隠された意味

「理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通常以上である。」萩原朔太郎「猫町」より

2月28日、岐阜県揖斐郡春日村中山に向かった。小西行長を祀る小西神社の祭礼と大般若の準備をする2月の末日、いつもこの村に向かう。

関ヶ原で敗れた小西行長はこの村に逃れ、密告でつかまって、呪いの言葉を吐いたので、たたりを沈めるためにお祭りをする。武将がここに逃れたことは事実でしかない。重要なのは、300年前のわずかな1日の事実が物語りになってしまうことだ。

川からいっきにせりあがる集落を形作る川原の石を積んだに違いない石垣。川からの湿気が登ってくる集落で「お宮さんからの風で村はいつも寒い」。その言葉を思い出しながら、川原に下りてみた。
墓の上にサルスベリの枝が落ちていた。石組みの墓の上に誰かが置いたに違いない茶碗が置かれている。

いまは、揖斐駅からバスで行くが、道路が通る前、この村は炭焼きも買い物も関ヶ原や垂井に向かっていたように、川をはさんで対岸の山に登れば、こちらは中山、向こうは垂井であり、春日全体を訪れた落人の数は数知れない。武将は合戦場のあった垂井(関ヶ原方面)から長谷川沿いに途中から“ヲバナ”の稜線を辿って川合に至ったと村の人は言う。オバナの稜線は北国への間道であったが、長谷川の源流は滋賀県への藤川にも通じている。法則があるとすれば滋賀県にはいかず、こちらに来たこと。なぜか、長谷川からはずれ、ヲバナを超え、中山の観音寺に隠れた。

「かわいそうなことをした」。その人は言った。かわいそうなことは、武将のことではないだろう。村が火事にあったことなのか、村の人が下へ出ていってしまうことを言うのか。7年も戦争に出た自分のことか。戦争で帰らなかった村の人のことか。聞くのを忘れてしまったのは、悲しげな伝説が村の風景と相まってメランコリックに響いていたからだろう。通説や伝説など真実を見誤らせる。武将がどこから来ても自分には関係のないことなのだ。それなら、自分はこの村で何を見ようとしているのだろう。見えない宇宙の法則を。隠された意味を。

垂井から登れば、こちらが春日。武将が通ってきた山。岩手峠当たりを越えた後、西には行かず、ヲバナの稜線を越えた。知られた間道ということだ。

垂井から登れば、こちらが春日。武将が通ってきた山。岩手峠当たりを越えた後、西には行かず、ヲバナの稜線を越えた。知られた間道ということだ。

「コゲラが鳴きおる。つがいじゃ」。小西神社は村の上方のお宮さんとお寺の隣の山のまた高いところにある。自分には一匹しか聞こえないコゲラを村の人はつがいと言った。「違う声がするから。」村ではまだ雪が残っている。武将の心を静めるための祭りは2月28日。小西さんが置いていった刀を埋めてあるのである。禰宜さんが、登ってくる村の人のために火を焚いていた。

「えらい、ここまであがれんて。下でやることも考えなあかん」。誰かが言った。 それでも、するめをふるまい、日本酒をふるまい、おまつりは終わり。武将が超えていったにちがいない稜線が見えている。

小西神社は社叢の一段高いところにあるので、杖をつきながら登ってくる。

小西神社は社叢の一段高いところにあるので、杖をつきながら登ってくる。

小西神社のお祭りが終わると、お寺でりんとう磨きがある。3月の第2日曜日が大般若さんなので、その準備のために、村人総出でりんとうを磨いたり、本堂を布で飾りつける。村人は18名。そのうちの10名以上がお寺に集まってくる。大般若さんとは、「五穀豊穣でも家内安全でもええ、願いをかなえてくれるありがたいお経」である。お経をめくるだけで読んだことになるとは言え、そのために、本堂を飾りつけ、りんとうを磨くのに1日かかる。

中山観音寺の本尊は千手観音であり、武将の菩提をともらうために美束からもらわれてきたと言われている。目の病に霊験あらたか、ということで大垣藩主の息女が中山にお参りにきたというえらい観音様なのだが、あまりに霊験あらたかなので、息女が山を超えてお参りに来るのはえらいということで大垣公が下へつれていってしまった。しかし、下へ下った観音様は大正に入って火事で焼けてしまった(栄春院)。こちらの観音様は、替わりに贈られた観音様なのだが、何度か火事にあっても、村人が救っていまも静かに暮らしている。本堂から外に投げ出されたり、肥桶をかけて火を消されたりと難儀しながらも静かに暮らしておられる。

