イメージと思考と身体性

難しそうなタイトルをつけてしまいましたが、要はアタマとカラダの関係ついての四方山話よもやまばなし

私が今より0.8掛けくらいスリムで、筋力もあり、あごや首のたるみもまだ(気になら)なかった頃、モダンダンスを習っていました。
基礎的な身体の使い方を学ぶメソッドだったので、ベリーダンサー、パントマイマー、舞踏系、ジャズダンス歴の長い人など、いろいろな人が来ていました。

どのジャンルの踊りも、身体の可動域を広げるためにメソッドを使って訓練をするわけですが、それぞれ型があり、その型にのっとって振り付けをします。
最初から最後までインプロビゼーション(即興)で好き勝手に踊る場合をのぞいて、振り付けを覚える、あるいは身体の動かし方を習得するようなときには、必ず「あたま」で考えて「からだ」を動かします。決して気持ちのいい方向へ身体が勝手に動くわけではないですね。
しかし、「考えながら」踊っていると、振り付けの意図が伝わらないし、面白いことに第三者が見ると、あっ振りをなぞっているな、とすぐにみえてしまうのです。

そこで、指導者や身体表現者は、よく「考えるな」ということを言います。あたまで踊るな、とよく言われました。
振り付けの順番やここをどう動かそう、なんて考えるなくとも「無意識に」身体が動くよう、からだにたたきこませろというわけです。

「からだ」と「意識」との関係は、とても興味深いものがあります。
例えば、今私がこの文章をキーボードで打ち込んでいるとき、私の意識は眼窩がんかの奥くらいのところにある感じがします。(たぶん、脳のどこかなのでしょう)思考の流れを文章に書き写すことに集中し、手はあたまの指令に従って動きます。

そこで、意識を身体の内部、例えばおへその奥とかに集中させる、といってもなかなか難しいので、目をつぶって、のどから液体のようなものが入ってゆっくり食道を通りおなかに達する、というようなことをイメージします。
これはヨガや瞑想も同じようなことをしますね。身体から思考を引き離す訓練をするわけです。
名のあるモダンダンサーの方が、頭の内側を鉛筆でぐるぐる書いてみるとか、腕の内部をボールがころころ転がるのをイメージする、ということをワークショップで行っていたそうで、これも同様だと思います。
不思議なことに、客観的にみても人の動きはじめがどこから出ているか、かなり目に見えます。
身体の内部で具体的にイメージする、ということが鍵となる気がします。
脳科学的に言えば、イメージすることも脳のどこかを使っているはずでしょうが
論理的な思考とはまったく違うルートではあるようです。

そういう独特の訓練をして、作品を作ったりしていたわけですが、あるとき、暗黒舞踏をやっていた人が、あたまで踊ってもいいじゃないか、と言ったのです。
モダンダンスには古典のような厳格な規範はありませんから、あたまだけで考えた踊りも足の小指だけの踊りもアリじゃないか、なぜいけないのかと。
ちょっと自分の発想がひっくり返りました。(それが見て面白いとか、すばらしいものになるかは別として。)
その人は、他人との差異がおもしろい、とも言いました。
似たような価値観の人が集っている中で、肌合いの違うものを認めることに少なからず抵抗のあった私には、かなり衝撃でした。

話が身体性から離れてしまいましたが、思考することに偏重しているいま、「動く瞑想」みたいなものを、自分が昔していたことを思い出して、このところの自分の身体の崩れようは、加齢と運動不足のせいばかりではないかも、と思い至ったことです。