所について私が知っていることはそのようなことくらい。

最近、NHKの男性のアナウンサーが、第一原子力発電所の復旧中の模様を中継していました。
もうすぐ3月11日なので、テレビ局も特集を放映し始めてきているみたい。

3月って暖かい日が多くなりますね。
私はここ何年かの3月11日は何もしませんでした。モニターに向かって思いの丈を綴ることもしないし、ニュースからも離れるでしょう。謳われることから離れます。そのとき震災が起こったら?どこかへ隠れて朝を待ちます。
私は今年の3月11日はイヤー・クリーニングでもして過ごそうと思います。