この観音様であるが、少し疑問に思うところ、最近、春日村史をめくっていると興味深い記述を見つけた。

春日村史
春日村史592ページ(「美束長者平1886番地にある長国寺廃寺と、その後に建立されている五輪塔について、その時代、由緒等については、確たる記録はないが、樫のところ杉屋著『濃週揖斐郡春日村古今明細記』による」との前書きの後に続く。)
「延元年間(1336~1339)領主土岐美濃頼康、名僧有緑の霊場の荒廃を嘆き再興し、堂宇建立、仏像その他、全備せしめられたる古刹なりしが、土岐氏没落以後、堂宇修繕する人なく、堂宇はくち果て住僧泣きに至り寺の一部は、日坂へ移る、今の長国寺これなりと云ふ、今字長者平には石垣・寺跡・五輪石塔あり、また、泉水池の跡あり、四方に葦原を生ぜり」と記され、また、仏像については「薬師如来は池田郡日坂村長国寺へ移り、今尚長国寺の本尊是なり、観世音菩薩は種本観音堂に移る、千手観音大菩薩・釈迦牟尼如来・大日如来・四天王は中山観音寺へ移る。内、千手観音大菩薩は万治三年12月6日、安八郡北一色村(神戸町北一色)栄春院へ遷座、今尚、同院に奉安せり、四天王も同時に移る、釈迦牟尼如来・大日如来は、今尚、中山観音寺にあり、云々」と記録されている。

長者平の長国寺由来ということになると、またつぎのつながりを考えなくてはならない。長者平に五輪塔が残っているだけなのだが、長者平、長国寺にはなかなか興味深い研究が残っていおり、産鉄族や伊吹信仰のなかで十一面観音を考えなくてはならず、春日村一体は伊吹修験道や伊吹文化圏のなかで捉える研究があるようなのだ。また

続くの(予定)

3月の第2日曜日には大般若さんがあるので、小西神社のお祭りの日に、お寺の飾りつけをする。 村に春が来る。

3月の第2日曜日には大般若さんがあるので、小西神社のお祭りの日に、お寺の飾りつけをする。
村に春が来る。

5回目の3.11によせて 想ってたこと

日々の奮闘や悩みやおふざけの断面も伝わってくるから

その日だけが特別じゃないのになぁと思ってもいて

特有の光や影の熱量みたいなものがなだれ込んで

自分たちのことなのに別の場所で盛り上がっているような

サビだけ良いように切り取られたヒットチャートのような

それに毛羽立っている自分が情けなくも思った

それぞれの想いがあって良いって自分が言ってたのにね

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僕は国際試合を観て「日本の誇り」と胸に手を当てるタイプではないし

ライブ会場で一律の身振り手振りに身を任せる方ではないし

1人でぶらぶらと出掛けては周囲の空気感や関係性の

うねりやゆらぎを感じて物思いにふけっているような人間だ

そこに溶け込んでいるような、溶け込まないような、溶け込めないような

自分の器の中で悲しめる分だけしか悲しめないし、喜べる分だけしか喜べないし

会話の中にある“つまらないもの”“くだらないもの”の寛容性にも支えられていた

 

そういえば昨年の今頃は

追い風も向かい風も一度置かせてもらおうと思っていた

どれも大切で重みのあるものだから

簡単に捉えたり表現するものでもないと思っていた

だからせめて寝ても覚めても状況を知ろうと躍起になっていた

 

数が集まることで発生していたそれらの風や

それぞれの中にさえ生まれてしまった光と影

広まり

それまで大して語れるものなどなかったのに

体の中に行き渡らせすぎてしまったその体験を

その主語や定型文で語りすぎている罪悪感や違和感

重く語りすぎのような 軽く語りすぎのような

どちらでもない薄っぺらい感じのような

なんらかのかたちで加担もしていた

 

“どのあたりの感覚”でとらえて言えば良いのか

体は在るけれど言葉にするだけの元気がないような

言葉は在るけれど口にするだけの体がないような

頭と心と体が別の次元にいるような変な感じがしていた

 

風が渦巻く合間に置き去りにしていた等身大の“もやもや”や

様々な出来事の“喪失後”を生きる人はどんなことを想っているのか

そこではどんなかたちで表現がされているものなのか

それが辿り着いた先はなんなのか

そのままを“なんらかのかたち”で表現するには

それらの立ち位置に触れることが必要に思えた

そしていくつかの場に出向き、考え、

小さな対話の場を設けたりした1年となった

対話の場

対話の場

そう過ごす中で

“好い加減”と“いいかげん”をなくしたんだなと思った

それは地域や人間関係や自分の中にもあるものだったし

それらに守られてもいたんだなと

でもそれが許せないものにもなったから

それらを打ち消すように過ごして苦しかったんだなと

ここへきて少しだけ落ち着いて見ることができたのかな

日々の安心

向き合わなくてはいけない部分が露出したことは変わりないけれど

それらを結び付けてる“ゆるし”や“あそび”を含んだ

これからの”イイカゲン”をつくるために過ごしてもいいと思った

あとは元気ならばいい

今はそんな気持ちでいる

日々のこと

「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」のこと ②

これは「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」のこと① の続きです。

2015年3月14日。三軒茶屋。KENからの帰り道。(撮影・吉田葉月)

2015年3月14日。三軒茶屋。KENからの帰り道。(撮影・吉田葉月)

東北本線に乗って栃木県に帰る。ずっとKENでのことを思い出していた。
家族が暮らす、借り上げ住宅の畳に座る。

都市の緊張から解き放たれて、ふと、我に返る。そして気付いた。

自身を当事者から外してやらないと、あの絵とトークは、まともに受け入れられないものだったな、ということ。それほど惨い光景が見えてしまったのだ。

壷井明さんの表現と、その人が語った事についてあらためて思い返す。

当事者たちにとって、あるいは、当事者らを見守る多くの人たちにとっても、重要である事柄と言えそうなことであるにもかかわらず、聴かなければそのまま埋もれてしまいそうな現地の声や姿があるのだろう。私は、それを壷井さんの絵や言葉から感じ取った。

また、現地に赴きながらの制作スタイルに、私は一人静かに胸を打たれてもいた。

目には捉えにくいけれど、現地に漂っているものを捉えてしまった。
言葉にするとどこかで冷たく伝播されていくかもしれない。伝えたいけれど、伝えることに恐れを抱かせる現実。そんな中、絵画と呼べる表現にこそ出来る事があるのだという思いが浮かぶ。
そう思ったきっかけは、おそらく壷井さんがこう話しだした事に端を発するだろう。

「原発作業員に話を聴きたかった。だけど、どうやって出会えば分からなかった」

壷井さんが東京の路上で自身の絵を置いてみると、ほとんどの人が、怖いものに触れたくないというような面持ちで、それを避けていったそうだ。そんな中、たまに興味を持って近づいてくる人たちもいる。若者もいる。そんな人たちは壷井さんに、描かれている物に関する疑問を投げかけたり、感想を述べたりする。それに壷井さんが答える。対話が生まれるのだ。

或る時の事。路上生活者のような出で立ちの人がじっと壷井さんの『無主物』を見ているのに気付いたそうだ。
壷井さんが声を掛けてみる。
すると、その人は、

「以前、自分は福島で原発作業員だった」と話し出したという。

絵を置いてみたことで出会いが生じ、対話が生まれた。

おそらく、私も『無主物』に触れて、対話を始めようとする一人である。

家族や近所同士などの近しい間柄であればこそ、かえって開示しにくくなる思いもあるだろう。

外部に溜息が漏れないようにと、きつく縫い付けてしまった魂の入れ物。その入れ物の糸が外部からの介在によって、緩みを見せた時、内にあるものが溢れ出る。そんな景色が壷井さんが私に見せた景色だ。原発や放射能に翻弄され続けている人が救われ、世界とひとつとなれるような願いが、壷井さんの絵に込められている。

私はそう感じた。

壷井明さんは『無主物』をこれからも描き続けるのだそうだ。

「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」のこと ①

2015年3月14日。三軒茶屋。「KEN」の入り口にて。「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」の掲示。(撮影・吉田葉月)

2015年3月14日。三軒茶屋。「KEN」の入り口にて。「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」の掲示。(撮影・吉田葉月)

2015年、3月14日。
東京は三軒茶屋の、KENに向かった。「『NO OWNER SUBSTANCES 無主物A.D.2015』壷井 明 Akira Tsuboi」という展示とトークを見聞するために。

地下にある会場の扉を開けると、パソコン越しにこちらに向いて座っている人がいた。壷井明さんである。私に向けて挨拶の声がかかる。会話が始まった。

最近、福島県を訪れたのはいつであるか尋ねると、今年の1月であると壷井さんは答える。2か月前。そう遠くない、新しい過去だ。
壷井さんは、3.11以降、福島県に通いながら、仮設住宅に暮らす人や、原発作業員など、住人の声を直接聴き続けている。そして、そんな体験を経て顕わになる光景を、ベニヤ板に描いていくのである。そうして作られてきたものが、今回展示された『無主物-No Owner Substance-』だ。

KENの粟津ケンさんによれば、壷井さんは「現代における琵琶法師とか創世記のラッパーのよう」であるという。

私が、かつて双葉郡の住人であったことを告げると、壷井さんの表情に緊張が見えた。トーク開始の定刻近くになるまで、私の体験について話を聴いてもらう流れとなった。聴き手のスイッチを入れてしまったような気がして、自分の来歴を明らかにしたことを少し申し訳なく思った。

思ったものの…、
元福島県の住人で、避難者ともいえる私がこの日この場所に足を踏み入れたことを、予期せぬ出来事と思わせたとしても、異質なことではないはず。壷井さんの作品が、多かれ少なかれ、どこかで当事者性を感じている人間を引き付けた。その証拠として自分がここにいるとも言える。

私の後に、人がぽつぽつと訪れ始める。

壷井さんが絵の前に立ち、トークが開始となった。

2015年3月14日。KENのフロアで。私に映った光景。絵の前に立ち、当事者らについて話す壷井明さん(絵・吉田葉月)

2015年3月14日。KENのフロアで。私に映った光景。絵の前に立ち、当事者らについて話す壷井明さん(絵・吉田葉月)

壷井さんが描いたものについて語り始める。

何枚かの絵に登場するものは、防護服を着て鎖に繋がれている人たち、
赤い風船を手に持った二人の親子、
仮設住宅の前の広場で、ひとり佇む男性など…。

それらは、

建築業界の構造の鎖に繋がれるが如くに暮らしている原発作業員や除染作業員達について、現地で見聞きしたことによって浮かび上がったものだったり、

福島県のとある地において、孤立状態となりながらも、日常の平穏さを保つように生きる、子を持つ母親に出会ったことで浮かび上がったものだったり、

草木や土と共に育んだ身体を離れたが故、己の輪郭を失ってしまったかのような元農家の人と触れ合ったことで浮かび上がったものだったりする。

そんなふうに、当事者たちとの出会いが、壷井さんに絵を描かせているように思える。

描かれたものを起点に、当事者たちの言葉を代弁するかのように語り続ける壷井さん。その緊張の面持ちを、私は仰ぎ見ていた。壷井さんは、いつまでも話せそうだと言っていたが、時間となりトークが終了する。

私は、絵や言葉から成る空間を、ただただ浴びて佇むことしかできず、出会った人たちと別れ、その場を後にした。

(続く)

ヴェルトガイスト独自企画、Web2.0+民俗学「この国はどこへ行こうとしているのか 赤坂憲雄 毎日新聞 2015年3月11日」に、みなで寄せ書きしよう。

赤坂憲雄さんの記事を読んだ吉田邦吉編集長の投稿から
まとめきれていませんが、私の思うことをとりとめもなく書いてみました。

戦後の高度経済成長は、敗戦からの復興、国民の生活水準の向上というポジティブな面と産業公害による自然環境の破壊、中央一極集中による地方の疲弊など、ネガティブな面も日本にもたらし、私たちをとりまく環境を大きく変えてきました。

良い悪いということではなく、近代化という世界の趨勢なのでしょう。
環境の変遷は、私たちの内面にも変化を与えてきました。

山林を切り開いた高速道路やダムは、山の精霊や妖怪や口伝いで伝承されてきたものたちを「知識」や「書物」のなかに追いやってしまいました。
それは、西洋知をとりいれはじめた明治からあったのでしょう。

自然を畏怖する感覚、見えないものを感得する力は、自然と共存してきたことで育まれてきたのだろうと。
それは知識ではなく、感ずることでしか認識できないものです。
かくいう私も知識だけをあたまの中に格納しています。

けれども、人間に魂・スピリットというものがあるならば、それは近代化というような外的な事象で変わるのだろうか?と私は思うのです。
頭脳で知覚することと魂が感ずることの違いは、とても説明が難しく私の手に余るので割愛させて下さい。
ただ対立項でもなく併存しているものと考えます。
どちらか片方なんで人間はいませんから。

たぶん、道徳心や倫理といったものは、知識として教えられるものではなく魂の領域だと思うのです。
出自がどうとか、何をやっているとか、偉いとかださいとか、頭がいいとか悪いとか、富んでいるとか貧しいとか、すべての属性をとり払ったところの無垢の魂が感ずるもの。

地震と津波は、霊性や聖性を失った私たちに、魂で見ることを思い出させたのかもしれない。
生と死の境界が希薄になった場所で、魂を鎮めてくれるものを待っているのかもしれない。